求愛
「降谷くん」
トントンと控えめな音とやわらかな呼びかけに、閉じていた目を開ける。思ったよりも深い眠りに落ちていたらしく、なかなか焦点の合わない視線を巡らせれば、視界の端にほっそりとした指先が僕の机の上に添えられていることに気がついた。
「ごめん、起こしちゃって。今、話しても平気?」
顔を上げるとひとりの女子が正面からこちらを覗き込んでいた。ぱちぱちと瞬きする度に、ぼやけた視界が次第にクリアになっていく。それでもまだ覚醒には至らない鈍い頭をゆっくりと揺らすと、彼女が安心したように息を吐いたのが聞こえた。
「数学のノート提出なんだけど今日の昼までって言われたの覚えてる? あと降谷くんだけなんだけど……どうかな? 出せそう?」
「……そうだったっけ?」
「うん。実はそうだったんだよ」
ようやく焦点のあった瞳に、正面の女の子が神妙な顔をして頷いたのが目に入る。もう一度、ぱちんと瞬きを挟むとその表情が困ったような笑い方に変わった。
時折、話をする彼女……さんはたしか、クラス替えのタイミングで数学係に任命されていたはずだ。担当が部活の顧問だから、という理由で指名されてたんだっけ。朧気な記憶がぼんやりと頭を過ぎるままに「そうなんだ……」と返事をする。
「明日まで待った方がいい? だったら待ってもらえないか先生に交渉しておくけど」
「ううん、大丈夫。ちょっと待って……」
数学のノートは引出しに入れたままだったはずだ。中を探り、ノートの束を取り出して順番に見比べていると数学IIと数学Bのノートのが出てきた。今回出すのはどっちだろう、と首を捻ると「今日はBの方だよ」と声がかかった。
うん、とひとつ頭を揺らし念の為に中を確かめる。パラパラとノートをめくっていると、宿題に出されて解ききれなかった問題がいくつかあったことを思い出す。だが、これが今の僕の精一杯の努力なのだから、今更、さんを待たせて足掻くのもよくないだろう。
ぱたん、とノートを閉じ「ん」とさんへ差し出すと、やんわりとした笑顔が返ってくる。
「ありがと。それじゃ提出行ってくるね」
手にしたノートを受け取ったさんは笑顔を残し、教卓の前へと駆けていく。高く積まれたノートの山。その一番上に僕のノートを重ねたさんはひとまとめにして抱えようと腕を回す。クラス全員分となると結構な量になるようで、胴で支えるように抱え込んだ姿にそっと眉根を寄せた。
職員室までの距離は、結構離れていたと思う。あんな大荷物でひとりで歩いてるうちに階段で足元を滑らせたり、誰かとぶつかったりしないだろうか。
――さんが困っている姿はあまり見たくない。
ぽつんと頭に浮かんだ考えは、心配だなと思う気持ちと反響すると、自然に身体を動かした。
「――降谷くん? どうしたの?」
気が付くと廊下に出ようとしたさんの行く手を阻むような位置に立っていた。考えるよりも先に身体が動いていたらしい。戸惑うようにこちらを振り仰ぐ彼女に僕の方が驚いてしまう。
「あっ、もしかしてノート出すの、まずかった?」
困惑の表情を浮かべながらもこちらを気遣う様子を見せたさんに違う、と頭を横に振るう。「じゃあ、どうしたの?」と二撃目が入ると答えに窮する。だが、重そうにノートを抱え直したさんの姿が目に入ると、自ずと自分が取るべき行動がわかった。
「僕も行く」
「え?」
「待ってもらってたの、悪いし」
「そんなに待ってないし、当番なだけだから気にしなくていいよ?!」
「行く」
頭を左右に振って、引かないと主張する。
今から彼女の身に降りかかる苦難に知らないふりをしてお昼を食べる気にはなれない。だが、きっとこのまま説得しても断られ続けるだけだろう。ならば、とさんの抱えたノートの山に手を伸ばす。戸惑いの声は無視して、上から3分の2ほどに手を添え、そっと取り上げた。
「運び終わったらそのまま食堂に行くから。気にしなくていいよ」
「遠回りになっちゃうよ?」
「行く」
そこは絶対に譲らない。絶対に行く。言葉にするとまたやんわりと断られそうだから、もう否定意見は聞かないと言う代わりにツンと鼻先を逸らした。
「うーん……じゃあ、お願いしちゃおっかな」
戸惑うような唸り声の後、聞こえてきた声に振り返るとほんの少しだけ眉尻を下げたさんと視線が交差する。困らせてしまったかと不安が頭を過ぎったが、目が合うと緩んだ口元に安心して息を吐いた。
だがぼうっとしていてまたさんの気が変わったららいけない。そうと決まったら、早速歩き出してもらわないと。
「じゃあ、行こう……職員室ってどっち?」
「廊下出て、とりあえず右だよ」
「わかった」
さんの指示通り、廊下を進んでいく。初めのうちは人通りが多かったため背中から声をかけられるだけだったが、渡り廊下に辿り着くころには自然と隣を歩いていた。
