私愛
時刻は20時半を少し回ったところ。夕食や風呂を終える頃合を見計らい、寮のミーティングルームで次の試合の対策をバッテリー間で共有すべく時間を設けた。
10名足らずとは言え、複数人で集まるとやや手狭に感じる室内を軽く見渡し、既に集まった面々を順番に確認する。
多田野ら捕手陣はもとより、井口や平野といった投手陣の顔触れにも問題ない。――ただひとり、肝心のエースの鳴がまだ来ていないことを除けば。
鳴が来るまで記録係や偵察隊が作ってくれた資料を確認するよう他のやつらに伝えたものの、待つ相手がなかなか来ないことに気を取られるとあまり頭に入って来なかった。
入口のドア付近に掛けられた時計へと視線を向ける。先程目にした時とあまり角度の変化ないが、それでも約束した時間を既に5分ほど過ぎていることに気づくと自然と顔は顰められた。
風呂の時間は三年から順番に回ってくるから場合によっては約束の時間に遅れる可能性も考慮するべきだ。先に支度を終えた三年が待つことになるのは致し方ないとはいえ、一抹の不安は付きまとう。
――アイツ、忘れてんじゃないだろうな。
他のやつならともかく、鳴ならば有り得る。むしろ覚えていて〝ちょっとくらいなら許されるだろ〟と風呂上がりのアイスを決め込んでいたとしてもなんらおかしくはない。実際、一年の多田野が先に来ていることを思えば、俺の懸念はあながち外れてはいないはずだ。
時計に向けていた視線を下げると、入口付近に座る多田野の姿が見て取れる。髪を乾かしきれてないのだろうか。真剣な顔をした多田野は資料に目を落とす傍ら、首に掛けたタオルで襟足を抑えていた。
髪を乾かす間もなく来たやつもいると言うのに鳴のやつは――。
40分まで待って、来なければ探しに行くか。恐らく寮内にはいるだろうから、出るか分からない電話をかけるより人に聞いて回る方が確実だ。
だが、講じられる対策は今のうちに取っておくべきだ。そう思い、二年の中でも一番マメな福ちゃんに「もし鳴を見掛けたらミーティングルームに来るように伝えてくれ」という旨のメールを送る。
――ひとまず、今の俺に出来ることはここまでだ。
一仕事終えた訳でもない。ただメールを送っただけだというのに気を揉んでいるせいか内心でひどく疲れてしまう。
溜息を吐きながら椅子に深く掛けると、カサリとポケットの中で音が鳴った。何か入れていたかと怪訝に思い、ポケットに手を差し入れると一枚の紙が触れる。
折り畳んだプリントを引きずり出して中を検めると、見覚えのある内容が目に入る。飯を食う前に着替えた際、今日のうちに書いてしまおうとポケットに入れていたのをすっかり忘れていた。
今日の昼休み。ブラスバンド部の部長であるに渡された一枚には、この夏の大会に向けての事前アンケートが記載されていた。
個人の打席やチャンス時のテーマなどいくつか希望を書いて欲しいといった旨が書かれた例年通りのフォーマットに目を通す。例として書かれた中には定番の曲名や、流行りのアイドルソングと思しきタイトルが並んでいた。矢部や多田野が話していた内容の聞きかじりだから確証はないが、知ったところでそれを打席の時に流してくれと頼むことはないので確認することもまたないだろう。
さて、今年はどの曲を頼もうか。定番曲の中から選ぶことになるとはいえ、それでも候補は山のようにある。打席に入った際、集中してしまえばその音が耳に入ることはほぼ無くなるが、心震える瞬間の後押しとして、間違いなくブラスバンド部の応援があったのだと後から思えるような曲がいい。
ブラスバンド部への希望を伝える唯一の手段だからちゃんと書かないとな、と思う。だが、添えられた付箋に書かれた文章が目に入るとその決意もいい意味で霧散した。
動物がモチーフのキャラクターの描かれた付箋には、少し右上がりな文字で『原田くんがアフリカン・シンフォニーでいいなら昨年も演奏したので自信があります』と書かれている。普通なら言わないようなことをちゃっかり伝えてくるところは、部長の資質としてどうなんだと疑問が浮かぶが、部員の負担を減らすためにも気心知れた仲である俺に続投志願する心意気はわからなくもない。どちらにせよアイツらしい判断だと思えば自然と口元はほころんだ。
「お待たせー!」
快活な声と共にバンと大きな音を立ててドアが開かれる。プリントに落としていた視線を出入り口へ向けると、やけに機嫌のいい顔で笑う鳴が左手を大きく掲げてミーティングルームへ入ってきた。
