江崎01:最愛

最愛


 いつもの日課となった自主練を終え、あとは就寝するだけとなった時間。樹と杉と俺の三人で寮に戻る道すがら、部屋に戻る前にたまには何か飲もうぜという話になり、そのまま自販機に立ち寄った。
 それぞれが飲み物を買い、近くのベンチでペットボトルを傾ける。はじめはちょっとだけのつもりだった。だが、いざ話し始めると、アレも言ってなかったコレもそうだと、ちょっとした話題が芋づる式にぽんぽん出てくる。
 夏の甲子園を経て、3年の引退と共にレギュラー入りしたことで、こうやって3人で話す機会はますます減った。練習漬けの毎日だからこそ、ちょっとやそっとでは話題は尽きない。
 談笑の弾む中、偶然、3人が同じタイミングでペットボトルを傾けたことで会話が途切れる。シン、と静まった廊下の奥で上級生たちの笑い声が響いた。
 ――今のは多分、矢部さんの笑い方だな。
 今日も盛り上がってんな、と思いながら湿った口元を手の甲で拭う。ふと、気持ちが落ち着いた途端、今どのくらい時間が経ったのかが気になった。

「そういや、今、何時くらいだ?」
「あー。結構話し込んじゃったもんね……何時だろ。ちょっと待って」
「おぅ、悪いな」
 
 おもむろに尋ねると、隣に座った樹がジャージのポケットに入れていた携帯電話を取りだした。携帯電話を操作し始めたのを横目に眺めながらもう一度、とペットボトルを傾ける。練習中の声出しとは違って大声を張り上げていないのに、案外喉は渇いていたらしくぐんぐんと喉奥に染み入った。
 そのままの勢いで飲みきると、ぶはっとひとつ息を吐いた。唇からペットボトルを外すと同時に上体を左へ傾け、樹の携帯画面を横から覗き込む。白文字で大きく表示された時刻はもうすぐ就寝時間になると示していて、思わず落胆と衝撃の入り交じった溜息を吐きこぼした。
 もう寝なきゃじゃん。歯を磨いて、宿題の見直しをして、明日の練習の準備して、などと考えながらぼうっと樹の携帯を眺めていると、ふと、待受画面の全体に焦点が合っていく。そこにはかわいい系の女子のはにかんだ笑顔が写し出されていた。
 ――またアイドルのCDジャケットかなにかか? 好きだねぇ……。
 大方、ラブソングがテーマの曲なのだろう。ふたりで自撮りをしているシチュエーションを意図する構図の中、腕を伸ばした少女の隣には微かに男の肩が写っている。
 匂わせ写真というべきか。むしろこのCDを買った相手に自己投影させる意図があるのか。隣に立つ相手に恋をしているのだと言わんばかりの少女の表情に、よくあるアイドルの恋愛商法じみた思惑を感じ取る。あざとさに満ちた画像だが、そんなアイドルに熱を上げている樹にとっては溜まらない写真なのだろう。
 呆れとも感心ともつかない感情が湧き上がるままに息を吐く。だが、まばたきをひとつ挟み、もう一度その画像が目に入ると、その少女の衣装がうちの学校の制服に似ているのでは、という考えが浮かび上がる。
 ――ん? 似てるっていうかそのものか?
 数度、まばたきを繰り返したが、一度認識した印象は変わらない。自分の目の錯覚ではないのかと訝しみながらも、曖昧に視界に入れていただけの視線が観察するような眼差しへと変遷する。
 カーディガンにつけられた校章を目にし、やはりうちの女子の制服だと確信を抱く。それと同時に、よくよく見ればその少女の顔に見覚えがあることに気がついた。漠然と知らないアイドルのひとりだと思っていた顔が、とある同学年の女子だと認識すると同時に思わず息を呑む。
 照れくさそうな笑顔で写る少女は、樹のクラスの女子のひとりであり、樹の想いびとでもあるだった。

「え。樹……。それ、じゃん」

 確信すると同時にそんな言葉が思わず漏れた。俺の指摘に肩を震わせた樹に、しまった、と内心で焦る。慌てて手のひらで口元を覆ったが、そんなのは後の祭りってやつだ。こちらを振り返った樹の表情は、驚きと戸惑いに満ちていた。

