おお振り:叶01裏切り

裏切りセレクション


 高校に上がって1ヶ月経とうかという頃、担任不在のロングホームルームの時間が設けられた。諸々のオリエンテーションなどは終わり、外部から来た奴らとの交流も増えてきたところで気が緩んだというのもあるだろう。
 事の発端は、宮川の発言からだった。
「なぁ、そろそろ女子部の気になる子のミスコンやんね?」
 その発言をきっかけに、クラスの連中は歓喜と興奮に塗れた声を上げる。聞こえた声のほとんどが賛同を意味するもので、そのくだらなさに嫌気が差して目を細めた。
 机に肘をつき、視線を横に流して窓の外を眺めた。春先の陽気さを多分に含んだ空気を思い切り吸い込み、また吐き出す。それでも胸の奥が妙にムズムズするのは抑えきることは出来そうにない。
 ――くだらない、じゃない。
 気になる女と言われて、即座にアイツの事を脳裏に過ぎらせた自分が嫌だった。
 もう一つ、溜息を吐き零して、教壇に立ってはしゃぐ宮川とそれに便乗した吉の姿を眺める。
 黒板にあまり綺麗とは言えない字で「第一回女子部総選挙」と書いた吉と、教卓の中を漁る宮川を始め、クラス内はにわかに沸き立っているようだった。男子部と女子部と別れてはいるものの、そこに通っていればお互いを無視することがあるはずはなく、当然女子部に通う奴らの噂は自然と耳に入ってくる。
 特に可愛い女子の名前なんてすぐに広まるし、誰からともなく写メが出回ったりもしたものだ。オレの携帯にだってメールで届いたことで自動的に保存された女子の写真が数枚と言わず入っている。
「ホラ、叶」
 前の席の畠から、何も書かれていない紙が回ってきた。裏を返して確認してみると、今朝配られた健康診断の日程が書かれたプリントを小さくちぎったものであることに気付く。
 恐らくここに誰か女子の名前を書けということなのだろう。ムッと口元を尖らせて、畠の背中を叩くように紙を突き返す。
「オレは興味ない」
「いやいや、別に好きな女の名前書けってわけじゃねぇんだからさ」
「ヤダよ。だったらお前がオレの分も書いたらいいだろ」
 宥められても、嫌なものは嫌だった。困ったような顔でオレの分の紙を受け取った畠から顔を反らし、また窓の外へ視線を向ける。
 晴れた空の爽やかさを目にしても、腹の中にある不快さは拭えなかった。
「なんやぁ、叶。向こうにカノジョおるんかぁ?」
 少し離れた席から、耳に入った声に反射的に頭に血が上り、即座に振り返る。関西弁混じりの言葉に気付くべきだった。 ニヤついた織田の顔を目にして、早くも戦意が消え失せる。口の達者な織田にどのような反論をしても無駄になることは解りきっていた。
「別に。そんなもんいねぇよ」
「やったら書いたらえぇやん。可愛いと思える女子の一人や二人おるんやろ?」
 極力、冷静になるように感情を抑えて応えたが、織田は事も無げに受け流した上で更に逃げられないように提案を仕掛けてきた。
 挑発されているのは解った。だが、織田の言葉にこれ以上反論したところで、勝てる気がしない。
 誤魔化したいのは自分の中にあるアイツへの感情で、それをいくら織田に言い連ねたところでまったく意味を成さない上、それを聞いた周囲から感情を暴かれる恐れが増すだけだろう。
 口元を引き締めて、まだ紙を受け取ったままの状態でいた畠からそれを引ったくる。視界の端が織田がまたニヤついたのが見えたが、それを極力無視するよう務めた。
 再度、頬杖をついて机の真ん中に置いた白い紙に視線を落とす。気が落ち着かなくて、ペンを仕切りに指で弾いて回す。
 こんなものを真剣に考える必要なんてない。適当に一番人気の女の名前を書いてりゃやり過ごせる。 それなのに、一番気になる女のことを書けと言われて、思いつく相手が一人いる以上、そいつのことしか頭に思い浮かばなかった。

