おお振り:榛名01たとえ、失くしても

011.たとえ、失くしても


 練習試合の帰り道。武蔵野第一の仲間と共に電車から降りて高校へと戻る途中で、懐かしい顔を見つけた。
 背中を曲げ自分の足下に視線を落としたまま歩く男は、シニア時代の後輩投手・のものだった。一目見てだと気付いた。だが、それと同時に「本当にか?」と疑わしさも抱いた。
 中学のころのは、どんなにオレが邪険に扱おうとも人懐っこいイヌみたいに尻尾を振って近寄ってきた。声変わりしてもなおあどけなさの残る声で「元希さん!」と近寄ってくる姿は、後輩という点を除いてもかわいく見えた。
 だが今のはどうだ。
 強く眉根を寄せた横顔はいかにも鬱屈そうで、何人たりとも寄せ付けぬ雰囲気を纏っている。オレのよく知る姿からは想像も出来ないほどの負のオーラを滲ませたに、話しかけない方が無難だろうという考えが浮かばなかったと言えば嘘になる。
 それでも姿形がである以上、アイツを無視するなんて選択肢はオレにはなかった。
 隣を歩いていた秋丸に「知り合いが居る」とだけ告げて、部活のメンバーの和から外れた。
 突然走り出したオレを訝しむ声も聞こえたが、秋丸が上手いことフォローしてくれるだろう。そう信じて、まっすぐにの元へと駆け寄った。
 他者の干渉を拒む背中に手を伸ばす。一度、躊躇いがちに止まった手を無理矢理突き動かしたオレは、そっとの左肩に触れた。
 
「ヨォ、。久しぶりだな」
 
 背後から声をかけながら左肩をポンと叩くと、はびくりと肩を震わせてこちらを振り返る。いくら機嫌が悪くともオレが話しかければ、自然との笑顔が返ってくると思っていた。しかし、実際は真逆だった。寄せていた眉根は更にきつく眉間に皺を刻み、結ばれていた口元は下唇を突き上げるように歪む。
 怒っているのか、それとも泣きそうなのか。判別のつけられないの表情に思わず目を瞠る。そんなオレの反応を目に入れたは、歯を食いしばり、そのままオレから視線を逸らした。
 中学時代では考えられなかった反応だ。いつだって憧れと羨望と期待を乗せた、まっすぐな視線を差し向けていたくせに。見慣れない反応にムッと顔を顰めたが、下を向いてしまったにはオレの感情が伝わることはないだろう。
 無理矢理に顔をあげさせる手もあるにはあった。だが、昔のようにふざけて顎を掴んで上を向かせることが今のには出来そうもない。そんな乱暴な真似をしてしまえば、が何を思うか。昔のなら「痛いですよ」と笑って受け入れられる程度の扱いだが、今のにはオレの想定以上に怯えさせてしまうのではと思えてならなかった。
 
「……元希さん」
「ん?」

 蚊の鳴くような声が耳に届いた。反射的に相槌を打てば、俯いたがさらに顎を引いたのが目に入る。

「元希さん、その、オレ――」

 訥々と言葉を紡ぎ始めたが微かに顔を上げた。だがそれでも視線が合うまでには至らない。気まずそうに視線を脇へと逸らしたままのは、肩に背負ったリュックサックの紐に縋り付くように握りしめている。きゅっと唇を引き締めて、再び黙り込んでしまったを前にしたオレは、首の裏に手をやるとうなじ辺りの髪を乱雑に掻き乱した。
 煮え切らない態度を目の当たりにしていると、どうしても「だからなんだよ!」と問い詰めたくなる。それを抑えるための代替策として自らの気を逸らしてみたが、それでも口を開かないを見ているとまたどうしようもない感情がふつふつと胸に沸き起こる。
 ――マジでなんなんだよ。
 にこんな対応を取られる理由なんてねぇよ。これがタカヤなら最後に諍いがあって別れたから気まずい態度を見せられるのも仕方ないかもしれない。だが、今、オレの目の前にいるのはだ。が相手ならば、こんなにも頑なな態度を見せる理由なんてまったくもって見当たらない。
 始めは煮え切らない態度を見せるに苛立ちにも似た感情を抱いていた。だが、こうも頼りない姿を見せられると次第に困惑へと移り変わっていく。
 ――参ったな。
 襟足にかかる髪の毛を指先で数度つまんで、そのまま腕を下ろす。いまだこちらをはっきりとは見上げないに視線を落としていると、正面に立つの肩が小刻みに震えていることに気がついた。
 震えを止めてやんねぇと。そう思うと同時に反射的に手が伸びた。オレの利き手である左手が、の右肘辺りを掴みかけた。
 だが、指先に力を入れるよりも早くが自らの腕を庇うように抱え込む。全力の拒絶を目の当たりにした途端、オレの身体は硬直する。

