保護中: 比呂01

国見君は、ヒデちゃんの友達？ 「あ、ヤベ」 部活が終わった後、鞄の中の確認をしていると、今日の宿題で出された数学のプリントが入っていないことに気付く。 「どうした？比呂」 隣で着替えていた敦が不思議そうな顔で覗き込んでくる。それに対して手のひらを敦に向け、待ったをかける。ノートの間に挟まっていないか一応の確認をしてみたものの、おれの希望が叶うことはなかった。 肩から息を吐き出し、敦へと向き直る。 「ヤベーよ、明日の数学のプリント。教室置いてきちまった」 「マジかよ。どーすんの？」 「取りに帰るしかねぇだろ」 「ついていってやろうか？」 「いや、いい。それより先に豚モダン行っててくれ」 「おぉ」 待たせると悪いというよりも、さっさと店に行って焼いてくれてたら、着いたらすぐに食えるから、その方が都合がいい。 説明せずとも了承してくれた敦と連れ立って部室を後にする。グラウンド横あたりで敦と別れるとすぐに教室に向かって駆け出した。 人の気配の少ない校舎内を走れば、自分の足音だけが耳に響く。下校時刻も差し迫っているこの時間に校舎内にわざわざ残る奴なんて滅多にいないのだろう。ましてや、一年生しかいない階であればなおさらで、入学して間もない時期から教室を陣取ってしまう不届き者はいないようだ。 「おっと、ここか」 ついうっかりと自分の教室の前を走り去ってしまいそうになり、慌てて引き返す。しんと静まり返った教室は扉をすべて閉ざしており、他者の侵入を拒むかのように重苦しい雰囲気を醸し出している。 ――鍵がかかってませんように。 そう願いながら教室の戸に手を掛けて、軽く右に引くと、なんの抵抗もなく開いた。 音も無く滑る戸をくぐり、ふと正面に視線を向けることで、ガランとした教室の姿が目に入る、はずだった。 だが誰もいないと思っていたその教室には、一人の少女が佇んでおり、当然のごとくその姿はおれの目の中に飛び込んでくる。予想に反した結果に、必要以上に驚いてしまい、一歩退く。 西日の差す教室で、はためくカーテンの影に隠れたその少女は、黒板に近い方の窓に背中を預け、そのまま上体を少しだけ捻って窓の外を眺めている。 どうやらおれが教室に入ってきたことにはまだ気づいていないらしい。 口元を引き締め、ガラスの窓にこめかみを寄せ、伏目がちに佇む少女の姿は、まだ幼さの残る顔も相まって、ひどく脆く見えた。 「アイツ確か……」 ひかりの友達であることは確かだ。だが、彼女は中学に上がってからの友達で、名前がスッと出てこなくて軽く逡巡する。 小学校の頃からの友達とももちろん仲良さそうにはしていたが、中学に入ってからはずっと、移動教室の際に隣を歩くのも、休み時間に笑って話をしているのも、ひかりを見た際、決まって一緒に目に入るのは彼女だった。背が低いおれが言うのもなんだが、彼女はまだ成長期の訪れた様子がなく、おれの幼なじみであるひかりと並ぶと小学校３年か４年くらいの妹のようにしか見えなかった。 じっと彼女の姿を見つめていると、ひかりの凛とした声が脳裏に響いた。 「……だっけ？」 ひかりは彼女のことをと呼ぶ。 その通りに呼びかけるのは少しだけ憚られたけれど、名前が思い出せなくてと呼び捨てる。 呼びかけると、当たりだったのだろうか、びくりと肩を震わせて彼女は振り返る。西日を背負った彼女だったが、その表情翳ることなくハッキリと見えた。 そうだ、だ。 、。 入学して、同じクラスになったヤツの名前はまだ覚えきってはいないけれど、顔を見た途端に彼女の名前が脳裏に浮かんだ。それと同時に、クラスが決まってすぐに、敦がコイツのことを可愛いって騒いでいたことを思い出す。 あどけない表情がいいだとか、守ってあげたくなるようなふわりとした空気がいいだとか、口々に捲くし立てていた敦だったが、と仲良さそうに話していたのも束の間で、彼女の傍にいつもいる男の空気に気圧されて、勝手に玉砕したと嘆き、自棄コーラをあおっていたことも記憶に新しい。もちろん、敦の惚れっぽさは小学生の頃からの病気みたいなもので、数日もすればバスケ部のなんとか先輩が超可愛いだのと騒いでいたのだが。 「……国見君？」 の唇からおれの名前が紡がれる。思い描いていたよりも低い声だった。同時に強い視線が突き刺さる 彼女と面と向かって話をしたことは無いが、普段はもっと朗らかに笑う奴だった気がする。敦の言葉を借りれば、ふわりとした印象を持つの空気が、今は痛々しいほどに尖っている。 