 ――

 声に出さず、口の中で彼女の名前を転がした。唇の動きが頬を抑えた手のひらに伝わり、妙にそれを艶かしく感じてしまう。
 朱に染まる頬を見られたくなくて、顔を窓の方へ更に向け、手の平に唇を押し付ける。  窓の外で掲揚された校旗が風に凪ぐ様を眺めていると、先程まではチラついただけだったはずのの姿がより鮮明になる。
 名前を呼べば、振り返ってくれる。だけど折合いの悪いオレを前にすると、は簡単に顔を歪めた。 不機嫌そうに結ばれた口元や、丸っこい目をしてるくせにやたらと人を睨みつけてくる鋭い視線ばかりが頭に浮かぶ。まるで警戒心の強い犬のようだ。
 意固地なの頑なな態度を見ると、こちらまでつられて怒鳴ってしまうことがある。 かわいくないと、何度直接に言ったことか。
 それでも、歯を見せて笑った時の晴れやかな表情や、口元を優しく緩めたふわふわした様子を見れば、簡単に胸は高鳴った。 例えその笑顔がオレではなく、三橋廉にしか向けられないのだとしても、心が動いてしまうのは抑えられない。
 自然と眉根が寄った。単にケンカ友達という立場で想いを馳せたところでどうにかなるわけがないのに、脳裏を過ぎればどうしても焦がれてしまう。
 小さく溜息を吐き零し、もう一度机の上の紙に向き直ると、そこにはいつの間にか「」と書かれていた。 畠がいたずらで書いたのだろうかと勘ぐったが、どう見ても普段自分が書く字と相違はなく、やはり自分でも気付かないうちに書いてしまっていたらしい。 抑え込めなかった熱が益々増幅される。慌てて消しゴムで消すと、簡単にその紙にはくしゃりと皺が入った。破れなかっただけまだマシなのかもしれない。 指先で皺を取るように撫で付けながら、適当に一番票の集まりそうなテニス部の女子の名前を書いた。  その紙を指示されたとおりに4つ折りにして、シャーペンと共に机の上に放り投げ、もう一度窓の外へ視線を向ける。
 こんな茶番みたいなことを真剣にする奴はいないだろうけれど、そういうのを抜きにしてものことを選ぶ奴なんて、きっとオレ以外にはいない。 それを証拠に、学年問わず出回った女子部の可愛いと言われる女子の写メがどれだけ送られてきても、その中にの写真が含まれることはなかった。
 唯一、オレのケータイに入っているの写メは、三橋廉と一緒に楽しそうにハンバーガーを食っている写真で、それだって三橋瑠里の弟のリューが戯れに送ってきたものだ。
 もし三橋が残っていたら、この紙にの名前を書いたのだろうか。ふと、そんなことを考えてみたけれど、三橋なら書けっつっても白紙で出しそうだなとも思った。
 それから数分も経たずに、吉がコンビニのビニール袋を下げてやってきた。先程書いた紙を回収するつもりなのだろう。黙って拾い上げたそれを袋の中に突っ込むと、少し離れたところから声が上がった。
「ちゃんと書いたんか。エライなぁ、叶」
 織田は机の上に伏せながら、その表情に笑みを浮かべた。
「そういうお前は誰かの名前書けたのかよ」
「そら、可愛い子の写メならぎょうさん貰っとるからな」
 手をひらりと掲げ軽く笑った織田はこの状況をひどく楽しんでいるように見えた。得な性格というのも十分あるだろうけれど、入学したばかりであれば誰の名前を挙げるにしても因果関係がそもそもない。それを少しだけ羨ましく思えた。
「じゃあ開票するぞー!」
 はしゃぐ宮川が徐ろにビニル袋の中に手を突っ込み、黒板の前に立つ吉が読み上げられた名前とその下に正の字を書いていく。名前が呼ばれる度に、簡単に教室内は沸いた。それが少数派の女子のものであればあるほど顕著になった。
 喧騒ではあったが当たる陽光の暖かさに抗いきれず、机の上に腕を置きそこに伏せる。
 正の字が下に並ぶさまをぼうっと眺めていると、テニス部の女子と吹奏楽部の女子で人気が二分していて、事実上その2人の一騎打ちのような状況だった。どれがオレの票なのかは解らないけれど、これだけの数に紛れてしまえば誰かに追求されることはまずないだろう。
 安息が保たれることを確信し、伏せていた上体から更に力を抜き、腕に右頬を乗せて目を閉じる。
 ――後の時間は寝て過ごせばいいや。
 うとうとと微睡む中で、囃す声と女子の名前を聞き流す。あ、三橋瑠里に入ったな、なんてのんびりと眠りに誘われるままに目を閉じた。
「おっ」
 唐突に、宮川の声が弾んだことに触発され、閉じていた目を薄く開く。
に1ぴょーう!」
 その名前に、弾かれたように顔を上げる。立ち上がりかけた膝が机にぶつかり床を擦る音が響く。目を見開いて黒板に視線を伸ばすと、吉が「」と書いているところだった。
っ?!」
「まじかよ」
「いや、それはさすがに…」
「アイツは可愛いってよりイケメンの部類だろ…」
 の名前の出現に、先程まで飛び交っていた歓声とはまた別の種類の声が教室内に渦巻いた。 どよめいた教室の戸惑いは当然で、オレと同じようにの名前を書く奴が居るだなんて誰も思っていなかったらしい。
 不意に畠がオレを振り返る。それを目にしていたのか、周囲の連中もまたオレを振り返り、それが連鎖して教室内の視線のほとんどがオレへと集まる。
 だが、その視線を受けても何かを答えることも、反論することも出来ずに固まってしまう。
 驚愕に塗れたオレの顔を見た奴らの視線が、逃げるように剥がれていくのが視界の片隅に入った。
 口元は強く引き締まり、机の上に放り投げたままだった手は固く拳を握りこんでいた。
 中等部の時から、否、それよりもずっと前からに対して、特別な感情を向けた男なんていなかった。 の周りにはいつも女しかいなかったし、男子の間でも「アイツは男」という認識がもっぱらだった。
 そんなだからこそ、そもそも得票するだなんて思うはずがなく、オレが別の女子に逃げての名前を挙げなかったのはそういう理由だ。
 いたずらなのかもしれない、という保身的な考えが沸き起こったが、その考えは確信もないのに打ち消される。何故かその票は、本当にのことを好ましく思っている奴が書いたのだという予感があった。
 背中にぞわりとした嫌な感覚が走る。オレが気付いていなかっただけということなのだろうか。
 のことを可愛いだなんてストレートに示せる奴が、このクラスにいる。


 ――誰だよ、の名前を書いたやつ。


 別にオレのものでもないのだから糾弾することなんて当然出来るはずもなく、喉元に詰まった声を飲み込む。 オレの中でつとめて冷静な部分が身内に沸き起こった感情を抑えこもうとしたが、歯を食いしばってもなお苛立ちが表に出てこようとした。
 腹がたったのは書いたやつではなく、自分自身への苛立ちの方が大きい。
 なぜ、オレはの名前を消してまで他の女の名前を書いたのか。 もしもオレ自身もの名前を書いていたのなら、こんな風に敗けた気になんてならなくて済んだはずなのに。
 黒板に書かれた「」の名前を暗澹たる思いで眺めていた。
 それは、オレ以外の男がを選び、がその想いに答える可能性を孕んだものだった。



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