多田野01:自愛

自愛


 その違和感は、今朝、起きた時から始まっていた。

「んんっ」

 喉の奥に生まれた違和感を取り払うべく、咳を払う。朝から妙に詰まっていたが、昼食を摂ったあともその傾向は続いている。
 咳をすると一時はその違和感は薄れるのだが、少ししゃべっていると次第にまた声は掠れはじめる。冬の時期に入るといつもこうだ。体が弱いなんてことは決してないのだが、乾燥にはいつも勝てない。
 ――食堂であたたかいお茶をもらっておけば良かったかな。
 プロテインを混ぜた牛乳を飲み物替わりにしたとはいえ、食堂を出る前に一杯くらいお茶を飲んでおいても良かったかもしれない。だが、今は既に教室へと戻るべく階段を上っている最中だ。まさか今から引き返してお茶を飲むわけにはいくまい。
 思いついた案を実行できない歯がゆさにひとつ息を吐き出した。たったそれだけでまた生まれ始めた違和感を確かめるように喉元に指先を添える。喉仏あたりを擦ったところで消えない違和感は微かにその存在を主張していた。ネクタイを緩めたところであまり意味はないだろうと思いながらも、昼休みの間だけ、と指一本分だけ下げると、気休めながらも呼吸が少し通りやすくなったように思えた。
 喉の違和感に悩まされるようになった要因はわかっている。不摂生などでは決してない。そして原因を理解していてもそれを辞めるつもりがない以上、改善方法もないこともまた十分理解していた。
 ――野球をやっていると、どうしても大声を出す必要があるもんな。
 特に捕手は、守備位置の指示を出すために外野まで届くようにと他のポジションよりも声を出すから尚更だ。いくら身体を鍛えても喉はなかなか鍛えられない。
 これはもう職業病みたいなものだから、と諦めの境地に至ってはいる。だが、諦めたところで放っておくこともまた出来なくて、改善しないとわかりつつも小さな違和感を覚えれば咳を払うほかなかった。

「大丈夫? 樹くん。もしかして風邪引いたの?」

 隣を歩いているちゃんの問いかけに、正面に向けていた視線を左に落とす。困惑を絵に描いたようなちゃんの表情に思わず眉尻を下げてしまう。
 一緒にご飯を食べていた時は喉が潤っていたこともあり咳き込んだりはしなかった。たいしたことない違和感だからこそ、ちゃんには気付かれたくなくて気を張っていたのもあるかもしれない。
 だが、気づかれてしまった以上は、たとえ虚勢によるものだとしても嘘をつくのはよくないだろう。

「ううん。熱とか関節が痛いとかはまったく無いんだけど喉だけ少し掠れちゃってて」
「そうなんだ。どうしても冬は乾燥しちゃうもんね」

 あくまで喉だけだと強調すると、ちゃんは強ばった表情を和らげた。それでも心配は尽きないのか、ちゃんはほんのりと眉尻を下げたままだ。

「……あ、そうだ。私、のど飴持ってるけど食べる?」
「あぁ、うん。よかったらもらってもいい?」
「いいよ-。今日買ったばかりだから半分持っててね」
「ありがとー」

 ブレザーのポケットから未開封のキャンディスティックを取り出したちゃんは、爪で割れ目を入れてスティックを折ると宣言通り半分をこちらに差し出した。
 今度、なにか買って返そう。何がいいかな、と考えを巡らせながら、貰ったばかりののど飴を口の中へと放り込んだ。早く溶かそうと舌の上で転がしているとはちみつの甘い味が広がっていく。次第にのどが潤うと同時に、先程まであった違和感が微かに引いていくのがわかった。試しに、と「あー、あー」と、喉に指先を当てながら発声練習をしてみると、すんなりと声が出る。

「効いてきたみたい」
「ほんと? よかった」
「うん。ちゃんのおかげだよ。それにしてもこれ、美味しいね」
「でしょ? この冬一番のオススメなんだよ」

 他にもゆず味と梅味があるが断然はちみつだとちゃんは主張する。きゅっと握った拳にちゃんのオススメ度が強いのだと知ると思わず口元は綻んだ。
 美味しいと伝えたことでちゃんも食べたくなったのだろうか。握っままだったスティックに爪を宛てがい、一粒取り出したちゃんは指先で摘んだ飴を唇の先から押し込んだ。美味しそうにふにゃりと笑ったちゃんの表情に、ふと以前から気になっていたことが頭をもたげる。