「なんだよ。勝手に見ないでよ……」
「わ、悪ぃ。つい時間が気になって……」

 ついうっかりとは言え、至極プライベートな空間を覗いてしまったことに罪悪感が募る。ただ単に時間が見たかっただけだ、なんて言い訳も口に出したところで、なんのフォローにもならないだろう。
 ちょうどベットボトルを捨てるために立ち上がっていた杉に聞こえていなかったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。気まずい沈黙が流れる中、手のひらで携帯画面を隠した樹の表情がみるみるうちに赤く染まっていく。
 耳まで浸食された熱を目の当たりにするとこっちまで照れてしまう。手のひらで覆っていた口元をさらに広げ、鼻の下全体を隠しながら思案する。
 さて、たった今、得た情報に対し、俺はどう振る舞うべきか。これが「この写真のってかわいくね?」なんて持ちかけられた話題ならば、喜び勇んで乗っかったことだろう。
 だが、今回は違う。携帯の待受にしてしまうほど、樹はに対し恋心を募らせているらしい。淡い片想いにしてはいささか重い行動のような気がするが、そこは個人の自由ってやつだ。俺が口を挟む必要なんてない。それに夏大決勝のあとに話をする樹とを目にしたが、割と仲よさげな空気があったし友だちとしてうまくいっているのだろう。
 自らを納得させるべく考えを巡らせながら、うんうん、と頭を揺らす。それでも未だに折り合いのつかない動揺は根深く残っている。
 胸の前で腕を組み、もう一度樹の表情を横目で盗み見る。耳どころか首の辺りまで赤くした樹はこっちが見れないとばかりに俺から視線を逸らしたままだ。まだ残る羞恥の残滓を目の当たりにすると、ガチ恋じゃねぇかとますますからかってはいけないような心地がわき起こる。
 だが、その表情に注視すると印象はガラリと変わる。引き締めようと努力の見えた口角は上がりきっているし、普段は割と力の入っている印象な目元なんてデレデレと目尻を下げている。
 ――これは照れて嫌がる素振りを見せてはいるが、実は話したくてたまらないって顔なんじゃないか?
 ふと、頭に思い浮かんだ考えが正しいかどうか。確かめるためには樹本人に聞くしかないだろう。突っつくと俺がダメージを負う予感はある。だが、この機会を逃してしまえば後から気になったときに悶々とする未来が待っているはずだ。っつーか、今、聞かないと今日の夜眠れる自信がない。
 ここはひとつ、距離感を確かめながらも〝聞く〟一択だ。

「なぁ。樹」
「う、うん。……なに?」
「その写真さ。もしかしてにもらったのか?」
「えっと……まぁ、そうなるかな」

 あやふやな答えに「おや?」と首を捻ったが、羞恥に染まる樹の表情を見ればしどろもどろな態度にも納得できた。身の置き所のないような心地に陥っているのだろう。樹は右手に持った携帯電話をまるで寿司でも握るかのように左手の平に叩きつけていた。
 忙しない手元を横目に入れながら、もう一歩、踏み込んだ質問をしようと口を開く。

「なぁ。ちょっとさ。その写真、ちゃんと見せてもらってもいい?」
「……いや。いやいや。ちゃんを見世物扱いするのは嫌だから」

 ほんの少し逡巡する様子をうかがわせた樹だったが、見せないと結論を出したらしい。手のひらを立て、きっぱりとNOと言う樹に対し、俺は軽く唇を尖らせる。だが「そこをなんとか」と食い下がろうとした途端、第三者の声が割って入った。

って、?」

 ゴミ箱の前でペットボトルのフィルムや蓋を分別していた杉が不意にこちらへ話しかけてくる。思わず言葉を飲み込んだのは俺だけではなかった。樹もまた、口元を真っ直ぐに引き締めて固まっている。

「なんだよ、ふたりして固まって」
「――いや、別に」

 一瞬、喉を詰まらせながらも辛うじて返事をする。だが、杉は怪訝そうな顔をしたままだ。か否か。そのYES、NOに答えないかぎり杉の視線は逸らされないのだろう。
 ちらりと横目で樹を確認すると、左手で大きく額を覆いその下で強く瞑目する姿が見えた。一見、苦渋に満ちた表情のようにも見えるが、朱に染まる頬が複雑な感情を表している。
 数十秒の沈黙の後、樹は長い息を吐き出した。とうとう観念したかのように見えた。だが、意を決したとは言えそれでも杉を直視出来ないのか、樹は額から手を下ろしながらも顔を左へと背けた。