「鳴、10分遅刻だ」
「ハイハイ、ごめんよごめんよー。で、これが資料? 雅さん簡単に説明してよ」
なんの躊躇もなく奥へと入り込んできた鳴は、俺の隣の椅子を引くと同時にどっかりと座り込んだ。もとよりそのつもりだったとは言え、鳴に仕切られると無性に腹が立つ。だが予定を押している今、鳴への文句に時間を割く訳にはいかない。
ひとつ深く息を吐き、手にしたままだったプリントをまたポケットへと仕舞い込む。鳴が開け放ったままだったドアを多田野が閉めたのを機に、俺は今日のミーティングを始めるべく口を開いた。
* * *
「……他に質問のあるやつはいないか。――いないなら今日は解散だ」
「っした!」
鳴が何度か茶々を入れる場面はあったが、その日のミーティングは割とスムーズに終了した。予定していた終了時間よりも少し早く終われたことに安堵の息を吐く。
ぞろぞろと列をなしてミーティングルームから出て行く連中の背中を眺め、俺もまた部屋を出るべく立ち上がった。
パイプ椅子がギシッと鳴る音に紛れて、かさりと軽い音が耳に入る。なんだ、と背後を振り返れば、折りたたまれた紙が落ちていることに気がついた。反射的にポケットの中に手を差し入れると、あるはずの感触が手に触れない。どうやら立ち上がりしな落としてしまったらしいと気付くにはそれで十分だった。
拾い上げ、中を確認するとやはりから渡されたプリントだった。確認しがてら、の書いた付箋が目に入ると自然と口元は緩む。落として誰かに見られても問題は無い内容だが、それでも部員の目に入るのは望ましくない。さっさと部屋に帰って、本か何かの間にでも挟んでおくか。
気がつかないうちに、ふ、と音に出して笑っていたのかもしれない。もしくは緩んだ口元を見られたか。どちらにせよ俺の反応を目敏く発見した鳴は、首の後ろで組んでいた手をほどくと、喜色満面の顔でこちらへと突っ込んできた。
「あ! 雅さん何それ?! もしかしてラブレター?!」
鳴の言葉に、部屋を出ようとしていた面々がこちらを振り返る。興味津々に差し向けられる視線にげんなりと息を吐いた。
「何言ってんだ、鳴。夕食の時にお前たちにも配っただろう」
「え? あぁ、なに。打席のテーマのやつ?」
「そうだ。――お前たちもちゃんと期限内に決めてくれよ」
じゃないと、俺がにどやされる。そんな言葉を続けては鳴に何を言われるかわからない。思いついた言葉は続けずキュッと唇を結べば、小気味いい返事が室内に響いた。
そのまま流れに沿ってミーティングルームから出た。出入口付近から室内を見渡し、室内に忘れ物がないかを確認する。目に入る範囲での違和感はないことを目視し、室内灯を消してドアを閉めた。
「雅さんはさ、昨年は何にしたんだっけ?」
鍵を閉める傍らで鳴が話しかけてくる。おそらく、先程の打席のテーマの話の続きをしたいのだろう。
ちらりと横目で一瞥を流し、もう一度ドアノブへと視線を落とすと、ちゃんと鍵がかかっているかどうか確かめるべく一度ドアノブを回し引いた。
手の中に残る抵抗に、よし、と頭を一度揺らすと、胸を逸らして仁王立ちをする鳴へと向き直る。
「アフリカン・シンフォニーだったな」
「ド定番じゃん!」
「お前だってサウスポーだっただろ」
「あれはいつまでも出さなかったら向こうが勝手に決めただけだし」
「今年も出さなかったら同じ目に遭うぞ」
「わかってるって!」
小言を添えると鳴は歯を剥き出しにして口を大きく横に開いた。まるで幼いこどもがするような行動に呆れとも落胆ともつかない溜息がこぼれる。
「で、なんでさっき紙見てたの? 別に悩む必要なくない?」
若干の不機嫌さを引きずっているらしい鳴は、ほんの少し唇を尖らせながら質問を投げてくる。悩む必要なんてないと断言する鳴は、きっと今年もこの紙を提出せずブラスバンド部の采配に任せるつもりなのだろう。
俺も別に強い希望はないんだが、という前提の元、薄く唇を開く。
「いや、まぁ、すんなり決まるのならそうなんだが……」
「決まらない理由なんてあんの?」
「ほかに使いたいやつがいたら第二、第三希望になるだろ? だからもし候補を出すならなんの曲にしようかと思ってな」
