おお振り:叶02確かめる

064.確かめる


 朝、登校途中でひとりの少女の背中を見つけた。少女と断言出来たのは、ひとえにそいつがオレのよく知る人物で、制服を着ていたからにほかならない。短く切り揃えられた髪も、肩に鞄を引っ掛けて歩くスタイルも、女らしさを示すよりも強く男らしさを映し出していた。もし彼女を知らない者が私服で歩く彼女を見かけていたら、少年だと間違える者の方が多いことだろう。
 ――まぁ、オレは絶対に間違ったりしないけれど。
 よく見慣れた背中だ。ガキの頃からそうだ。オレは、アイツの顔を見ることよりもその背中を見つめることの方が多かった。
 。オレにとっての幼馴染のひとりである彼女は、高校に上がってからもなお、相変わらず女らしさの欠片も見せないようだった。少しは落ち着けばいいのに、妙に尖ったままだ。ガキの頃にオレが目一杯いじめ抜いたことが理由の一端なんだろうけれど、こうも後を引くものだろうか。もう少し手加減して相手していればよかったんだろうか。今更、過去のことを嘆いたところで現状が変わることがないことは解りきっているのに、どうしても嘆いてしまう。
 アイツは未だに先輩たちから「クン」だなんてフザけた呼ばれ方をしているのだろうか。女子部の様子なんてわかるはずもなく、身勝手な想像に舌を打ち鳴らすことしかできなかった。
 いつだってそうだった。朝から会えてラッキーだと思うよりも早く、「ゲ」という言葉が口からついて出る。小さな声だったから、には聞こえていないはずだ。解ってはいたが、つい反射で自分の口元を手のひらで隠してしまう。歩くスピードを緩めながらの様子を伺う。当然、がオレを振り返ることはなかった。
 薄い唇から、ホッと溜息が漏れた。安堵のために吐いたつもりだった。だがそこに、微かな落胆が混じっていたことに、オレは気付かないふりをする。
 を見かけても嬉しくなんかならない。どちらかというと苛立つ事の方が多い。つい先日、うちのクラスのロングホームルームで執り行われた「ミスコン」のせいで、その反応が益々強まった。
 オレがあの時、の名前を書けなかったのは、ひとえに、オレとの関係が良好だとは言い難いものだからだ。顔を合わせれば口喧嘩になる。昔みたいに手が出ることはないとは言え、そんな状況でどうしてオレがを選べるというのか。
 あの時、に1票を投じた奴はどんな想いで選んだんだろうか。ただ単にウケ狙いだったのか。それとも本当にを「いい」と思って選んだのか。
 前者にすがりたいと思いながらも、漠然と後者が正しいんじゃないかというのは、あの時の教室での反応で理解していた。誰も、に投票したのだと名乗り出なかったことが根拠だというには薄いのかもしれない。だけど少なくはない本気を、オレは感じ取ってしまったんだ。
 普段のスピードよりもだいぶ緩めて歩いてはいたが、どうしても同じ方向に用がある以上、いつかはの背に追いついてしまう。赤く灯る信号が憎いと思ったが、変わってしまったものをどうこうする力はオレにはない。
 これから学校へと続く道を、またの背中を見つめたまま歩くことは避けたい。どうやったっての姿が見えればのことしか考えられなくなる。逡巡し、戸惑い、抗い、だけどようやく観念して、が立つ真横に並んだ。
 薄い胸をわざと反らして顎を持ち上げる。そのまま横目でに視線を流すと、もほぼ同じタイミングでオレのことを見上げた。からは、おそらく俺が悪意的に見下ろしているように見えることだろう。
「な、何見てんだよ」
「……お前なんか、見てない」
 かち合った視線に耐えかねたオレの言葉に、は自分の機嫌が悪くなったことを隠さずに唇を引き締める。毒矢のような言葉に怯んでしまう。冷気をまとったかのような視線に気圧され、反射的に半歩退いてしまった。
「オレだって、お前みたいなブスなんか見てねぇよ」
 言い訳にまみれた言葉では取り繕えた気がしない。だけど何の嫌味も言わないこともまた、出来なかった。の目が細められる。研ぎ澄まされた視線はサバンナにいる獣のようだ。怒らせたのだろうか。チラリと浮かんだ疑念に、オレは思わず唾を飲み込んだ。
「……あっそ」
 追撃の言葉が来るのかと身構えたのもつかの間だった。さらりと流してしまったは同様に視線もまた道の脇に逸らしてしまう。こんな状態では、オレから何を言ったところで相手にしてくれないだろい予感しか浮かばなかった。
 ――あいかわず、かわいくねぇな。
 胸中で吐き捨て、表層に現せない溜飲を下げようと努める。視線が合わないなら、と、じっとの顔を見つめる。