「いや……俺が、その……ちゃんの写真見てたのを江崎に見られて……それで――」
「え? 写真あんの? それ、俺も見たいんだけど」

 樹のしどろもどろな弁明を食い気味で遮った杉は、慌てた様子でこちらへと駆け寄ってくる。駆ける勢いのまま樹の正面に膝をつき期待の眼差しを差し向けた杉に、樹はたじろいでいるようだった。

「……わかった。じゃあ、出すから。ちょっと待ってて」

 あたかも今から写真フォルダから探します、と言わんばかりの態度で待受画面の設定を変える樹を横目で見守る。これ以上、待受をにしてたと知られないようにと考えたのだろう。樹の行動に思わずプッと吹き出せば、余計なことを言うなと言う代わりに足の側面を軽く蹴られた。

「はい。でも見ていいのはこの写真だけだからね」
「サーンキュ」
「あ、俺ももっかい見たい」
「えぇ……。もー、わかったよ……」
 
 念を押しながら携帯電話を杉へと差し出した樹に「もう一度」をねだってみれば、しぶしぶながら許可をもらえた。樹からの了承を得たことで杉の方へと身を乗り出す。
 俺にも見やすいようにと携帯をこちらへ傾けた杉と共に、改めてじっくりとその写真を見つめる。先程、横目で見たときも思ったが、正直、アイドルと見間違える程度にはかわいい。伊達に学年ベスト5に名を連ねてはいないなと思わず唸り声を上げてしまう。
 もちろん樹がガチ恋してる以上、顔だけ見て横から惚れたりしない。それでもかわいい女子を見れば、簡単に心が浮き立つ感は否めなかった。

「へー……。つーかこのいつもよりかわいくね?」
ちゃんはいつもかわいいよ」

 樹へと携帯を返す杉の言葉を、樹はいとも簡単に打ち返す。クラスの女子を最上級の言葉であっさりと褒めそやした豪胆さに思わず杉とふたりで目を見開いた。
 俺らの衝撃に気付いていない樹は、戻ってきたばかりの携帯電話へ視線を落とす。開かれたままのの写真を見つめ、やんわりと目元を細めた樹の表情はひどくやさしい。愛おしいと思ったとき、ひとはこういう顔をするのだろう。見慣れない樹の顔つきに、どこかむず痒さを感じてしまった。

「いいじゃん。そんな写真本人から貰えるなんて。脈あんじゃねぇの?」

 自分の写真を誰かに渡すなんて、容姿によっぽど自信があるか、相手を信頼していないと出来ない。ふたりで一緒に撮ったというならともかく、普通、ただクラスが同じだけの男子に送ったりはしないだろう。それを踏まえて杉は「脈がある」と判断したらしい。
 ヒヒっと笑ってからかいの言葉を投げかけた杉に、樹はぐっと下唇を押し上げて眉根を寄せる。さっきまでとは違い、苦々しい表情を浮かべた樹に「勝手に相手の気持ちを決めつけるのはよくない」なんて抵抗を見せるのだろうかと予測する。
 開いたままだった携帯を閉じ、ジャージのポケットに仕舞い込んだ樹は、両手の指先同士を付き合わせ親指と人差し指の間に口と鼻を突っ込む。険しい表情のまま視線を泳がせた樹にただならぬ空気を感じ取った俺たちは、樹が躊躇いがちに口を開くさまを固唾を呑んで見守った。

「脈っていうか……その、付き合ってる」

 ぎゅっと眉間にしわを寄せたまま零された言葉の意味を、はじめはうまく捉えることが出来なかった。ぽかんと口を開いて固まった俺たちに一瞥を流した樹は、流れる沈黙に耐えかねたのか、「言ってなかったけど」と付け足す。
 相変わらずこちらから目を逸らしたまま口元を隠した樹の表情はほとんど見えない。だが、熱情の滲む目元や耳から首にかけて赤く染められた肌に、掴み損ねていた言葉の意味を俺らにじわじわと知らしめた。
 
「ハッ……ハァ?!」
「ウッソだろ?!」

 数秒の後、ようやく樹の言葉を理解した途端、衝撃が駆け抜ける。俺も杉も思わず立ち上がって樹に詰め寄った。ふたりの剣幕におののいたのだろう。両腕で顔を隠すように構えた樹はさらにベンチに深く腰かけ、少しでも俺らから距離を取ろうと試みた。