に言われたから、というわけではなく、元々今年もアフリカン・シンフォニーを希望するつもりだった。だが、定番中の定番とも言える曲を他のやつが使いたいと言い出す可能性は捨てきれない。そうなった時、ブラスバンド部が困らなくていいように第二、第三希望を書く欄が設けられているのだが、どう頭を捻ってもしっくりくる候補が思い浮かばなかった。
溜息混じりにそんな愚痴を零すと、鳴は顰めていた表情を殊更に歪める。
「ハァ? いやいや雅さん四番で主将じゃん! 雅さんの希望が通らないとかないからっ!」
「そ、そうか?」
「そうだって! ホントもう何言ってんの?!」
矢継ぎ早に放たれる怒号に思わず気圧されてしまう。鳴の剣幕にビビったというわけでは断じてないが、真正面から大声を受け止めかねると反射的に身体を退いていた。
「ちょっと貸して! ホラ、俺が書いたげるからさっ!」
手にしていたプリントに鳴の手が伸びる。あ、と気づいた時にはプリントを奪い取られていたが、中を開かれる前に取り返す。
「あっ! なんだよ!」
「余計なことはするな」
鳴に再び取り上げられないようにと頭上高くに掲げれば、鳴は悔しそうにぐぬぬと呻いた。さすがに腕によじ登ってまで奪おうとする気概はないのか、反射的に伸ばした手が届かないと悟ったらしい鳴は不満げな顔つきのまま腕を降ろす。
「ちぇー。せっかく俺が雅さんに似合う曲でも書いてやろって思ったのになぁー!」
「どうせろくなもんじゃねえだろ」
キングコングのテーマとかゴリラに纏わる曲だとか、そういう俺を貶めるような選曲をするに決まっている。そんな曲があるかどうかは知らないが、鳴のことだ。血眼になって探してでも見つけ出してくるだろう。目に見えたいたずらを甘受できるほど俺は大人でなくていい。
「はいはい。諦めますよーだ。……ん? てかさ、なんかいいにおいしない?」
鼻をひくつかせて周囲を探る鳴に、思わず首を傾げる。
「腹でも減ってんのか?」
「そうじゃなくて! なんか花とか石鹸とかそういう女子っぽいにおい!」
夕飯をあれだけ食べてなお、飯を探しているのかと思ったがどうやら違ったらしい。心底呆れたという表情を浮かべた鳴がすかさず噛み付いてくる。
やいのやいのと俺に対する罵倒を口にする鳴の言葉を聞き流す。そっと鳴から視線を外しながら、一体なんのにおいがするっていうんだと確かめるべく、スンと鼻を啜った。
寮内の独特なにおいに混じって微かに嗅ぎなれたにおいが鼻腔をくすぐる。恐らく、鳴の言ういいにおいというのはこれのことなんだろうと見当をつける。
石鹸や花の香りには疎いが、この甘さと爽やかさの狭間にあるようなにおいだけは覚えている。手の乾燥が気になると言うが折に触れてつけているハンドクリームのにおいだ。
このプリントを渡される直前も指先に塗りこんでいたからおそらくその際についたのだろう。実家のトイレに置いてある芳香剤に似ていると言ったら抓られた腕の痛みも蘇った気がして思わず左腕をさすった。
「あぁ、これはの――」
「あーぁ! ハイ出た! 出たよー! 隙あらば彼女自慢!!」
「いや、今のはお前が聞いたんだろ」
「いーや、別に今のはわざわざさんの名前出す必要なかったし! ただ名前出したいだけのやつー!」
人が続けようとした言葉を遮って、の話だと決めつける鳴のやり口に思わず閉口する。確かにの名前は出さずとも「ハンドクリームのにおいだ」とでも言えばよかったかもしれない。だが、鳴のことだ。きっと「雅さんが女子力高いにおいのするやつつけてどうすんの?! なに?! なんのアピールなの?!」などと騒ぎ立てることだろう。
声から動きまで難なく再生された想像図に口元を引き締める。鳴が巻き起こす喧騒を聞き流しながら、大きく息を吐き出した。
「このにおいだろ?」
言って、掲げたままだったプリントを降ろし、パタパタと仰いでみせる。風に乗ってにおいが届いたのだろう。鳴は目を開いてこちらを振り仰いだ。
「あ! それだ! どうしたの、それ。オレンジジュースでもかけた?」
結局、お前が食い物の話をするんじゃねぇかと内心で悪態をついたが、反論したところでギャンギャン噛みつかれるだけだ。ひとつ言えば100も200も返してくる鳴に、大して腹も立ててないのに絡むのは得策ではない。
「……お前は知らなくていい」
「ハァー?! もうホントなんなのっ?!」
上手く躱したつもりだった。だが、失敗だったらしい。このままでは300や500は返ってきそうな勢いに背を向け、ぎゃあぎゃあと喚き始めた鳴をシャットアウトすべく寮の自室に足を向けた。