 スポーティな髪型や眉を見て、やっぱりかわいくはないな、と確信する。だが、伸びたまつげや、ふっくらとした唇から漂う女らしさに、簡単にどぎまぎしてしまう。そういうアンバランスな様子がの魅力の一つだった。
 黙っていたらかわいい。それはオレがガキの頃からに対して抱いていた印象そのものだ。
 だが、それは事実ではない。は、口を開いてもかわいいことには違いないんだ。もっとも、オレの前以外では、という前提条件がついてしまうのだけど。
 特に、は三橋 ─── 廉の前では、とても綺麗に笑う。が廉に対して少なくない愛情をかけていることは傍目から見てもわかるほどだった。廉の持つ優しさや弱さがにそうさせるのだろうか。柔らかい笑みは、もちろん、廉にだけ向けられいるものだったが、当然、オレや他のやつらの視界にだって入る。中学の時だって、顔だけでのことを判断した男から紹介してくれだなんて言われたことがが幾度となくあった。そういう類の輩は、の性格を勝手に誤解して、勝手に幻滅して逃げていった。
 だからこそ、ある意味安心していた。の外見も内面も知った上で、ちゃんと好きだと言えるのはオレだけなんだ、って。
 だが、先日のミスコンでの投票により、そんな考えが傲慢だったのだと否が応にも突きつけられた。オレが周囲にバレることを警戒して誤魔化している間に、別の男がを選んだ。その事実が耐え難いほどに痛い。
 中学の時と同じ波が、今また来ているだけなんだ、だなんて気休めにもならない言葉を自分に向けたが一向に気持ちが乗らなかった。
「叶?」
 の呼びかけに、ハッと飛ばし続けていた意識が自分のもとへと戻ってきた。手のひらを額に押し付ける。ぼやけた視界がクリアになるにつれ、の表情がハッキリと写りこんできた。訝しむ様子でオレを見上げるは、口元を曲げたまま佇んでいる。どうやらオレが黙り込んでいる間、のことをじっと見つめ続けていたらしい。小さく溜息を吐き、それから深く目を閉じた。
 は昔のようにオレのことを「シュウ」と呼ばない。その事実を突きつけられたことが耐え難かった。
─── 三橋のことは、廉って呼ぶくせに。
 嫉妬に塗れた言葉が嫌でも浮かび上がる。いまだ真っ直ぐにオレを見上げるの視線に耐え兼ねて、オレは思わず目を逸らしてしまう。くだらない劣等感を解き明かされるような気がしたからだ。
「んだよ、
 せめてもの抵抗、といったところだろうか。オレもまた、口にする時はのことをと呼んだ。そんなことを気にもとめないは、オレを見上げたまま、立てた親指で学校への道のりを指し示した。
「信号、渡んねぇの?」
「は?」
 意味が分からず、の指先に倣い進行方向へと視線を差し向けた。渡るために待っていたはずの青信号が点滅している。道路幅の広い信号だ。今から渡っては間に合わないだろう。間もなくして信号は赤に変わり、待ち構えていた車が何台も通り過ぎていった。
「あ……」
 渡り損ねた信号を悔み、言葉が漏れた。伸ばしたままだった背から力が抜け、促されるように溜息を吐きこぼすと、それと被せるようにもまた溜息を吐き出した。
「あーあ……今ので3回目だぞ」
「は? どういう意味だよ」
「……信号」
 また一つ、呆れたように溜息を吐いたは、オレから視線を外し、カバンを持ったままの指先を少し伸ばして耳の裏を掻いた。気まずい時にやる、昔からのの癖だった。
「……待っててくれたのか?」
 オレにとって都合のいい解釈でに質問を投げつける。チラリとオレに視線をオレに向けたは鼻を鳴らして唇を尖らせた。
「どっかのバカが私の顔を見たままボケっとしてやがるから」
「なっ。誰がバカだよっ!」
「自覚ねぇのかよ。ヤベェぞ、それ」
 ハッと鼻で笑ったは、そのまま信号へと向き直り、肩に引っ掛けた鞄を揺らした。首を右に左にと傾けストレッチをしたかと思えば、また青信号になるのを待つのだというスタンスを見せる。
 の言葉を胸中で反芻する。そんなに凝視していたのか。その間ずっとに見られていたということだろうか。居た堪れなさに耐え切れず、から顔を背けた。苦虫を噛み潰したような不快感を露わにしてしまう。実際は不快感よりも気恥ずかしさや気まずさが強く出ただけなのだが、それでも顔は渋くなる。
 オレの表情を誤解したのだろう。が大仰に溜息を吐きこぼした。感じ悪い態度が耳に入ったと同時に反射的にを睨みつけてしまう。オレと同様の視線を投げてよこしたに、益々苛立ちに拍車がかかった。
「なんだよ」