「申し訳ありませんッ!」

 一息に謝罪の言葉を口にしたはその勢いのまま頭を垂れると、そのままオレの手を振り切って逃げだした。追いかけようと思えば楽に追いついたはずだ。だが、たった今、目の当たりにしたの拒絶が、まるで楔のように突き刺さり、オレの足をその場に縫い止めた。
 目を見開いたまま呆然と立ち尽くしたオレは、ぎこちなく首を捻っての背中に視線を向ける。小さくなっていく背中を眺めていると、自然と唇がぽかんと開いていく。
 衝撃が過ぎ去ると次第に唖然とした気持ちが浮かび上がる。規律に厳しいシニアの中であっても「をお手本にするように」と名指しされるほど、礼儀正しく目上の人物に対して思慮深い行動を見せていた。
 そんなが、一貫しておかしな態度を見せ続け、あまつさえオレと一度も視線を合わせなかった。明らかな異変を前に、どこか言いようのない不安だけが肌にじっとりと付きまとう。

「……あ、戻んなきゃ」

 ふと、正気に戻ったかのように自分が今、部活の団体行動の最中であったことを思い出す。覚束ない足取りで大通りへと足を向ければ、信号待ちにでも引っかかったのだろう。然程離れていない距離に戻るべき集団を見つけた。
 突然、その場を離れたオレを咎めるような言葉を浴びながらも、その輪にまじり、仲間と話していれば次第に胸中にあった違和感は薄れていく。
 それでもに振り払われた感触だけは、左手の平からちっとも消えてくれなかった。





 人伝でしか聞けなかったことだが、あのバカがオレの速球に憧れるあまり、右肘を壊してしまったのだと知った。オレが高校校上がってすぐのことだったらしい。
 ――だから、あの日、はオレと目を合わせてくれなかったのか。
 腑に落ちる点もあったとは言え、それでも納得できない心地は身に残る。
 ――どうしては、右肘に違和感を覚えた時点でオレに相談しなかったんだろう。
 投手生命の危機に瀕したとき、はオレを思い出さなかったんだろうか。同じような目に追い詰められたことがあるのだとちゃんとに伝えていた。それにいつかお前が怪我したときは必ず力になると何度も繰り返した。
 なぜ、そうまでして親身になると伝え続けたオレに一言の相談もせずに、投げ出しやがった。
 いきなりぶっ壊れたにしても、その後の身の振り方を相談しようとは思わなかったんだろうか。投手でないをぞんざいに扱うとでも思われたんだろうか。それとも投手としての繋がりがなければにとってのオレは尊敬に値する人間ではなかったんだろうか。
 あのバカが、そのどちらを思ったのか。それともまったく見当違いのことを考えたかなんて知りようがない。
 ただあの野球バカだったが、野球を捨てざるを得ない状況に身を落とした結末しか、オレには知らされなかった。ただ、それだけの話だ。



 それから3ヵ月後の4月。
 入学式以降、学校の至る所でを探したが、GWを迎えようとする今もなお、その姿を目に入れることはなかった。
 オレの退団式の時、は大いに泣いた。そして「オレ、来年必ず武蔵野に受かりますから、待っててください」と宣言した。「そんなことしちまったら二年間ずっと控えだぞ」とからかったところで翻意するようなやつではないと知っていた。だからこそ、アイツがまた憧れるような選手であるための努力を重ねてきた、つもりだった。
 もちろん、努力なんて自分のためにするべきものだ。だけど、のまっすぐな視線がこちらを向くなら手を抜いてなんていられねぇ、と自らを鼓舞したのも事実だ。
 それなのに、は今、ここにいない。
 涙を流しながら誓った約束を、が一方的に反故にしてしまったのだと思うと、胸がつかえて何も言えなくなった。

 ――お前が投手やってなくたって、お前はオレの大事な後輩だよ。

 届かない言葉を胸に思い浮かべたオレは、苦い心地を飲み込みながら青々と茂る葉を見上げた。





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