「そう言えば、前から気になってたんだけど……ちゃんって飴好きなの?」
「え? うん。好きだけど……どうして?」

 唐突な俺の質問に対し、頭を縦に揺らしたちゃんは、そのまま軽く右へと頭を傾ける。

「いや。前にさ、俺たちが隣の席だったことあるでしょ?」
「一学期のころの話?」
「そうそう。その時、前の席に座ってる女子にもらった飴をちゃん、すぐに食べてたんだよね。だから飴好きなのかなって思ってた」

 状況とその考えに至った理由を伝えると、ちゃんはキョトンと目を丸くしたあと、恥じ入るように両手のひらで頬を押さえつけた。

「そんなことあったっけ?」
「あったよ。記憶力には割と自信あるし間違いないよ」

 なんならその時、交わした会話のほとんどを覚えている。勉強に関してはほどではないかもしれないが、ちゃんのことは覚えていようと意識してる分、誰にも引けを取らない自信があった。
 ハッキリと告げた俺を見上げたちゃんは、かすかに眉根を寄せて怯んだ様子を見せた。

「……多分、その時は初めて食べる味とかだったんじゃないかな」

 しどろもどろに弁明するちゃんは視線をさまよわせた挙句、とうとう俺から視線を外した。指の隙間から見える肌と隠しきれない首筋がみるみるうちに赤く染まっていく。恥ずかしいと口にされるよりも強く印象づけられる姿に、申し訳ないと思いつつも、どうしても口元が緩んでしまう。

「そこまで恥ずかしがることないのに」
「だって樹くんにガツガツしてるとこ見られちゃったんだもん……」
「別にそこまでひどい印象はもたなかったよ」
「樹くんは優しいからそう言ってくれるのかもしれないけど……でもそういうのは忘れてほしいな」

 大丈夫だよと言葉を重ねてもちゃんは聞き入れられないとばかりに頭を横に振るう。拗ねた子どものように唇を尖らせたちゃんは赤らめた頬を隠したままきゅっと目をつぶった。普段は割と動じないことの多いちゃんの珍しい表情にますます目尻は下がっていく。

「なんで? 可愛いよ」
「もう。樹くんはすぐそういうこと言うんだから……」

 正直な想いを伝えると、ちゃんは照れくさそうに身を捩った。
 付き合いはじめてすでに4ヶ月近く経っている。恋人同士の距離に慣れてきたからこそ、気持ちが近づいた分だけ思ったことを素直に伝えることが出来るようになった。
 褒め言葉なんだ。伝えて悪い気にさせるものじゃない。それを「照れくさいから」と言わずに胸の内で募らせたところで、俺の中で勝手にちゃんへの情愛が増すだけだ。
 大事に想っていると伝えることに躊躇する理由はない。そんな考えのもと、可愛いと思った時には可愛いと言い、好きだと感じた時も同じように伝えている。だが、後者はともかく前者については俺が伝えるたびにちゃんは抵抗めいた姿を見せる。
 ――可愛いなんて言われ慣れているだろうになぁ。
 正直な想いを拒絶されるのは本当なら悔しかったり残念に思うのかもしれない。だけど、ちゃんの見せる恥じらいを浮き彫りにした表情は、いつも俺の胸の奥に火をつけた。

「可愛いって言うの、ダメだった?」
「……うん。ダメ」
「ホント? もう言わない方がいい?」
「……じゃない、です」

 追求の言葉を投げかけ続けるとちゃんは恥ずかしそうに俯きながらも観念したように小さく首を縦に振った。ちゃんからの言質を引きずり出した自覚はあるが、それでも可愛いと伝えてもいいのだとちゃんが認めてくれたことに簡単に胸は踊る。
 ブレザーの中に着ているセーターの袖口を伸ばして口元を隠してしまったちゃんの表情をわざとらしく覗き込んでみせると、やわらかな手のひらで頬を押し返された。あっち向いてと言われるよりも強く伝わってきた拒絶だが、その行動すらもかわいいと思わずにはいられない。