「いや……もう、ホントそういう空気無理……」
「無理とかじゃなくて!」
「なんだよ、もう! いつの間に上手くいってんだよ!?」
「っつーかそういうのはちゃんと報告しろよ!」
「マジでそれ! 水くせぇな、樹! 相談乗ってやっただろ、俺ら!」

 矢継ぎ早に責め立てる俺らに対し、時折、樹は呻き声を上げた。目に見えて狼狽える樹にバンバン非難を投げかけるのは端から見たら随分ひどい状況に見えるかもしれない。だが、こんなにもさらっと爆弾を落とした樹が全面的に悪い。俺も杉もそう確信している。

「いや、でも……まだちゃんと付き合うってなってそんな経ってないし……」

 へへ、と後ろ頭を掻きながら目線を明後日の方向に投げた樹は、目に見えてわかるほど頬を赤らめた。顔を引き締めようと努力しているのか、眉間にしわはよったままだが、口元はひどく緩んでいる。
 上手くいかないと嘆いていた樹の姿を思い出す。その時の陰鬱とした表情からは想像できないほど、樹の表情は幸せに満ちていた。
 自慢したいのと照れくさいのと半々、といった表情を浮かべる樹に、こっちまで嬉しくなってくる。だが、そんなに幸せならもっといろいろと聞き出さなければ気が済まないような心地もまた湧いてくる。

「なぁ、樹。もっかいその写真見せろよ」
「えぇ……なんで?」
「いいから!」

 キッと眦を吊り上げて凄む杉は樹に向かって手を差し出し、携帯を出すよう促す。困惑の様子を見せた樹だったが、杉の迫力に勝てなかったのか、はたまた自慢の彼女を見たいと言われて浮かれたのか、意外にも素直に携帯を開いた。
 表示されたの写真を見つめる杉の表情は険しい。じっくりと観察するような視線を向ける杉に、俺も樹も思わず生唾を飲み込んだ。

「……やっぱりな」

 ぽつりと言葉を零した杉は、うん、と納得したように一度頷くと、の写真を指さしながら樹へと詰め寄った。

「最近なんて言って、結構前だろ。これもらったの」
「え……なんで?」
「だって今はもう夏だぜ? カーディガンなんて着ないだろ、普通」

 春と夏の服装の違いを見つけた杉は鼻息荒く指摘する。杉の名探偵ぶりに俺は内心で舌を巻く。感心するだけの俺とは違い、樹は退路を断たれた心地に陥ったのだろう。ぐぅ、と呻いて、眉根を寄せた。

「オラ、吐けよ。証拠はここにあるんだ。いつから付き合ってんだよォ」

 わざとらしく言葉を荒らげた杉は軽く握った拳を樹の左肩に押し付ける。一見、暴力的に見える態度だが、ふざけているのだと承知している樹は眉尻を下げながらも杉の拳を甘んじて受け入れた。

「いや。ホント、写真撮ったのは結構前だから……」
「え? お前、今、〝撮った〟って言った?」

 樹の発言を拾い上げ、ぽろりと質問を投げるとふたりの視線がこちらへと差し向けられる。普段は細い目を丸くした杉は、俺と目を合わせると即座に樹へと視線を戻した。俺と杉の熱視線を一身に受ける樹の顔はみるみるうちに赤くなっていく。
 写真を撮ったのは樹、というのはダウトだ。この写真の構図やの腕の写り方から判断して、が自撮りしているとしか思えない。
 ならば何故、樹が撮ったと思わず口にしたのか。正解はの隣に立つ男子に焦点を合わせれば自ずと見えてくる。

「てかさ、一緒に写ってるのってもしかして樹なんじゃねぇの?」
「うっ」

 俺の指摘に対し呻いた樹に、俺も杉もさらに詰め寄った。至近距離でじっと樹の顔を睨み付ける。言い逃れなんてさせるつもりはない。目に見えた真実がここにある以上、ほぼほぼ確信しているが樹の口から吐かせたかった。

