円城01:敬愛

敬愛


 ふと、誰かがこちらを見ているような気がした。
 誰だろう、と首を捻って見渡せば、教室の入口から入ってきたばかりのさんと視線が合った、ような気がした。だが、目が合うと無条件に差し出される笑顔が今日に限ってはなされない。
 どうして、と内心で首を捻るが、その疑念はほんの一瞬のものだった。交差したと思った視線が俺の顔よりも随分低い位置に向けられていることに気がつくと、なるほど、と口元は簡単に綻ぶ。
 そっと彼女の視線を追えば、正宗の姿が目に入る。俺が話しかけようが目の前で手を振ろうがお構いなしで読書に耽る正宗は、さんの視線が自分に向いていることに微塵も気付いていない。よく言えば集中しているとも言える。悪く言えば周りに気を払うつもりが無い様子の正宗に小さく息を吐く。本当に正宗はいつもこうだ。
 ――残念。気付いてないみたいだよ。
 そんな気持ちを胸に、さんへと視線を戻せば、正宗へとまっすぐに伸びていた視線はすでに外されていた。
 何事もなかったかのように自席へと戻るさんの背中を見送り、また正宗へと視線を向ける。当の正宗は、相変わらず難しい顔をしたまま熱心に文字を目で追っていた。
 本当にこの男は――。
 呆れと落胆。半々の気持ちが胸に綯い交ぜになると自然と溜息が漏れた。
 
「じゃあ、一応伝えたからな」

 もう行くぞ、と暗に伝えたところで正宗がこちらを振り仰ぐことはない。監督からの言伝を2、3伝えたが、果たして正宗に響いたかどうか。ちゃんと伝わっているかどうか、部室で着替えている時にでも確認してやらないとな。
 正宗の為人を知っている分、期待しても無駄だとわかっている。それでも残る釈然としない気持ちを抱えたまま後頭部を掻くと、そのまま自席には戻らずさんの席に立ち寄った。

さん」
 
 名前を呼ぶと、次の授業の準備をしていたらしいさんの手が止まる。こちらを振り仰いださんは目が合うと途端にパッと笑みを浮かべた。その表情に、やはりさっきは正宗を見ていたのだと確信する。
 
「おはよう、円城くん」
「おはよう。今、少しいい?」
「うん。遠征の間のノートだよね」
 
 準備ならできてます、と言わんばかりの表情を浮かべたさんは引き出しから数冊のノートをサッと取り出すとそのまま俺へと差し出した。英語、数学Ⅱ、古典。いずれのノートも今日の時間割にはない科目だ。あらかじめ俺に声をかけられることを想定していたらしいさんの準備の良さに自然と口元は綻んだ。

「あぁ。いつも悪いな」
「いいよ。円城くんのお役に立てるなら」

 控えめな笑みを浮かべたさんに俺もまた目元を和らげて応じる。早速、と、渡されたばかりのノートをパラパラとめくり、内容に目を落とした。相変わらず綺麗な字でまとめられたそのノートは、教師の発言をわかりやすくポイントを絞って書き込まれている。さらっと見ただけでもその授業での様子がわかるほどの出来に内心で舌を巻く。
 他に頼める男子もいるが、さんを頼る理由はそこにあった。授業を受けてない俺でも理解出来るほど丁寧に書き込まれたノートにいつも助けられている。

「色んな人に借りたけどさんのノートが一番見やすかったからさ。――本当に助かってる」

 1年の秋、隣の席になった時だっただろうか。大会中の授業のノートを見せてもらって以来だからもうこの関係も半年以上経つ。毎度毎度、嫌な顔ひとつせず自分の労力を惜しみなく差し出してくれるさんに感謝の念は絶えない。正直、2年のクラス替えで同じクラスになれた時は助かったと安堵の息を吐いたものだ。

