おお振り:三橋 廉01

僕を救う君の笑顔


 まだ少しの肌寒さを残した春の日に、近隣の他校と同じ日程で三星中学校でも卒業式が執り行われた。
 クラスで行う最後のホームルームも終わり、中学を去る哀愁や4月からの期待に浮き足立った教室を後にし、オレは一人、何処にも寄らず、誰にも話しかけずに裏門の方へと走る。逃げるようにしてここまできたのは誰とも顔を合わせたくない――否、合わせられないことが理由だった。
 この学校にはオレが友達だと言っていい人がいない。
 日常的に誰とも会話をしないわけではないが、誰に対しても余所余所しく接することしか出来なかったのは、偏に部活でのヒイキが由来している。理事長の孫という理由で監督が実力の劣るオレを重用し、野球部の皆の努力を潰してしまっただけでなく、応援してくれていた学校の人たちの気持ちさえも裏切った。
 中には慰めてくれる人もいたが、彼らに引け目を感じたオレが言葉を受け取ることも出来ずにいれば、その人数は自然と少なくなり、やがては誰もいなくなる。
 離れていく友と、離れていく自分の気持ち。その二つの距離が詰め寄ることすら出来ないほどに開いてしまえば、オレには学校から逃げ出すことしかできなくなっていた。

 ――オレがこの学校からいなくなれば、野球を辞めてしまえば。

 そのようなことをして皆の気が晴れるとは到底思えなかったけれど、三星で安穏と過ごすよりもいくらかマシなはずだ。
 逃げ出すことを決めたオレは、以前住んでいた埼玉へと戻ることを望んだが、じいちゃんには怒られたし、お母さんからは受験のために2つの条件を課された。制服代が掛からないことと、自転車で通える場所にあること。
 これでかなり学校の範囲が狭められるから、きっと三星に行くしかないんだとオレに諦めさせるための手段だったのだろう。
 それでも苦難と努力の末に、「西浦高校」への入学を勝ち取った時は、泣きたくなるほど嬉しかった。そこはお母さんの母校でもある。
 ただ、どんな高校生活になるんだろう、という期待は起こらない。たった一つ。そこでは野球をやらないという決意が在るだけで、三星で犯してしまった過ちを繰り返さないで済むことがオレの贖罪でもあった。
 オレは野球を辞める。
 幼い頃からの習慣。それを辞めることを意識すると俄かに身体が硬直する。眼前に佇む開け放たれたままの裏門をじっと見つめ、喉元に溜まった唾を飲み込んだ。
 この門を潜れば、オレはもう二度とここには戻って来れない。オレと三星との繋がりが完全に絶たれることを意味している。それが酷く心残りで、門を潜れないまま10分以上が経過していた。
 臆病なオレは、何かを失うことにいつも怯えてた。
 迷惑をかけていたと知りながらも、オレはマウンドを譲らず、いつか、オレのピッチングでも勝てる日が来れば、みんながオレを受け入れてくれるんじゃないかというバカな期待を抱き続けた。
 結局、幼い友情も、野球での栄光も、すべてを失うことになり、ダメピーなオレのせいで、みんなは負け続けたというのに、みんなの中学生活を台無しにしてしまったまま、謝ることもせずにオレはこの地を去る。
 重苦しいことを考えていたせいか、自然と垂れ下がっていた頭を上げ、首だけで後ろを振り返る。 振り返ったところでオレを追いかける人など誰ひとり居らず、校舎からのものだろうか、遠くにある声を感じ取るのがやっとだった。
 野球部のみんなは帰りにどこかに行ったりするのだろうか。
 ――一緒に、行きたい。
 そのような考えが浮かんだ瞬間、オレははたと気付き、大仰に頭を振って脳裏に過ぎった考えを否定する。そんなこと、考えるだけでも申し訳ない。オレが望んで良いことなんて、何一つ無いんだ。
 キュッと唇を引き締めて、深く瞑目する。目頭が熱い。閉じた瞼の隙間から、涙が浸透していく。微かに水っぽい鼻を鳴らして、うかびあがったばかりの涙をブレザーの袖口で拭い、強い視線で裏門を睨みつけた。
 皆が来る前に立ち去らなければいけないのに膝が震えて、今にも蹲ってしまいそうになる。両方の拳に力を込めて、震える足を叱咤して、右、左、と地面を踏みしめながら歩を進めていると、歩みを重ねるごとに視線が落ちていき、裏門のすぐ側に辿り着くと、足元にある門を動かすためのレールが目に入った。そのレールに爪先を引っ掛けると、また足が硬直する。
 オレの中にある、一つの願い。三星の人間である間にみんなに謝りたいという気持ち。だけど、顔を合わせる事すらも怖い。
 罵詈雑言を投げ掛けられることも、殴られることも――そしてそれを為すことで、唯一最後までオレに優しくしてくれた叶君の顔が憐憫に塗れることも怖くて溜まらなかった。
 謝らなければいけないことを理解しながらも、それが出来ない自分がとても嫌いだった。心の中で「ゴメンなさい」と一言呟き、最後の一歩を踏み出そうと足に力を込めた。
「……廉ッ!」
 右足を上げた瞬間、オレの耳の中に、オレの名を呼ぶ声が入り込んだ。
 ――叶、君?