「う……うん。まぁ、そうなる……かな?」

 防波堤代わりなのか両手のひらを俺たちとの間に立てた樹は、抵抗を見せながらも頭を縦に振った。答え方としては弱々しいが、肯定には変わりない。
 目の前に、恋を成就させた男がいる。その事実だけで俺も杉もテンションが上がっていたというのに、更にもっと前から両想いだったかもしれない、なんて片鱗を見せられてはたまらない。興奮するままに、その場から立ち上がりながら言葉にならない叫びを上げた。
 片想いのうちから好きな女とツーショット撮れるってどういうことだよ。そんなチャンス普通はねぇよ。脈しかねぇだろこんなん!
 しかもこんな写真、好きあってないと絶対に撮れない。樹の気持ちがダダ漏れなのは普段からそうだから今更気にもとめないが、だって好きな男の隣じゃなければ、こんな表情しないだろ。
 ――ったく。樹はからこんな表情を見せられて、何を悩む必要があったんだ。
 いまだ興奮は冷めないが、深夜に騒ぎすぎるのもよくないだろう。気持ちを落ち着けようと大仰に溜息を吐きこぼせば、隣からも同じ大きさの息が漏れた。

「いやぁ……マジか……俺、ここ最近で一番テンション上がったかも」
「同じく……」

 激動にも似た感情の余韻に浸りながらぼうっとした視線を天井へと向ける。俺の言葉に同調した杉は額に手を当て、またひとつ息を吐いた。

「なぁ、樹。ここはもうさ、お前と写ってるやつも見せるべきじゃね?」
「や、ちょっとさすがにそれは……」

 ここまで話を聞いたんだ。更なるのろけを聞いてやろうと提案したが、樹はこの期に及んで尻込みする姿を見せた。

「えぇー」
「なんでだよぉ。見せてくれたっていいじゃん」

 ぶーぶーと不平を言う俺らに困惑の表情を浮かべた樹は手の甲を口元に押し当て、きゅっと目を瞑る。
 
「だって……すごく……その、デレデレしてるから……誰にも見せられない……」

 どんどん弱まっていく言葉尻はほとんど聞き取れなかった。慣れてないと言わんばかりの態度に見てるこっちまで恥ずかしくなってきてしまう。
 チラリと隣に視線を向ければ、杉もまたしょっぱいような照れくさいような複雑な顔をしてこちらを見ていた。歯を食いしばったままどちらからともなく頷き合う。とりあえず今日は止めてやろう。口には出さなかったが、その意思はひしひしと伝わってきた。これ以上の追求は、俺たちが火傷しかねない。

「でもよ、まさかこの中で最初に彼女できるのが樹とはなぁ」

 頭の裏で両手を組んでぼやいてみせると、正面に座る樹がほっと安堵の息を吐いたのが目に入る。本当に意外だと感じたわけでは無く、とりあえず話題を変える姿勢を見せるつもりだったが、どうやら正しく伝わったらしい。

「だよなぁ。まぁ、俺はもう来年まではダメだろうしなぁ……」

 意中の相手が成宮さんに夢中な杉は諦念混じりの溜息を吐く。とりあえず成宮さんさえ卒業してくれればふたりの接点はなくなるはずだ、と長期戦の構えを見せた杉に口元は緩んだ。

「……だったら、次は俺の番かもしれないな」
「え。誰かすきなひといるの?」
「マジかよ。え、誰? 俺が知ってる子?」

 明確に自分からは話題が逸れたことに安堵したらしい樹はパッと笑顔を浮かべてこちらを振り仰ぐ。焦ったような顔をして俺の肩を掴んだ杉に一瞥を流し、ふっふっと笑いながら腰に手を当てふんぞり返る。

「いない!」
「はぁ?!」
「でもどうせお前は不毛な片想い続けるんだろ? マイナスからのスタートよりゼロの俺の方が可能性はあるだろ!」
「ねぇよ!」

 俺の肩を掴む手を翻した杉は手の甲でツッコミを入れてくる。パシっと響いた軽い音にわざとらしく顔を歪めて見せればふたりとも楽しそうに笑った。
 おどけて俺の方が先だなんて言ってみせたが、現実はしょっぱい。好きな子のいる杉はともかく、俺なんて気になる相手すらいない。でもまだ入学して4ヶ月しか経ってないんだから、普通はそんなもんだと思う。
 夏休みを前に彼女を作ろうと意気込んでいたやつもクラスにいたが、夏が本番な俺たちには関係ない。追いかけるべきは白球であり、女の尻ではないのだから。
 だが、そんな状況下でも樹は恋をし、あまつさえと結ばれたという。
 部活にあれだけ時間を取られているってのに、一体どうやって樹はのハートを射止めたというのか。そう考えると、途端にどうやって口説き落としたのか気になってくる。
 これは樹の恋バナへの興味というよりも、今後の参考のためだ。別に今すぐ彼女が欲しいと言うほどの情熱はないが、いざ、好きな女に出会ったときに尻込みして何も出来ないようじゃ話にならない。
 ぎゅっと口元を引きしめ、いまだ俺には負けないと騒ぐ杉の手を払い、樹へと視線を向ける。