「そんな、お礼を言われるほどの事じゃないよ。ちゃんと授業を受けるのは自分のためでもあるんだし」

 謙遜するような笑みを浮かべ、両手を左右に振ったさんに「それでも助かってるのは事実だよ」と伝えれば、さんは肩を小さくさせた。恐縮させてしまったことにほんの少し眉尻が下がる。もっと誇ってもいいのに、どこか気の弱いところがさんにはあった。
 ――うちのエースもさんの一割くらい謙虚な姿勢があればな。
 正宗の顔を思い出そうとすれば憮然とした表情ばかりが頭に浮かぶ。先輩や外部の人に褒められようが愛想笑いのひとつも差し出さない正宗が、もしさんのように恐縮する姿を見せたら。そんな想像を巡らせるままに照れくさそうに頭を搔く正宗の姿を頭に思い描いた途端、露骨に顔を顰めてしまう。
 ……怖い想像をしてしまった。我ながらなんてものを望むんだと後悔が押し寄せる。
 不遜な態度を見せる正宗は、態度はどうあれ、アイツの性質にあっている。今の正宗を気に入っている人間が少なくないこともその証明だ。
 そこまで考え、ノートに落としていた視線をさんへと差し向ける。じっとこちらを見上げていたらしいさんは目が合うとほんの少しだけ首を傾げた。

「そういえばさ、さんにひとつ、聞きたいことがあるんだけど」
「うん。なに? あ、試験に出そうなところだったら赤で花丸つけてるとことか、先生すっごい黒板叩いてたから出ると思うよ」
「いや、授業のことじゃなくてさ」

 周囲に視線を向け、こちらに気を払っている人物がいないことを確かめると、スっとさんの傍らに腰を落とす。右手のひらを口の横で立て、左手でノートを持ったまま手招きをすれば、内緒話をしたい俺の思惑に気付いたらしいさんが耳を欹てるようにこちらに頭を傾けた。
 くっつきすぎないように注意を払いながらも少しだけ顔を近付け、声を潜めて言葉を紡ぐ。

さんって結構正宗のこと見てるよね」

 正宗のことを気に入っているらしいさんに、以前から気づいていた点を指摘する。さっきだけじゃない。合同体育の時や、練習試合の応援の際も、決まってさんの視線の先には正宗がいた。
 立ち上がりながら胸の前で腕を組み、さんの反応を伺う。きゅっと唇を引き締めたさんのまん丸な瞳が面白いくらいに揺れていた。普段は大人しく穏やかな表情ばかりを見せるさんの動揺は目だけでなく、赤く染まった耳元にもハッキリと顕わになる。

「えっと……」

 忙しなく手のひらを顔に当てたり前髪を触ったりするさんは、たった今、自分が譫言をこぼしたことにさえ気付いていないのだろう。面白いほどに目を泳がせるさんから視線を外し、手の甲で口元を隠しながらプと笑う。
 ――わかりやすいよなぁ。
 もう少しつついてみたい。そんな意地悪な気持ちがないと言えば嘘になる。だが、これ以上混乱させるのはさすがに気の毒だ。

「やっぱり答えなくていいよ。なんとなく察しは付いたから」
「えぇ……それはそれで困っちゃうんだけど……」

 あわあわと戸惑う様子を見せながらも否定はしないところに、正直者だなあと妙なところで感心してしまう。手のひらを胸に押し付け、長い息を吐いたさんは眉尻を下げ、こちらを振り仰いだ。

「そ、そんなに見てたかな?」
「いや、俺が正宗と普段一緒にいるから気付いただけだと思うよ」

 暗に俺以外は気付いてないことを伝えると、耳の下で結んだ髪の先を縋るように握りしめていたさんはほっと息を吐いた。指先から力を抜くままに軽く椅子の背もたれに背中を預けたさんは、たった今、話題になったばかりの正宗に視線を向けようとしたのだろうか。微かに顔を動かしたものの、肩から後ろを振り返ることなく机の上に置いたばかりの手を軽く握りしめるだけに留めた。
 気にはなるけど、気にしたらいけない。そんな風に自分を押し止めたように見える仕草に、傍目から見ているだけの俺までドギマギしてしまう。クラスメイトの見せる静かな恋を指摘したのは自分であることを棚に上げ、妙な照れくささを持て余す。
 いや、それにしても――。

「……意外だったなぁ」
「ん?」
さんが正宗を選ぶの」
「選ぶ、とかそんな大それたことは……」

 手の甲で口元を隠したさんは、背もたれに預けていた身体を起こすと、そっと肩で息を吐いた。

「……ただ、憧れてるの」

 さんの言葉に思わず目を瞠る。負けず嫌いな超絶無愛想のどこに憧れる要素があるんだろうか。
 あの正宗に憧れる、ということは正宗のようになりたいとさんは望んでいることにほかならない。正宗にさんの要素を足してもいいことにならないことは想像済みだ。だが、その逆なんて考えるまでもない。顔を顰め、愛想の欠けらも無いさんなんて見た日には愕然と膝をついてしまいそうだ。