一体何がこんなにも、彼女の空気を刺々しいものに変貌させてしまったのだろうか。 から視線を逸らし、痒いわけではなかったが、耳の下あたりを指先で掻く。自分の中で生まれた感情がどういう種類のものかわからないときにしてしまう、小さい頃の癖みたいなものだった。 訝しみながらも、教室の中へと足を踏み入れ、整然と並んだ机の隙間を縫って自分の席へと近づいていく。教室の真ん中の列、前から２番目の席。そこがおれの席だ。 自分の席に近付くに連れ、自然と彼女の表情がハッキリと見て取れるようになる。 まじまじとの表情を見たままでいたが、は唇を引き締め、逃げるように背中を向けてしまう。 その肩にあるのはおれに対する警戒心ではなく、彼女自身の中にある感情が負の方向へと傾いでいたことを知る。気まずそうに引き締められた唇と、困ったような表情がそれを表していた。 自分の席を通り過ぎ、の隣に立つ。恐る恐るといった様子でおれの顔を盗み見たは、おれと目が合うとすぐに俯いて視線を逸らしてしまう。 「泣いてんのか？」 「泣いて、ないっ」 彼女の落ち込んだ様子に、思わず声をかけると、顔を上げておれを振り返ったはまた強い瞳でおれに視線を向けた。正面に立つと目が合うと、ほんの少しだけではあるが、の目の位置がおれよりも高いことに気付く。の方がおれよりも小さいと思っていたのに、と内申で驚いてしまう。 あまりにもデリカシーのない発言になってしまったことに対して、またおれは首筋を指で引っ掻いた。 の表情と肩にはありありと悲嘆が表されているのだが、抗いにも似た言葉を叫んだ彼女の言うとおり、目は潤んでいたものの、涙は流れていないようだった。彼女の目はあまりにもまっすぐで、その気持ちごとおれの胸に突き刺さる。 それは単なる子供の強がりではなく、女としての気丈さを感じさせた。 「そっか」 「うんっ」 首を縦に振ったの、揺れる頭が酷く寂しげで、触れたことも無いその頭に、自然と手が伸びていた。柔らかな髪を撫で付けてやると、当然は吃驚したように目を丸くする。 ――手を離さないと。 そう感じながらも、素直に手を離せないでいた。 「……なんでおれこんなことしてるんだ？」 「え、わかんない」 ひかりにもしたことがないようなことを、初めて喋るにしてしまったことにおれ自身も驚いていた。されるがままになるが、困ったように眉根を寄せる の纏う空気から固さが取れたことを確認し、唇を引き締めて、手を離した。 踵を返し、に背を向け、自分の席へと足を進める。 「国見、君は……」 そもそもの目的であった宿題のプリントを取ろうと机の中を確認していると、唐突にが口を開く。 ともすれば消え入りそうなの声が耳に届いた。 訥々としたの声は、微かに震えていて、ほんの少しでも突付いたら泣いてしまうのではないかと言うほど朧気で、その不安定さに思わず顔を顰めてしまう。 「国見君は、ヒデちゃんの友達？」 ヒデちゃん、という言い方に馴染みが無くて、眉根を寄せての顔を見返してしまう。 「ヒデちゃんって……誰だ、そいつ」 「あ、ごめん。ヒデちゃんってのは……橘君のこと」 「橘ぁ？」 聞き慣れない名前を反芻すると、は小さく頭を縦に揺らした。その橘というのはの友達なのだろう。脳裏の記憶を辿り、と一緒にいる男の姿を思い描いた時、一人の男の姿が思い起こされた。 敦がを諦めると決めたきっかけになった、いつもの傍に居る男。 脳裏に一瞬チラついた笑顔は、つい先日、野球部で一年生のみの紅白戦で対決した男のものだった。 ――おれ、橘英雄って言うんだ。お前の球、すごかった。だけどおれは二度とお前に負けない。 負け犬の遠吠えとはまた種類が違う。自信を伴ったその言葉は、おれに対する牽制のようなものだった。 彼女の言うヒデちゃん――橘英雄は、間違いなくこの先、中学球界を代表するスラッガーになるだろう。中学一年生だというのに随分と背が高い橘のその言葉を、おれはうんと見上げて聞いたものだ。 ライバル心を真っ直ぐにぶつけられたその勝負はおれの三球三振でピリオドを打ったのだが、おれが全力で投げた球にでさえも、フルスイングすることを貫いた。敦が外角に構えるのを何度も首を振って、真ん中ストレートで仕留めたいと、初めて思えた相手でもあった。 そんな男と同じ学校で野球ができること、味方であることは頼もしかったが、敵として、本当の意味で闘うことが出来ないのは酷く残念だとも思う。 