「なぁ、樹。ぶっちゃけ聞いていい?」
「え? まぁ、質問にもよるけど……」

 ほんの少しガチなトーンが混じってしまったせいか、膝に肘を乗せて話に混じっていた樹はスっと姿勢よく背を伸ばした。緊張に覆われた眼差しが微かに揺れる。
 質問されるなら先に喉を湿らせておこう、とでも思ったのだろう。手にしたペットボトルをおもむろに傾けた樹に、俺は意を決して口を開いた。

「ズバリ聞くけどさ。……のハートを射止めた愛の言葉は?」

 直球の質問を投げかけると樹は口をつけたばかりのポカリをブッと空中に吹き出した。正面に立っていた杉は運悪くポカリを浴びてしまったらしい。「汚ねっ!」っと叫んだ杉に謝り倒し始めた樹はその横顔を次第に真っ赤に染めあげていく。

「もー。お前、俺をこんな目に遭わせたからには絶対答えろよ?」
「いや、もうホントごめんとしか言えないんだけど、でも今のは俺ってより江崎が悪いから」

 不平を口にする杉の腕を汗拭きシートで拭きながら、樹は横目でこちらを睨めつけた。どうやら驚かせた俺に責任があると樹は言いたいらしい。

「いいじゃねぇか。減るもんじゃないし」
「ダメだって。絶対言わない」
「ノリが悪いっ!」
「ノリとかじゃなくて。……大事にしたいんだよ。思い出だもん」

 先程までは言われるがまま応じてきた樹は、ひとつ抵抗が通ったことで、これ以上は何も受け入れないという姿勢を見せる。キュッと口元を引き締めた樹の言葉に、俺も杉も閉口した。
 確かに、好きな相手に想いを伝えるために放った言葉を聞くのは野暮な行為といえる。そもそも、いくら今後の参考にしたいと俺が願ったところで、その言葉は樹がに告白したことで初めて通用したものであって、俺すら知らない想い人に使えるかどうかは分からない。
 それにしても臆面もなく思い出にしたいと言ってのける樹のハートの強さよ。たまに思うんだが、樹は思想や言動の端々が乙女チックなんだよなぁ。やはりアイドル好きだと聞く曲も恋する女の子っぽい歌詞ばかりになるだろうし、思考がそっちに染まっていくんだろうか。
 硬派には程遠いが、それでも樹のキッパリとした態度は好感が持てる。ちゃんと樹が彼女を大事にする人間だと、に伝わるといいなと思う。
 だが、樹の長所を垣間見ることでからかいたい気持ちが収まるかと言われるとそれは案外関係ない。

の方は友だちに言ってるかもしれねぇけどな」

 ふたりだけの言葉だと躊躇なく口にした樹の態度にどこか悔しさが募る。俺たちに教えなくともの方から出回る可能性を示唆すると、樹は目に見えて動揺の色を見せた。
 生唾を飲み込み、深刻そうな表情を浮かべた樹は「や、えっ……えぇ?」と言葉というにはどこか頼りない呻き声を繰り返す。

「えっ……そうなの?」

 戸惑いに戸惑いを重ね、ようやく譫言ではなくハッキリと疑問の言葉を口にした樹は、眉尻を下げてこちらを見上げる。不安いっぱいの視線を受けた俺も杉もしたり顔で頷いた。

「そういうもんじゃね? 結構女子ってさ、彼氏がこんなこと言ってーみたいな話してるよな」
「おぉ。そうだな。んで、誰々の彼氏がね、なんて別のやつも言ってたりな」
「うっ……」