「正宗は悪いヤツじゃないけど、さすがに憧れるような性質はないと思うぞ?」
「それでもいいなって思うの。興味無いことをハッキリ拒絶できるのって勇気がいるから……ほら、私〝断れない女〟だし」

 その言葉の意味が頭に染み入ると同時に息を呑む。
 眉尻を下げたまま口元を緩めるさんは〝断らない女〟と呼ばれている。それは陰口なんかでは決してなく、賞賛や親しみを込めた言葉だ。クラスメイトも教師も、困った時に誰もがさんを頼りにした。
 だが、彼女が言う通り〝断れない〟のが起因だとすると前提がガラリと変わる。〝嫌なことを押し付けられている〟とさんが感じているのなら、こうやってノートを借りることさえも、もしかしたら迷惑に思われているかもしれない。
 一瞬、焦りにも似た心境が湧き出たが、断片的な会話で判断を下すのは早計だと考えを改める。先走って「今まで散々ノートを借りて、迷惑をかけてすまなかった」なんて謝って楽になるのは自分だけだ。さんが、自分の言葉が俺に不快感を与えたのでは、と先回りして考えるような女の子だとよく知っている。
 さんに気を遣わせてしまう結果になりかねないのであれば、もう少し、彼女の話を聞くべきだ。
 喉から突いて出そうな謝罪を飲み込んで、焦る心境を抑え込むと、無理矢理に笑顔を浮かべて見せた。

「俺はさんが正宗みたいになったら困るなぁ」
「なれないよ」

 ひとまず、自分の本心を伝えてみると、さんは苦い笑みと共に肩を揺らした。目元にほんのり熱を滲ませたさんは、軽く頭を左右に振って口元を緩める。その瞳にはありあまるほどの羨望が滲んでいた。
 
「あんなにかっこよくなんて、なれない」

 言って、微笑んださんに思わず目を細める。バッテリーを組む相棒へと向けられた情愛は、尊敬や憧憬にまみれていた。
 瞬きをひとつ挟めば、さんは普段通りの表情に戻っていた。一瞬だけ垣間見えた恋をする表情に面食らっていた俺は、頬を膨らませて息を吐き出す。たじろいだ心境を立て直すまでには至らなかったが、胸の奥につかえたような居心地の悪さは追い払えた。

「かっこいい、か。意外とストレートに褒めるね」
「うん。きっとみんな本郷くんのことをそう思ってるだろうし、私もちょっとくらいなら素直に言ってもいいかなって」

 こちらを見上げたさんは、俺と目が合うとほんの少しだけ眉尻を下げた。正宗のことを「かっこいい」と誉めそやす女子は少なくない。実際、甲子園で優勝して以来、その人気はうなぎ登りの一途を辿っている。直接正宗から聞いたことはないが、告白された数なんてとっくの昔に両手の指を越えていることだろう。
 女子に呼び出されては不貞腐れて帰ってくる姿を思い描くと自然と苦笑が浮かび上がる。思春期真っ只中の今、女子にまっすぐな想いをぶつけられてなお、浮かれることも慢心することもない正宗は、今、こうやってさんに想われていることを知らない。
 知ったらどうなるんだろう、と思う気持ちもなくはない。だが、他の女子と同様にさんがすげなくされる可能性があるのならそう簡単に橋渡しを申し出る気にもなれなかった。

さんは正宗みたいになりたいかもしれないけどさ。俺はさんのそういう素直なところ、いいと思うよ」

 正宗じゃなくて悪いけど、と心の中で付け足しながら、フォローの言葉を伝えると、さんは意外にも晴れやかな笑みを浮かべた。
 
「ありがとう。私も実は今の性分も気に入っているんだ。人に頼られるとやっぱり嬉しいし、じゃあ次も役に立てるように頑張ろって思うもん」

 正宗のようになれないと自分を下げるでもなく、俺の言葉を素直に受け入れたさんに自然と口元がほころんだ。それと同時に断れない性分も悪くないと称した彼女の言葉にそっと胸を撫で下ろす。