ちらりと視線を横に流せば、軽くこちらを見上げた瞳と視線がかちあった。目が合うと和らいだ表情に薄く口が開く。
「実は今日、男子の当番休みでさ。ひとりで持っていくの大変だなって思ってたんだ」
「そうなんだ」
「うん。昼休み入ったらみんな走って食堂行っちゃうしね。誰か捕まえようにもそんな暇なかったというか」
聞けば授業終わった瞬間に教室を飛び出してしまう人もいるらしい。「そんな人いるんだ」と言えば「沢村とかね」と返ってきた。
「栄純ならやりそう」
「いっつも元気だもんね、沢村は。でもこの前さ、ボスに廊下走ってるとこ見つかった! ってすっごいしょげてたよ」
落ち込んだ栄純のことを思い出したのか、楽しそうに笑うさんの肩が揺れる。多分、僕と話す時よりもやわらかくなった表情に、言い様のない感覚が生まれた。正体の掴めない違和感に首を捻ったが、はっきりとした答えは出てこない。
「降谷くんは廊下走ったりしなさそうだね。でも急いでたら意外と走っちゃう?」
「ううん。しない」
話題がこちらに転じたことに目を丸くしながらも、咄嗟にフルフルと首を横に振って見せれば楽しそうにさんは笑った。その姿を見ただけで、先程まであった違和感が薄く引いていく。揺れる感情の行方に内心で首を捻りながらも、さんの声が弾めば自然とそちらに意識が傾く。「片岡先生の授業って他の先生の時より緊張感あるけどわかりやすくていいよね」なんてしゃべりながら歩くさんを横目にすると、ふと、ひとつの考えが頭をよぎる。
――そう言えば、こうやって歩くの初めてだ。
いつもは教室の中で話をするだけで、教室の外でさんと話をしたことはない。前に一度だけ、練習試合に見に来てくれたさんがスタンドにいるのを見つけたことはあるが話なんてできるはずがなかったし、移動教室の時だってさんと栄純がともに歩く姿を見たことはあっても僕の隣を歩くことはなかった。今は、僕とさんのふたりだけ。そう考えただけで、じんわりと胸の奥が熱くなる。
――なんだろう。これ。
ふわふわとする足元とは裏腹に胸の中心が少し、苦しい。慣れない感覚に、コホンと咳を払ってみせたがそんなことで違和感が消えることはなかった。胸を押さえるノートの束のせいで苦しいのかと思い、腕を伸ばしてみたがそれでも駄目だ。解消しない違和感にきゅっと口元を引き締める。
――でも、不思議といやな感じはない。
じんわりと滲む熱に対する違和感は、次第にぽかぽかとした気持ちに移り変わる。あたたかな微熱を受け入れてしまえば、自然と肩の力が抜けた。リラックスした気持ちでもう一度さんへと視線を伸ばす。
相変わらず楽しそうに話すさんの言葉に相槌を打ちながら廊下を歩いていると、間もなく職員室へと辿り着く。数学教師にノートを手渡してしまえば、それで彼女へのお手伝いは終わってしまった。
「ごめんね、野球部のエースにこんな雑用押し付けちゃって」
「気にしないで」
職員室の扉を閉めながらこちらを振り仰いださんに、ふるふると頭を横に振って応じる。
「でもホント、今日は降谷くんが声掛けてくれて助かったよ」
照れくさそうに歯を見せて笑うさんに思わず目を瞠る。つい先程まで、あたたかいバスタブに浸かっているようなやわらかい気持ちを抱えていた。だけどほんの少し跳ねた心音に弾かれ、穏やかな心地に波紋が広がっていくように胸の奥がじりじりと焦げる。
――また、歩く機会があればいいのに。
駆けだした心音に紛れて、そんな願いが頭を過ぎった。
「次も手伝う」
思い描いたばかりの願いを自然と唇が紡いでいた。笑っていたさんの表情が固まるのが目に入るが、口にしたばかりの宣言を覆す気にはならなかった。
「えぇ? いいよ、毎回だと悪いもん」
「手伝う」
断ろうとするさんの困惑を打ち返すべく頭を横に振った。これ以上の断り文句なんて聞きたくない。そう伝える代わりに鼻先を逸らして聞かないと主張するも、さんにはちゃんと伝わらなかったらしい。
「うーん……申し出はありがたいんだけど……でも普段はちゃんと男子の係もいるからさ。降谷くんが心配しなくても大丈夫だよ」
「……」
そこを突かれると痛い。反撃しづらい口撃に思わずきゅっと眉根を寄せる。
――でも僕だってまた一緒にさんと歩きたいのに。
思いついた言葉を言葉にしようと唇を開きかけた。だが、さっきまではツラツラと思うがままに口に出せていた言葉の通りが途端に鈍くなる。
何も言えない代わりに、顔を背けたままじっと横目でさんを見やる。大丈夫だよ、と繰り返し僕の説得を試みるさんにますます唇の先が尖っていく。
次、ノート提出がある時も、同じ係の男子がまた休めばいいのに、なんて。そんな意地悪なことを思ってしまった。