 俺の言葉に杉もまた便乗し樹に追い討ちをかける。頬に熱を走らせ呻く樹は眉根を痛いほどに寄せて苦悶の表情を浮かべた。

「おう。だからそのうちお前の話も回ってくるかもな」
「いいのか? 噂に尾びれだけじゃなく背びれや胸びれまでついてるかもしれねぇぞ」
「いや、ちゃんに伝えたのは偽りのない本心だからいいんだけど……でも……うわぁ……」

 今後、自身に降り掛かるかもしれない事態を想像しているのだろう。耳まで真っ赤にした樹は杉の腕を拭いていた汗ふきシートを握りしめたまま手のひらに顔を埋める。汚れることが気にならない程度の混乱を見せる樹は、どうやらによっぽど恥ずかしい言葉を伝えたらしい。
 ここまで追い込まれた姿を見ると、からかいが過ぎたかと内心で焦りが生まれる。まぁでも今、樹が悩んでるのは幸せな悩みってやつだから、たまにはいいだろうと結論づけた。
 一度からかい尽くしたことで、胸の内がつまるような感覚が引いていく。嫉妬というほど強い感情ではなかったが、やはりほんの少しのうらやましさはあったらしい。だがそんな一時の感情で樹を苦しめるつもりはない。今後はまた、何か言われたら相談に乗るくらいに留めようと気持ちを新たにする。

「まぁ、でもアレだ。彼女できたからって浮かれて練習疎かにすんなよー? お前の場合、成宮さんにバレたらタダじゃすまねぇだろ」
「そりゃもちろん。むしろ逆に気持ちが引き締まったよ」

 首の裏で両手を組んで声をかけると、樹は真剣な眼差しでこちらを振り仰ぐ。野球の話になった途端、先程まで見せていた狼狽をかなぐり捨てた樹は普段よく見る生真面目な表情を浮かべた。

「俺がもし、今の状況に浮かれてレギュラー落ちなんてしちゃったらちゃんが自分のせいかも、なんて考えちゃうかもしれないもん」

 夏の大会を終え、稲実は全国準優勝という成績を収めた。優勝という悲願に届かなかったが準優勝だって立派な成績だ、なんて浮かれたやつはひとりもいない。あと一歩で取り逃した日本の頂点を来年、必ず手に入れる。その志は、三年生の引退とともにレギュラーの座を譲り受けた俺たちにもちゃんと引き継がれていた。
 日本一になるためにはすべてを捧げる覚悟を皆持っている。とりわけ正捕手として原田先輩の後を継ぎ、成宮先輩の球を受けることになった樹の責任は決して小さくない。そこに来て樹がと付き合うのは、責任をひとつ増やしたようなものだ。選択が間違っているとまでは言わないが、相手にかまける時間も野球に費やすべきだとやっかまれたっておかしくない。

「はじめから付き合わないって選択肢はなかったのかよ」
「あったかもしれないけど……でも、もう自分の気持ちは決まってたから」

 杉の質問に対し、頭を横に振って否定する樹に思わず苦笑する。野球も恋も諦めるつもりはないと樹は言った。意外と強欲な性質を垣間見せた樹は、堂々と自分の選択に胸を張る。自分が野球から手を抜くことで彼女を悪評に曝させないという気概に充ちた眼差しにまたひとつ、羨望は募った。

「だから、ちゃんと付き合うからには今まで以上に頑張るだけだよ。――絶対に、ちゃんに責任なんて感じさせない」

 真面目な顔をして開いた手のひらに視線を落とした樹は、そのままぎゅっと拳を握る。何やら決意を新たにしたらしい樹に、自然と口元は綻んだ。

「そこまでマジに考えてるなら、もうあとはやるしかねぇよな」
「うん。まずは鳴さんに認められる捕手にならないとなぁ。そのためには原田先輩がいるうちにいろんな技術を盗まないと」

 杉の言葉に真剣な顔つきを一変させた樹は、歯を見せていたずらっぽく笑う。引退したとは言え、国体までは3年生のほとんどが練習に参加する。むしろ3年生たちが中心ではなくなったからこそ、教えを請うには絶好の機会だ。とは言え、ドラフト候補の原田先輩から教えてもらう気満々な樹の言葉に、やっぱり貪欲だと苦笑してしまう。
 手にしていたペットボトルを傾けた樹は、そのすべてを喉奥に流し込む。それは、決意もプレッシャーもすべて飲み干してやるという宣言のようにも見えた。



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