「断れないのも悪くないの。ただ、本郷くんみたいだったらどうだったんだろうな、って考えちゃっただけだから」
「俺は出来たら正宗みたいにはなってほしくないけど、困るときはちゃんと言ってよ。俺も頼り過ぎちゃったら申し訳ないし」
「普段は迷惑に思ったことないけど、試験前とか困るタイミングだったらちゃんと断ると思うからそのときはごめんね」

 借りるのは俺の方なんだから、謝る必要はないのになぁ。そう思いつつも、その控えめさもまた、さんの美徳だと思えば頭から否定する気にはなれなかった。

「じゃあ、ノート借りてくね。今日中には写し終わると思うから」
「うん。でも急がなくても次の授業までに返してくれたら大丈夫だよ」

 目元を緩めたさんだったが、ハッとなにかに気付いたように表情を一変させる。

「あ! 待って、円城くん!」
「ん?」
「あのね、円城くん。さっきの、その、話なんだけど……」

 焦燥と羞恥が混じり合っているのだろう。これ以上ないほど顔を赤くさせたさんは、存分に言い淀む姿を見せる。だが「どうして」なんて愚問を口にする必要は無い。大方、正宗への想いを誰にも言わないでくれ、と言うことなのだろう。
 正宗の名前を口に出せないほど、照れたさんの動揺っぷりに思わず口元を綻ばせた。

「あぁ、もちろん。ふたりだけの秘密ってことで」

 唇の前で人差し指を立てて応じると、さんは安心したように笑った。

「ごめんね。変な話しちゃって」
「いやいや、妙な話題を振ったの俺だから。じゃあ、またね」
「うん、またね」

 バイバイ、と手のひらを揺らしたさんの動作に合わせて俺もまた手のひらを翳して自分の席へと戻る。昼休みになにかお礼のお菓子でも買いに行こうと頭に浮かべながら借りたばかりのノートと自分のノートを机の上に広げた。

「さて、と……」

 筆箱からシャーペンを取り出し、自分のノートへ写しに掛かった途端、手元に影が差す。誰か来たのかと顔を上げれば、憮然とした表情を浮かべた正宗が立っていた。
 突然の来訪に思わず息を呑む。
 ――トイレか移動教室がなければほとんど席を立たない正宗が何故ここに?
 訝しむままに顔を顰めると、正宗はますます渋面を刻んだ。

「なにやってんだ」
「なにって……見りゃわかるだろ。遠征中の授業のノート、写そうとしてるんだよ」

 問いかけに対する答えを聞いてなお、硬い表情を浮かべたままの正宗に内心で首を捻る。
 ――何が不服なんだ、一体。
 俺の困惑をよそに、下唇を押し上げたままこちらを見下ろす正宗の目線がそっと俺から机の上へとずれた。開かれたノートに視線を降り注ぐ正宗は、すでに十分寄せられた眉根を更に険しくさせる。
 女子から借りたものだと一目瞭然のノートを見つめる正宗が、今、何を考えているのか。わざとらしく騒ぎ立て、付き合ってるのかなどとからかいの言葉を浴びせるような男ではないのは重々承知している。だが、思ったことを口に出さないことの方が多い正宗の思惑は図りようがない。
 しょうもない誤解をされるのではないかと内心で肝を冷やしていると、正宗は険しい表情を緩ませもせず薄く唇を開いた。

「……のか」
「あ、あぁ。そうだよ」

 ノートの持ち主を指摘した正宗の迫力に呑まれ辛うじて頷いて返す。だが、俺の返答を得た正宗は、それっきりまた口を閉ざしてしまう。じっとノートを見つめたまま押し黙る正宗を、俺もまた黙って見上げる。
 俺がさんにノートをよく借りていると、正宗には伝えていない。それは別に隠していたつもりはなく、取り立てて話題にする必要がなかったから言わなかっただけだ。だが、さんの想いを知ってしまった今は、状況に対する心構えがガラリと変わる。
 正宗に誤解されさんが不利益を被るのであれば、早い内に訂正しなければならない。だが、そもそも正宗相手に切り出すべきか否か。相変わらず顰めっ面を浮かべたままの正宗を見上げ、思わず喉を鳴らした。人の話を聞く気のない正宗だからこそ、判断に迷う。
 ――それにしても、なんだって今なんだ。
 こんな時にだけ話しかけてくる正宗も正宗だ。いつもは俺の話なんて話半分どころか二割も聞かないくせに、なんで今回に限ってやってくるんだ。
 さっきだって俺をいない者扱いしていたくせに、と内心で悪態をつきながら、さんのノートを閉じ、俺のノートと重ねて机の端に寄せた。それでようやく正宗の視線がノートから外れたのを確認し、ほっと安堵の息を吐く。