「別に、何でもないっつの。叶こそなんだよ」
「……別に」
「別にって、なんだよ。言えよ」
「だから、関係ネェつってんだろっ!?」
 怒りに身を任せるかのように語気を荒げてしまう。苛立ちを発散させたせいか、怒鳴りつけたことにより、一瞬で頭の中が冷静になる。やってしまった。後悔するよりも早く、が顔を歪める。
「……そうかよ。詮索して悪かったな」
 舌を打ち鳴らし、顔を背けたは怒りに燃えた表情を隠すかのように下を向いた。もうお前とは話したくない。言葉にならなかったからこそより強く、の横顔からそれが滲み出ていた。
 ひとつ、息を飲む。取り繕う言葉が見つからなくて口篭ってしまう。以前のように、しょうもない軽口を叩いたり挑発したり、方法はいくらでも思いつくのに、上手く口が動かなかった。その理由は多少なりとも検討がついた。

 ――怖いんだ。

 この前のミスコンの結果が自分の中でかなり大きな影響を与えている。重石のように伸し掛かる感情は不安にも嫉妬にもよく似ていた。だが、その中で一番強くあるのは恐怖だった。
 オレ以外の誰かが、を好きでいる。オレがに対して素直になれずにあれこれと思い悩んでいる間に、オレと同じ土俵に上がってきた奴がいるという事実が許せなかった。いや、もしかしたらオレよりも、他の目があってもを好きだときっぱりと示せる相手の方が上なのかもしれない。グツグツと、腸が煮えくり返るようだ。自分に腹が立ってしょうがない。
 に手を伸ばし、かつては長いこともあった髪に手を触れる。
「なんだよ」
「別に、なんでもねーよ」
「またそれかよ……」
 ガキの頃、よくの髪を引っ張っていたことを唐突に思い出した。嫌がられても静止されてもやめなかった。執拗に絡んだのは、意地悪をすること以外でと関わる方法が解らなかったからだ。今となっては、優しくすればよかったんだ、なんて選択肢も増えたが実行に移すことは、成長した今でもできていないのが現状だ。の髪はこんなに短くなってしまった。こんな髪では、呼び止めるために引くことは出来ないんだろうな、と漠然と考えた。
 オレの知らないところで、に彼氏が出来る。その可能性は決してゼロではない。気付くと同時に、オレはの目を真っ直ぐに見返すことが出来なくなった。が真正面からオレを見ていると、尚更だった。 
 オレにされるがままになっているは口元を引き締めたまま何も言わない。追求したところで求める答えを何一つオレが口にしないというのがわかってるんだろう。長年の付き合いってやつか。今まで甘えてきた関係性だ。何も言わなくてもある程度のことはわかる。だけど、それは所詮”幼馴染”という間柄限定のもので、それ以上に踏み込んだことは何一つ、わからなかった。
 ひとつ、溜息を吐く。どんどん気持ちが暗くなっていくのに歯止めが掛けられない。目の前にいるを見つめるオレの目は、どんよりと薄暗いものに変貌していることだろう。
「なぁ、おい」
「なんだよ」
「お前、好きな奴いるのか?」
「ハァ?」
 鉛のように重くなった心境で、開放できるものはそれしかなかった。純粋にのことを好きだと言えない以上、代わりにのことを暴くことでしか、自分の気持ちを表せそうにない。
「三橋のこととか、好きなんじゃねぇの」
「は、だから、何言ってんのお前」
 普段意識して声を低くしてしゃべっているだろうの声が裏返る。あまりにも唐突すぎたのだろう。見たこともないような表情を浮かべたは、オレから距離を取ろうとしたのか、手のひらを翳して顔を背けた。
 動揺よりも衝撃の方が強かったらしい。その横顔は羞恥よりも焦燥に塗れていた。髪に触れたままだった手を翻し、翳されたままになっているの手を取る。ひんやりとした手のひらは、それこそ10年ぶりくらいに握ったんじゃないだろうか。びくりと跳ねた手を握り込めることで抑えた。逃がさない、と強く思ったのは、この手のひらでのことを繋ぎ止めることができたならと願ったからだった。
 コホン、とわざとらしく咳払いをしたは、チラリとオレへと視線を流す。細められた視線から感じ取ったのは、勘弁してくれ、という願いだった。だけど、もうこんな風に聞いてしまって、今更無かったことになんてできるはずがない。言葉にせず、掴んだ手のひらに力を込める。眉を寄せたは、オレが引き下がらないことを知り、またひとつ溜息を吐いた。
「ルりのことも、廉のことも、好きだよ。当たり前だろ」
 ワザとらしく廉のことだけではなく三橋瑠里のことを引き合いに出したは、ほとほと困ったようにオレを見上げた。どうやら性質的に恋愛じみた話が苦手らしい。