 入学したての頃まで、オレのことを名前で呼んでくれていた「修ちゃん」の声に酷似していて、オレの胸が瞬時に痛んだ。
 いつから「三橋」と呼ばれるようになったんだったっけ。オレが「叶君」って呼ぶようになったのが先だったかな。
 そう思いながら、声がした方へと顔を向けると同時にぐっと喉元に力強い衝撃を感じた。喉の痛みの次に、頬に触れる髪の毛の感触と、背中の衣服を掻き集めるようにして掴まれたのを感じる。鼻腔を擽る匂いに記憶が触発され、相手が叶君ではなかったことを感知する。
「ぅあ……、……?」
 相手の顔を確認する前に抱き付かれた為、確証のない相手の名前を呼んでみたが、このようにしてオレに触れてくれるのは、ルリ以外ではしかいなかったし、声ものものに似てたから、半ば確信を抱いた呼びかけでもあった。
 一度の強い抱擁の後、肩を強く捕まれて引き剥がされ、身体が離れたことで漸く相手の顔が見え、相手がであることを確認した。
 は普段から鋭い眼光を寸分も衰えさせずにオレを睨みつける。いつもなら目が合うと同時に柔和になるというのに、今回ばかりはそれが為されない。
 に何か酷いことをしてしまったのだろうかと不安を感じ、謝りたい衝動に駆られたが、何も悪いことをしていないのに謝るとは烈火の如く怒るので、オレは口篭ることしかできなかなかった。
 まごついた態度をとることもの怒りを誘うかもしれないが、よく見るとオレよりもの方が戸惑いを色濃く表情に映していた。かなりの距離を走ってきたのか、はたまた3月にしては暖かいせいか、の額には玉の汗が浮かび上がっていて、大きく肩で息をする度にそれが額から顎に掛けて落ちていく。
 数秒間、の様子を眺めたまま硬直していると、は「ふぅ」と一つ声に出して溜息を吐き、オレの肩に置いたままだった手を離して自分の襟元のリボンを緩めた。はだけたブレザーを纏めることすらせずに、は人差し指と中指の二本の指先を襟元に差し込んで動かすことで中に風を送っている。よく見ればブレザーのボタンが全部無くなっていてしまっていて、推測でしかないのだが、は女の子にモテるからその全てを持っていかれたのだろうと思いつく。
 完全に息が整ったらしいは、垂れ落ちた前髪を乱雑にかき上げ、少年のような声で「廉」とオレの名を呼んだ。
 威圧的とまではいかないが、微かに棘を含んだ声音に思わず肩を震わせてしまう。それを見咎めたのか、一瞬だけが悲しそうな色をその目に浮かべた。
「……ビビんないでくれよ。私が苛めてるみたいじゃないか」
 眉を下げて表情を暗くしたに、「そんなこと思ってない」と首を左右に激しく振ることで応えると、は「冗談だよ」と唇の右端を持ち上げて笑った、その笑い方がどこか叶君に似ていて、今度はオレが寂しさを感じる番だった。
 オレが俯くと同時に、は一度は引っ込めた腕をまたこちらへと伸ばし、縋るようにブレザーの袖口を握り締める。 その触れ方は普段の無遠慮なスキンシップとは違い、何処となく頼りない様子があった為、オレの中で違和感を感じ取るには充分だった。
「……?」
 彼女の顔を覗き込むように面を上げ、改めて彼女の名前を呼ぶと、は一度苦しそうに顔を歪め、オレの腕を引いて自分の方へと引き寄せた。
 彼女の顔が間近に迫ってから、気付く。の目が鋭い理由に、「目が腫れているせい」というのも加わっているということに。
 ――泣いてたの?