「後でお前も見るか? 俺が写し終わってからになるけど……さんのノート、すごく見やすいから――」
「いらん」

 俺の言葉を遮って断りを入れてきた正宗は、顔を顰めて不快感を露わにする。それだけでは飽き足らず正宗はフン、と鼻を鳴らすとそのままそっぽを向いた。コイツはまさか試験を放棄するつもりなんだろうか。補修や再テストで野球に支障を出さないためにも誰かのノートは借りた方がいい。1年の時はクラスが違ったからどうやって乗り切ったか知らないが、2年になって同じクラスになった今、俺の目が届くうちはやけっぱちになんてさせない。

「何言ってるんだよ。誰かに借りないと試験で困るのはお前だぞ。さんにお前にも貸していいか聞いておくからあとでちゃんとお礼言っとけよ」
「お前のを借りるからいらねぇっつってんだろ」
「なっ……!」
 
 ――言われてねぇよ!
 心からの叫びを内心だけに止めたことを誰か褒めて欲しい。言葉足らずだとかそういう次元じゃない。正宗は雑談ってものが出来ないのか。いや、出来ないからこそ正宗だ。知っていたけれど、改めて目の当たりにするとこのまま机を叩きたいような歯痒さが胸に湧く。
 バッテリーを組む者として配球の意図を読むことは出来ても、日常生活ではほとんど役に立たない。無関心を貫くか、不満ばかりを表に出す正宗が相手では尚更だった。
 おおきく吐いてしまいそうな溜息をすんでで堪え、唇を細めて細く長い息を吐き出す。わき上がった怒りをなかったことには出来ないが、それでも正宗相手にぶつけないようにと気を払いながら、努めて冷静に振る舞うよう心がけながら口を開く。
 
「別に俺は構わないけど……さんのを直接見た方がいいんじゃないか? まるっと写すつもりだが見やすさはだいぶ落ちると思うぞ」
「……」

 俺の提案に対し、黙りを決め込んだ正宗が今、何を感じているかは知りようがない。じっと見上げたところで不満げな表情が緩むこともなく、今の心境を正宗が説明してくれることもまたなかった。
 正宗の反応を待つ俺の不毛な視線をよそに、不意にこちらへ手を伸ばした正宗は机の端に寄せていたノートを拾い上げる。あ、と反応する間もなくさんのノートを開いた正宗は顔は顰めたままそれに目を通し始めた。
 唇を真一文字に引き締めたままノートを捲る正宗を、黙ったまま見上げる。このまま正宗が翻意してさんのノートを借りるって言えばいいのに。そう思うのは正宗の学業への懸念もあるが、友として十分正宗に推薦できるさんの恋が少しでも報われたらいいのに、と思う心によるものだった。
 どう転ぶのか見守るような気持ちで正宗を見上げているが、相変わらず正宗の表情は絵に描いたような険しさを保っている。授業の進む速度に圧倒されるようなタマじゃないからこそ、本当に何を考えているのか見当も付かない。
 わからないなりに、じっと見上げている俺の視線なんて気にもとめない正宗は一通り内容を読み終えたのだろう。顔を上げた正宗は手を翻し、パタンとノートを閉じた。そのままこちらへと返されるのかと動作を先読みし、軽く手を浮かせる。だが、閉じたノートの表紙へとまたもや視線を落とした正宗に、まだ返却されないことを悟り、浮かせたばかりの手を机の上に下ろした。
 何を見てるんだ、と内心で首を捻ったのも束の間だった。指先でノートの下半分あたりをなぞる正宗の姿に、唐突に違和感を覚える。だが、言いようのない感覚は喉元をヒュッと通り過ぎてしまえば、後からその感触を追いかけたところでまったく正体を掴ませてくれない。
 内心で冷や汗を掻くような心境を抱えたまま、ひとまず俺に出来ることはなんなのか頭を巡らせる。さっきはあっさりはねのけられたが、思いのほか熱心にノートを見つめる正宗の姿を見た今、またノートを借りるよう進言してみてもいいかもしれない。正宗が翻意している可能性がある今、その背中を押す役目は俺にあるのではと思えた。
 