「これから先も、のど飴食べる度に思い出すんだろうなぁ」
「もっと他のことで思い出して欲しいんだけどな」
「もちろん他のこともちゃんと覚えてるよ」

 この先も、一緒にいれば自然と思い出は増えていく。いつか大人になった時、ちゃんと過ごす日々は当たり前のものになるだろう。その時、今、積み重ねている思い出が全部特別だったんだと振り返る日がくることが今から楽しみでしょうがない。
 思っていることは全部伝えるつもりとはいえ、さすがに重すぎるよなと口を噤む。その代わり、少しでも気持ちが伝わればいのにという想いを込めてじっとちゃんを見つめた。
 口の中に残る飴がちゃんの頬をほんの少しふくらませている。決して整っているとは言い難いものなのに、あどけなさの残るその表情すらも愛おしい。またひとつ、思い出が増えたことにじんわりと胸の内が熱を持つ。

「もしかして、また〝覚えてる〟とこ?」
「うん。そうだよ」

 胸にある気持ちのすべてが正しく伝わったわけではないけれど、それもまた正解のひとつだ。肯定を示すべく頷いてみせるとちゃんはほんのりと眉尻を下げた。
 困らせていると知りつつも、口元に描かれた緩いカーブにちゃんが嫌がってはいないことを知る。そもそもちゃんは嫌なことはハッキリと嫌と言える女の子だとよく知っているからこそ、踏み込んでいけるというのもあった。
 緩む口元を隠さないままじっとちゃんを見つめる。先程、恥じらい混じりに逸らされた視線は離れなかった。

「なんだか樹くんには妙なことばかり覚えられてる気がする……」
「そんなことないって」
「うーん……」

 苦笑した俺の弁を受け入れられないのかちゃんはかすかに唸り声をあげた。困惑に寄せられた眉根に、こちらまで眉尻を下げてしまいそうになる。
 数秒の間、考え込むように目線を下げていたちゃんだったが、パッと面を上げた時には何かいい案を思いついたのか、いつものように口元を緩めていた。

「ねぇ、樹くん。ひとつ覚えておいて欲しいことがあるんだけど」
「うん、覚えるよ。どんなこと?」

 内容を聞く前に覚えると宣言した俺を見上げたちゃんは、数度目を瞬かせたのち嬉しそうに笑った。

「樹くんが今後、喉が痛くなった時に私を見たら、のど飴食べなきゃってちゃんと思い出してね」

 ちゃんの言葉に思わず目を瞠る。野球をやっている以上、自身のケアは必要な配慮だ。特に肘や肩などは常にケアを怠らないようにと部内で耳にタコができるほどに言われている。そして、優先順位というものは何に関してもついて回るもので、主立った部位に注意を払えばそれ以外のことに関しては後回しになりがちだった。今朝、のどに違和感を覚えた際に対処しなかったのも野球をするうえでたいして影響はないと思っていたからだ。
 妙な行動は忘れて欲しいというのはちゃんの本心なんだろう。その上で、ちゃんが差し出してくれた言葉に、俺の中での優先順位がガラリと入れ替わる。
 怪我をしないことももちろん大事だ。だけど、のどを痛めたままにしてもいい理由にはならない。誰のためでもなく自分のためにやるべきことだが、ちゃんが大事にしてくれる自分をより一層、大事にしなければならない。そんな決意のような感情が胸に現れはじめた。

「うん。ちゃんと思い出すよ。だからずっと一緒にいようね」

 今度はちゃんと、思ってることを口にした。さらりとした言葉のつもりだったが、先の長い未来の約束を口にしてしまったことに気づくと妙な気恥ずかしさが浮かび上がってくる。だけど、手の甲で口元を隠した俺を見上げたちゃんが「うん」と当たり前のように頷いてくれた。ただそれだけで、言ってよかったと安堵する。
 来年、また同じ飴を食べた時、この日の会話をちゃんも覚えていてくれたらいいな。
 今はまだ特別でもなんでもない会話だけど、もしかしたら来年は違うかもしれない。あの日、飴を食べる約束をした会話だと振り返る日がいつか来ることを信じて、口の中にある飴の味をじっくりと味わった。



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