 疑問に思うままに聞きたい気がしたが、そのように聞いたとしてもは肩を震わせて「泣いてネェよ!」と答えるだけだ。それが解っていたから、オレは敢えて何も言わずに彼女の言葉を待つ。
 唇を薄く開いたまま硬直したは、たくさんの言葉を頭の中に思い浮かべながらそれを吟味しているようで、オレもまた固唾を飲んで彼女の顔を見つめたままでいた。
 時間にして30秒弱、たっぷりと悩んだは、一度、おおきく唇を縦に開いた後、きゅっと唇を引き締め、搾り出すようにして言葉を口にした。
「ルリから、さっき聞いた……廉が転校すんの」
 言葉を言い終えると同時に、の手はオレの袖口から退いていく。力なく垂れ下がった手を取りたいと思ったが、それを無遠慮に為せない空気の重みがあった。
との前に見えない壁があるように感じ取れ、それが「決別」を意味しているように思えた。
 睨むほどに真っ直ぐなの目は、一向に緩む気配など見せず、凛とした姿勢と相まってオレの胸に鈍い痛みを伴って突き刺さる。まるでオレを見るのが最後だと思っているかのような視線を受け止めきることが出来ず、オレは顔ごと逸らすことでの視線から逃げた。
に掛けるべき言葉を考えあぐねていると、は「廉」と吐息だけでオレの名前を呼んだ。力ないその呼びかけに、オレは恐る恐る彼女を振り返る。
「お前が出て行く必要が何処にあるんだよ」
 痛いほど眉根を寄せたは、落ち着いた口調でオレに言葉を投げ掛けた。穏やかな口調だったからこそ伝わる悲哀がそこにあるように思えて、オレは否定する言葉を返せなくなってしまった。

 オレが、悪いんだから。
 オレが、三星のみんなの野球を潰してしまったんだから。
 オレが、いなければきっとみんなうまく行くはずだから――。

 悲しいほどに自己否定に塗れた言葉の数々が、脳裏を過ぎっては消え、過ぎっては消え、結局は何も言えずに、ただの顔を見つめていた。
 の姿がぼやけていく。一つ、瞬きをすると涙が零れることにより、一旦視界がクリアになったものの、数秒も経たずすぐに涙は浮かび上がり、またしてもの姿を奪われる。
 ボロボロと涙を溢し始めたオレに、はぶっきらぼうに「泣くなよ」と言った。咎めるような口調ではあったが、そう言ったの声もまた泣きそうな声だったせいで余計に辛くなる。
 が泣きそうになるなんて、珍しい。思い返してみてもの泣き顔をオレは見たことがないのではないだろうか。
 小学生の頃からそうだった。女の子に辛く当たるタイプのガキ大将だった修ちゃんに、泥団子を投げつけられても、髪の毛を引っ張られても、決して泣いたりせずに立ち向かっていた
 何に対しても臆することなく立ち向かっていくは、キラキラ輝いていて、いつもうじうじと悩むオレにとって憧れだった。
 自らの目元を親指で乱暴に拭ったは、鋭い目を揺るがないように保つためか、来た時同様に背筋をピンと伸ばしてオレを見やる。
「畠のヤロー、結局テメェが間違ってることを認めなかったんだな…」
 残念そうに呟いたの、強く握り締めた拳が震えている。よっぽど悔しいのだろうと解りながらも、オレは彼女の言葉を首を横に振るうことで否定した。
「――は……畠、君・は……間違ってないよ」
 この三年間で根付けられた身内に在る恐怖心からか、彼の名前を言うのに少しだけ突っ掛かってしまう。震えの現れたオレの言葉に、は微かに眉根を寄せた。
 ――あ、見抜かれる。
 そう思うと同時に足が竦んだ。
 は勘が鋭い。
 もしかしたらルリや叶君から何かしら聞いているのかもしれないが、野球部での内情を彼女に話したことはないのに、オレが彼らに引け目を感じている様子を見せると、いつもすぐに察してしまう。
 オレの間誤付いた態度に、すぐさまは噛み付いてくる。
「なんで?シュウだって私と同じようなこと言ってんだろ?」
「叶君は……優しいから、そう言ってるだけだよ」
 叶君、一番最後までオレに優しくしてくれた叶君。
 その優しい彼に、この三年間で一番迷惑をかけた。オレが居なかったら、オレがマウンドに上がり続けることを望まなければ、間違いなく叶君が三星のエースだった。
 奪ってしまった彼の栄光。オレはそれに対して何かを言うことを赦されていない。