「大丈夫だよ。さんならお前に貸すって言っても絶対に嫌がったりしないから」
「……だからだ」

 端的に言葉を零した正宗に思わず口元を引き締める。
 言葉足らずだから勝手にこっちで補足するほかないが、恐らく「嫌がられないからこそ借りない」と正宗は言ったのだろう。ドキリと心臓が締め付けられるような感覚が走ったのは、さんが自分のことを「断れない女」だと認識していることを知ったせいだった。
 ――正宗は、もしかしたらさんの優しさを当てにすることを良しとしていないのかもしれない。
 俺の戸惑いを気にするでもなく黙りを決め込んだ正宗は、手にしていたノートをこちらに差し出した。押しつけられるままに受け取れば、ノートを手放した正宗はまっすぐにどこかへと視線を伸ばす。
 釣られるように視線を追えば、隣の席の女子と談笑するさんの姿が目に入る。楽しそうに笑うさんが、正宗の視線に気付くことはない。もったいない、と悔やんだところでさんにこちらを向くように合図を送る術はなく、ただ俺は歯痒さを募らせることしかできないでいる。
 だが、先程と真逆のシチュエーションを目の当たりにすると同時に、正宗の視線に疑念を抱いた。
 ――そもそも、なんで正宗はこのノートがさんのものだって気付いたんだ?
 表紙に書かれた名前を見て指摘されたのなら何も違和感はない。だが、あの時点で正宗が目にしたのは開かれたノートの中だけだ。
 まさかノートの書き方でさんのものだと言い当てたとでも言うのだろうか。例えば、当てられた問題を解くために黒板に書いたさんの字体を覚えていたとか?
 シチュエーションとしてはたしかに何度かあった。だが、そんなことで正宗がいちいち他人の字を覚えるとは思えない。
 それよりも、前にさんからノートを借りたことがある、と言われた方が納得出来る。だが、たった今、さんのノートを借りることを拒んだ正宗が、彼女から直接借りたことがあるとは想像し難い。
 様々な仮定を頭に描いては否定する。繰り返し考える中、いくつかの可能性を捨てたところであるひとつの仮定が頭に浮かび上がった。
 ノートから持ち主を読み取ったと考えていたが前提が違うのかもしれない。
 さんの席から戻った途端、正宗は俺の席にやってきた。俺が話している間は無視を決め込み、用事があったとしてもこちらに寄り付こうともしないあの正宗が、だ。
 ――もしかしたら正宗は俺がさんと話しているのを見ていたのかもしれない。
 かき集めたピースを無理矢理繋ぎ合わせるような仮定だったが、今まで考えた想像の中で一番しっくりくる考えだった。
 ――だとしたら、正宗も意外とさんのことを気にしてる、のか?
 珍しく話しかけに来たかと思えば話題に上ったのは今のところさんのノートのことだけだ。さんに興味があるのか、それとも勉強に対する危機感を抱いただけなのか。正宗の表情から読み取ることは難しい。
 答えが出そうで出ない。そんなやきもきした心地を持て余す。だが、ここで俺がひとりで悩んだところで何も解決しない。
 試すようで悪いがここはひとつ、賭けに出てみるか――。
 きゅっと口元を引きしめ、正宗の顔色を窺う。確認したところで何かわかるわけではないが、今から投げかける言葉に対し、表情を変えるかどうかの判断くらいはできるはずだ。

「さっき、似たような話をさんともしたが……さんは頼られるの嬉しいって言ってたぞ」

 ただの友人である俺の役に立てるなら、と顔を綻ばせたさんが、他でもない正宗に頼られたと知れば、きっともっと、喜ぶはずだ。そんな気持ちを込め、正宗に進言した。
 だが、こちらに一瞥を流した正宗は、いつものように渋面を刻むだけだった。

「くだらねぇ」
「え?」
「頼られてるわけじゃねぇだろ、アレは」

 心底忌々しげに吐き捨てた正宗に思わず眉を顰める。どういう意図の言葉か確かめようと口を開いた。だが俺が言葉を吟味する間もなく、流した視線を再度さんへ伸ばしたらしい正宗は、きつく眉根を寄せ彼女を睨み付ける。