 の手のひらが動く。握り込めていたままだった手が開かれ、そのまま指と指の間にのそれが交差するように入り込んでくる。
「投手なんだろ。……あんま、手に力いれんな」
 手のひらが緩んだことで、いつの間にか手に力が入っていたらしいことを知る。強ばっていた指先が解けていくのを感じながら、の手を引き寄せた。
「オレは……?」
「は?」
「お前、オレのことどう思ってんだよ」
「え、ちょっと……お前、どうした?!」
「答えろよ」
 縋るように手を引いた。の視線がオレから逃げるように逸らされる。逃がすもんか。口に出す前に、手に力を込める。そうすればがこちらを振り返ることを知っていた。眉根を寄せ、オレを見上げるはほとほと困っているのだとも言いたげで、その視線だけで心が萎れるようだった。
 答えられないのが、答えなのか。
 ぐっと喉の奥に力を込め、吐き出しそうな感情を飲み込む。感情に任せて怒鳴り散らすのは得策じゃない。だけど意識して堪えなければ、もういい、だなんて諦めに似た言葉を吐いて捨ててしまいそうだった。
 目を伏せたが、ひとつ、息を吐いた。そのことだけで背中に変な力が入ってしまう。じっとの目を見つめる。改めてオレを見上げたは、ほんのわずかだが、オレを睨みつけていた。
「シュウのことは、別に、前みたいに嫌いじゃねぇよ。一応、その……幼馴染だろ」
 言って、または目を逸らした。いつしか、掴んだ指先から冷たさが消え、燃えるような熱を感じ取れるようになっていた。微かに赤くさせた頬や尖らせた唇が、失態を誤魔化す子供のようだと思った。
 一応、幼馴染だから嫌いじゃない。その言葉を反芻し、現状を正しく理解する。嫌われてないということはわかった。だが、そんな曖昧な言葉が欲しいわけじゃない。
「嫌いじゃねぇってどういうことだよ。好きってことか?!」
「はあっ?! ちょ、お前、ホントどうしたん?!」
 いまだ納得しない心境を更ににぶつけた。眉を持ち上げ、混乱した様子のに、更に詰め寄る。鞄を持った方の手を、オレの胸にぶつけ抵抗しているが、そんな痛みに怯んでいられない。
「なぁ、教えてくれよ。、お前、オレのこと好きなのか?」
「ホント勘弁しろよ。朝っぱらから。どうしたの、お前」
「朝だとか関係ねぇよ。お前と、あんまり会えないから聞けるときに聞いときたいって思ったんだろ」
「あ、ホラ。信号変わったぞ。私はもう行くからな」
「行くっつっても同じ方向だろ。オレ、お前がちゃんと答えるまで手ェ離さねぇからな」
「マジかよ……。ルリたちに見られたらどうしたらいいんだよ」
 肩を落とし、息を吐いたは、オレを振り仰ぎ、それからブンと大きく腕を振った。だが、その抵抗は意外とあっさりとしたもので、難なくの手を握ったまま、動きについて行くことができた。もしかしたら野球やっているオレに気を使ったのかもしれないが、それ以上抵抗するようなことはないのだろうと思うとほんの少しだけ安心することが出来た。
 本当に手を繋いで歩くのか、と言いたげにじろりとオレを見上げたに、返事もせずただ強く手を握った。益々肩を落としただったが、腹を括ったのかオレの手を握り返して歩き始めた。
「……お前、本当にロクな性格じゃねぇな」
 耳まで赤く染めた顔で凄まれたところでちっとも怖くないと言ったらは怒るんだろうか。というよりも、照れ隠しに凄むってどういうことだよ。本当に相変わらずかわいくねぇな。やっぱりこんな女に惚れる男なんていないんじゃないか。
 口にすればまた怒られるであろう言葉を脳裏に浮かべながらを見下ろす。時折、オレを見上げ、一方的に睨めつけてくるはオレが何も言わずにいると観念したように正面を向く。目に飛び込んできたの、いまだ赤みの残る耳が、オレの胸の奥に火をつける。
 年季と想いが比例するだなんてことはないのは重々承知している。そして、そんなのはただのオレの独りよがりだということもまた理解していた。それでも、オレの方が、誰よりもを好きだと信じたい。
 ――負けてらんねぇよ。の名前を書いた男にも、オレの劣等感にも、だ。
 付き合いたいだとか口にすることはまだ出来ないけれど、の手を取って歩く権利は、絶対に他のやつには渡さない。それだけは強く胸の内にあった。



「で、はオレのことどう思ってんだよ」
「またそれかよ……いい加減、察しろよ、バカシュウ」



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