「シュウは、本当のことしか言わねぇよ。――アイツ、バカ正直だから」
 叶君のことを素直に認めることが出来ない照れ隠しなのか、褒めながらもさり気なく叶君を貶したの頬は少しだけ朱に染まっていた。
 彼女の奥にある想いを量りかねたオレは、じっとの横顔を見つめていたが、彼女はそっぽを向いたままオレを振り返ることをしない。
「……?」
 名前を呼ぶと、少し気まずそうな表情を浮かべたは唇を引き締めたままこちらを振り返り、半眼でオレを睨みつける。これ以上の追求を許さないという意思が滲み出た彼女の表情にオレは黙って従うしかなかった。
 オレが何も話さないことに安堵したのか、ひとつ息を吐いたは薄く唇を開いて言葉を紡ぐ。
「――なんで、黙ってた」
 真っ直ぐな目で、軽く首を傾げて疑問の意を示したに、オレは途端に言葉を返せなくなる。逡巡する間に視線は自然と足元へと落ちていく。微かに汚れた運動靴の爪先を睨みながら涙をこらえ、彼女へと向けるべき答えを心の中で呟いた。
 ――が、オレを止めると解っていたからだ。
 傲慢に塗れた予想が自惚れにしかならないことも同様に解っていたがの優しさを思えば、それのみでは無いはずだろう。
 転校することを黙っていたのは、に止められることが怖かったからだ。例え一人でも、オレが出て行くことを引き止める人が居れば――オレを、必要としてくれる人が居たら、オレはその誘いにフラフラと傾いて、甘えてしまう。
 そしてまた同じ過ちを繰り返し、またみんなの野球を奪い去ってしまうだろう。
 それじゃ、ダメなんだ。オレは、この場所から出て行かなければならない。
 誰かに甘えて、理事長の孫だという立場に胡座をかいて、エースの座を奪ってはいけない。
 ――変わらなきゃ、いけない。
 そう心に浮かんだ決意を思い出すと同時にを振り仰ぐと、じっとオレを見つめていただろう彼女とすぐに視線がかち合った。
 いつも揺るがない彼女の視線に負けないように、目に力を込めて見つめ返す。の目がまっすぐにオレに向かう。
 凛と伸ばした背筋、そこに彼女の強さがあるような気がして、オレもまた彼女に倣い背筋を伸ばした。
「決めたのか?」
 強い視線よりも、もっと、力強い言葉。いつだっては、誰が相手であっても、まっすぐに向き合っている。
 オレはよりもカッコいい女を知らない。
 オレはにカッコいいと思われるような男になれるだろうか。これから先、三星ではなく西浦高校で――。
 オレの決意を確かめるようなの言葉に、躊躇い、躊躇いながらも、おおきく首を縦に降った。
 数秒間黙ったまま、オレの目を見ていただったが、降りてきた前髪を横に梳いて、音に出して溜息を吐いた。軽く下を向いて首を横に振ったの様子に疑問を感じたオレは、軽く言葉を詰まらせながらに呼びかけた。
「あ……あの」
「ん?」
「止め、ないの?」
 オレの言葉に機嫌が悪くなったのか、きゅっと唇を引き締めたはこちらへと手を伸ばし、そのしなやかな指先でもってオレの両頬を抓んだ。
「止めネェよ」
 「解ったか」とばかりに2回、3回と引っ張るに涙交じりの声で「わはった」と答えると、は鮮やかに笑った。この日、初めて見せたの笑顔に、オレは目を瞬かせて彼女を見やる。
 短い時間の中で、取り立てて心境の変化が起こるようなきっかけがあったようには思えないが、それでも今のの表情は先程の辛そうなものとは打って変わって、かなりスッキリしたものになっていた。その意を掴み損ねたオレが腑に落ちない表情でいることを目にしたは、笑みを浮かべたまま口を開く。
「廉が決めたんだったら、私には止められない」
 晴れ晴れとした表情で放たれた言葉の意味を受け止めかねていると、は軽く眉を顰めたまま笑って「ホントは止めたいんだけどな」と漏らした。笑いながらだったから聞き流してしまいそうだったけれど、それがの本心なんだと知って、オレの心にほんのりと温かいものが流れた。
 止めないとキッパリ言われた時は寂しいと感じたけれど、彼女の本心が別のところに在ることを知り、例え傲慢であったとしても酷く安心出来たんだ。
、オレ、オレも」
 ――本当は、残りたいんだ。