「腹が立つんだよ。周りに良いように使われてヘラヘラしてるやつを見てると」

 顔を顰めてさんを睨む正宗の双眸に思わず喉を鳴らす。嫌悪や憎悪といった言葉がよく似合う視線に怯んだというのもあった。だがそれ以上に、周囲のことなんてまるで気にも留めない正宗が悪い意味とは言え、さんのひととなりを把握していることに心底驚いてしまう。
 思わず目を瞬かせて正宗の動向を見守ったが、相変わらず鋭い視線をさんに向けるだけだった。一瞥と称すには十分長い時間、さんを睨んだ正宗は、ひとつ肩で息を吐くとそのままこの場から立ち去ろうとする。
 だが、さすがに今のままでは帰せない。いくら他人に興味がないとは言え、さんの美点を悪し様に言う正宗の態度を黙って見過ごす訳にはいかなかった。

「待てよ」

 椅子に座ったまま振り返り、短く呼びかければ、こちらを振り返った正宗の鋭い視線が肩越しに差し向けられる。思わず怯んでしまいそうな心地を抑え込むようにぎゅっと拳を強く握り、正宗へと言葉を投げかけた。

「ヘラヘラなんて言うなよ。さんは、ほかのひとにちゃんと信頼されていろいろ任されてるだけじゃないか。他人の期待に応えられる力を持ったいいこだよ」
「――そんなこと知ってんだよ」

 怒気にまみれた言葉を吐き捨てた正宗はそれだけでは飽き足らず舌を打ち鳴らしてこちらを睨めつけた。呆然とした心地で言い淀む俺に対し、正宗はハンと鼻を鳴らすと、それ以上何も話すことは無いとばかりにさっさとこの場を立ち去っていく。
 怒りの滲む背中を見つめながら唇の先を尖らせる。正宗の言い分に釈然としない心地を抱えながら後ろ頭を搔くとひねっていた身体を前へと向けた。机の上に両肘をつき、指先同士を絡めて額に押し当てると同時に、横目でさんへと視線を流す。
 机の横にかけたスクールバッグに手を差し入れながら軽く後ろを振り返ったさんの視線は、恐らく正宗へと伸びているのだろう。
 瞬きを挟む間に逸らされた視線にきゅっと口元を引き締める。まっすぐに伸びる視線が、交差しないまま離れていくのを見るもどかしさに自然と溜息は漏れた。
 俺は正宗が、さんの為人を誤解しているようだから訂正したつもりだった。だが、あの正宗の口ぶりからすると、さんの性質を知った上で気に入らないと吐き捨てたように聞こえた。
 ――いいこだと知って、腹を立てる意味がわからない。
 長い付き合いになるが、アイツの考えていることはちっともわからない。自分の中にない判断基準をもってさんの評価を下した正宗の思惑を理解しようにも、そもそも正宗はあまり口数の多い方ではない。どの球を投げたいか、どのコースで打ち取りたいのか。その判断だけで精一杯だ。
 だが、正直まったくと言っていいほど納得していないが、これ以上、正宗に対して腹を立てるのも不毛すぎる。何より、さんの恋心を知っている以上、いくら彼女のためにとは言え、正宗のことを悪く思うのも良くないだろう。
 強く息を吐き出し、机の端に寄せていたノートを手に取ると、先程の正宗がそうしていたようにじっと表紙を見つめる。丁寧な字で書かれた〝 〟の名前に対し、正宗は一体なにを考えていたのやら。基本的には怒っているか興味ないかの二択だから、今回の件もおそらく前者なのだろう。
 後頭部に手をやり、髪を指先で掻き乱す。尖る唇の先を、内側に挟み込み、口元を引き締めた。
 好悪の結果はどうあれ、正宗が他人を気にかけるのは本当に珍しいことだ。興味が無いよりあった方がいい。そう考え直すことで、釈然としない怒りは腹に収めるよう努める。
 ――いつかその興味が好転するといいのにな。
 気のおけない友人のひとりだからこそ、その恋が叶えばいいのにと思う。相手が正宗では苦労することも多いだろうけれど、なにかフォローできることがあるなら力になってやりたい。そんなことでいつも世話になっているお礼にはならないだろうが、せめてそのくらいの気概は持っていたい。
 ふぅ、と肩でひとつ息を吐く。いつまでも鬱屈した想いなんて抱えていられない。そう気を取り直した俺は、シャーペンを手にし、さんから借りたノートを写しに掛かった。



error: Content is protected !!