「あー……友達って言うか、部活仲間ってとこだな」 野球部で一緒にはなったものの、まだそこまで別に仲がいいわけではないから、友達だと宣言するのは気が引ける。ライバルなのだと強く敵愾心を抱いていることを、わざわざに宣言するのもどこか違う気がして、曖昧な返答をする。 「そうなんだ……」 おれの反応に対して、泣きそうな顔で笑うを見て、違和感を覚える。橘とは随分仲よさそうにしていたのに、どうしてアイツの話をする時にこんな辛そうな顔をするのだろうか。もし、おれがひかりの話をにしたとしたら、きっとこんな顔はしない。 の長い睫が伏せられた目に掛かり、目の淵に微かな影を生み出す。 顔を少しだけ上げたと目が合うと、少し困ったように笑うの表情に含まれた憐憫に触れ、覚えのない歯痒さが込み上げて、小さく下唇に噛み付いた。 他人に対して抱く初めての感情に、戸惑いと疑問が生まれたが、イラつきとはまた違う感情を把握できなくて、持て余してしまう。おれが教室に入った時にも、は同じような顔をして窓の外を眺めていた。 ――が泣きそうな顔をしているのは、もしかして橘が原因だったのだろうか。 根拠もないのに、何故かそんな考えが頭を過ぎる。はためくカーテンを手で抑え、窓を閉めたは、背中に窓を背負いおれの方へと向き直る。 だが、表情を曇らせ、緩やかにおれから視線を反らすは、言葉を探しているようには見えない。もしこのままおれが教室から出て行ったら、それで終わりとなるだろう。 「一緒、豚モダン食いに行かね？」 唐突に唇から漏れた言葉に、発したおれ自身が面食らってしまう。 敦と約束しているから、おれが豚モダンを食いに行くことは決定している。だが、初めて喋るをいきなり誘うことも、その誘いが唐突であることも否めなかった。 おれを見つめるの表情にも困惑がありありと刻まれている。おれもまたどのように取り繕えばいいか解らなくて、目を瞬かせたままの言葉を待った。 「……それって駅前の？」 控えめに発せられたの言葉に、おれは小さく安堵の溜息を吐いた。 「え？ あぁ、そうだよ。行ったことあるのか？」 「ヒデちゃんと、何度か」 「うめぇだろ、あそこ」 「うん。そうだね」 自然と声が弾む。おれの馴染みの店に、もまた行ったことがあるというのは、に対して親近感を与えるには充分だった。 「久しぶりに行こうかな」 首を縦に振ったは、少しだけ口角を上げて笑う。それが嬉しくて、鞄を取った手とは反対の手で、の手を引いた。 「よっしゃ。じゃあ早く行こうぜ」 「あ、うん」 少し戸惑う素振りを見せただったが、緩やかにおれの手を握り返してくる。幼い頃から、ひかりに手を引かれることはあったけれど、こうやって手を引くのは初めてだった。 黙ったままついてくるだったが、思ったよりも気まずさを感じない。胸にストンと落ちるような心地良さは、長い付き合いのあるひかりや敦とも遜色ないと行っても過言ではないようだった。 「おい、比呂ぉ」 下足場を出ると、間延びした声が遠くから響いた。反射的にから手を離し、その聞き慣れた声の聞こえた方角へと視線を延ばすと、校門の前にある生垣の前の石段に腰をかけた敦が目に入る。 先に豚モダン行っとけって言ったのに。なにやってんだ、アイツ。 おれの方へと大きく手を振っていた敦だったが、おれから視線を横にずらし、の姿を確認した途端、表情を曇らせる。 「あ、お前、なんでちゃんと一緒に居るんだよっ！」 「なんでって、一緒に豚モダン食いに行こうぜって誘ったんだよ」 「はぁ？お前、まさかちゃんと帰るためにおれに先に行けって言ったんじゃねぇだろうな？」 「違ぇよ、タコ」 「抜け駆けすんなよっ！」 「駆けてねぇっつってんだろ。っつーかお前諦めるって言ってたじゃねぇかよ」 「お前相手なら負けねぇよ！」 「はぁ？どういう意味だよ」 「そのまんまだろっ！」 ヒートアップするおれ達の会話を目を丸くして聞いていただったが、次第に先程までの硬かった表情を解いていく。手の甲で口元を隠してはいるが、それでも溢れる笑みは、おれと敦の毒気を抜くには充分過ぎるものだった。 あぁ、敦の言っていた屈託のない笑顔って言うのはコレなんだろうな。 陰鬱とした先程の様子とは違い、愛らしく見えるその笑みにつられておれも笑う。手のひらに微かに残る柔らかさを指の腹で辿る。 とはひかりや橘を通してだけではなく、付き合いが長くなりそうだ。 確かな理由など無いけれど、不思議とそんな予感がした。