 その言葉を吐き出しそうになって、ぐっと喉元に抑え付けた。言って良いことと悪いことがある。何かを決意することは難しいが、その決心を揺らがすことはいとも容易い。
 その容易さに身を委ねて、たった一言でも後悔を示す言葉を残しては、オレにも、にも後口の苦さが残るだけだ。
「――オレも、止めないっ」
 オレも、自分の決意を止めない。
 逃げているのだと解っていても、現状を変えることを選んだことに間違いない。そう言うと、は更に笑みを深くさせて、オレの頭をくしゃくしゃっと撫でた。
 鳥の巣みたいだと笑ったに、オレもまたゆるゆると口元を緩める。
「直感なんだけど、廉には三星の野球はあってない気がするし、いいと思うよ」
 癖のついたオレの髪を指に絡めながら、は言う。言われた内容にショックを受けて、笑ったばかりの顔をきゅっと唇を引き締めることで硬直させると、は「バァカ」と言って、オレの頭を小突いた。
「畠との相性が悪過ぎるって言ってるだけだよ。アイツ、シュウのフォークの凄さしか認めてねぇから」
 卒業前にいっぺんシメちまえよ、と物騒なことを言ったに、オレは首を横に振るうことで否定した。
 も本気で実行したいと思っていたわけではなかったらしく、二回目以降の誘いは無かったのでオレは安堵に胸を撫で下ろした。
「卒業……っても私はエスカレーターだからあんまり実感無いんだけどさ。廉にとっては、新しいスタートなんだからな。向こうでもやれよ。野球」
 トンと胸の中心を軽く裏拳で叩きながらが発した言葉に、オレの身体がにわかに硬直した。
「で、でも……オレ、は」
 もう野球やらないって決めたから。
 そう言ったら、怒られると思うと言葉を続けることが出来なくなる。さっきまで笑い合っていたというのに、心が萎れていくのが解った。軽く俯いて言葉を探してみたが、何を言えば、オレの気持ちが伝わるのか思いつかなかった。
 視線を地面の上で彷徨わせながら固まっていると、の腕が伸びて、オレの両肩を掴んだ。
 反射的にを振り仰ぐと、普段よりも増して強い視線とぶつかった。視線の強さに比例して、の手に力が篭ったのか、微かに上腕部が痛んだ。
「転校すんのは、リベンジかますためだって私は信じてるからな」
 真っ直ぐな視線と、それよりも真っ直ぐな言葉は鋭くオレの心に入り込んでくる。
 もしも、オレの転校先の西浦高校で野球をやって、甲子園に出ることが出来て、甲子園で三星のみんなと野球が出来たら――。
 そんな仮想現実が、頭の中にサッと湧き出てきた。中学生活では為しえなかった野球が、高校を違えることで可能になれば、どれだけオレは救われるだろう。
、オレ……オレ――」
 みんなと、野球できるかな?
 に聞こうと思って、口を開きかけると、はオレの言葉を聞く前に強く頷いた。
 まだ何も言っていないのに、「大丈夫だ」と言われた気がして、オレの頬は上気する。
「あぁ、甲子園に出てさ。シュウなんかぶっ潰しちまえ」
 言ってニカッと笑ったに、オレはおおきく首を縦に振って「うん、うん!」と何度も頷いた。
 何でだろう。野球を辞めると決めたのに、この瞬間、がくれた夢に、期待してしまう。そして、それが叶うんじゃないかって気持ちになった。それはきっと、の笑みが力強くて、普段から嘘なんて絶対に吐かないから、オレを無条件で安心させたんだ。
 ――泣きそうだ。
 唐突に、そう思った。
 けれどそれは、決して悲しくて流れる涙じゃない。嬉しくて、それを表すものがオレの中には涙しかなかったからだ。
「だから、もし練習試合とかでこっちくることあったら絶対に連絡しろよ?」
、ありが、とぅ」
「泣くな、廉、バカコラ泣くなって」
 息が詰まって上手く言えなかったけれど、は微笑んで応じてくれた。オレの頭を撫でる彼女の掌がいとおしい。の笑顔は、いとも簡単にオレを救う。
 オレを赦してくれる友が、一人でもいたことが、オレにとってどれだけの救いになっただろう。
 心の中で、もう一度、にありがとうと言い、今度はオレからを抱き締めた。
 抱きしめ返してくれるこの腕がある限り、オレはどこにでも旅立っていける、そう思える強さだった。



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