東峰 旭01

どんなにどんなに


「お待たせ、旭くん」
 団体客の食器を洗い終え、ひと段落がついたのか、頭に巻いていたタオルを外したさんは屈託なく笑う。カウンターに置きっぱなしにされていた新聞を片手に、こちらへのテーブルへと足を伸ばした彼女は躊躇なく俺の向かいの椅子を引いた。
「えっ。あ、はい。お疲れ様です」
 約束したわけでもない。ましてや付き合ってるなんて事実もさらさらない。ただ単に俺が一方的にバイト先に足を運んだだけだというのに、さんが当たり前のように俺のテーブルへ来てくれたことに喜びと照れくささが綯交ぜになって胸に沸き起こる。
 照れ隠しに器を傾け、ぐいっと一息に飲み込んだ。まだまだ熱の残るとんこつラーメンのスープが嫌に喉に絡む。軽い咳払いをすれば、残り少なくなっていたグラスに水が注がれた。
「慌てないの。ラーメンは逃げないよ?」
「ですね、ありがとうございます」
「どういたしまして。伸びない程度に食べなさいね」
 軽く頭を下げ、水を口に含む。チラリと正面に視線を戻せば、困ったように笑うさんの柔らかな眼差しにぶち当たり、ますます戸惑ってしまうだけだった。
 さんは昨年まで烏野に通っていたひとつ上の先輩で、この春、大学に進学してからは俺たちがよく行く食堂でアルバイトを始めた。縁が切れてしまうかと気を揉んでいたことが杞憂に終わり、ひとまずの安息を得た、という状態だ。
 スガなんかは「さっさと告白しちまえばいーのに」だなんて無責任なことを言うし、大地は大地で「チャンスがなくなって会えなくなっても知らないぞ」だなんて、自分のことを棚に上げて呆れたように言ったものだ。
 夏も盛りに入り、もうすぐ19時を回ろうかという頃合でも、まだ外にほんのりと日の明るさが残っている。大人たちが一杯引っ掛けに行くよりも少し早い時間帯は、子供連れのお客さんが疎らにテーブルについているような状態だ。それも俺よりも早いタイミングでお店にやってきた人たちばかりで、滞りなく注文の品々を配膳し終えれば、あとはゆっくりご飯を食べてもらうだけだ。
 「仕込みに関しては店長がやっているから大丈夫だよ」と笑われたのはいつだっただろうか。4月頃に「俺と喋ってて大丈夫ですか?!」だなんて恐縮して叫んでしまった時だっただろうか。
 進展のない間柄に小さく息を吐いた。俺の溜息を耳にしたせいか、テーブルの端にあったコップを塩梅良く並べ直していたさんの視線が俺へともどる。
「ん?」
「あ、いえ、少し熱くて」
「そっか」
 やけどには気をつけるように、とお姉さんぶった口調で言ったさんはテーブルの上に持ってきたばかりの新聞を広げた。
「夏といえば甲子園だよねぇ」
 なんとか王子だとか平成の怪物だとか。赤や黄色で縁どられた大きな文字が並ぶスポーツ新聞を眺めながらさんは興味深そうに目を輝かせる。出揃ったばかりの県代表の一覧を指でなぞった彼女は今年も白鳥沢が代表なんだね、と笑った。バレーだけでなく野球でも有名なんだな、と麺をすすりながら漠然と考える。
「旭くんはバレー部だったよね?」
「へ!? あ。はい、バレーです」
 器の中を箸で探るのに集中していたせいか、不意に自分のことを尋ねられたことに戸惑って声が変に裏返ってしまう。
「そっか」
 カタン、と軽い椅子の音と共に立ち上がったさんは、のれんを潜り、カウンターの奥へと引っ込んでいってしまう。どうしたんだろう、と掴んだ麺を再度すすりながら戻ってくるはずのさんを待つ。程なくして小さな器を片手に戻ってきたさんはサッサと手早い様子で箸を取り俺の器に移していく。
「頑張ってる旭くんに、チャーシューおまけだよ」
「えっ、あ、ありがとうございます…」
「いーのいーの。店長も烏野バレー部のファンだから」
 前にも餃子をおまけしてもらったことがあるが、その時と全く同じ理由を並べられて恐縮してしまう。お礼になれば、と何度か通っているが、その度にこうやっておまけをもらってしまっては本末転倒なのではないのだろうか。
 人の好意を無碍にすることは出来ないが、いっそのこと通うこと自体を減らした方がお店のためになるのではと卑屈なことを考えてしまう。
「その代わり勝ち進んだら試合観に行かせてよ」
「え、いいんですか?! 野球じゃないですよ?!」
 先程の様子を思えば、さんがバレーよりも野球に興味があることは見て取れた。甲子園の代替品としてみるのなら、楽天の試合を見た方が満足感は高いはずだ。
「テレビの向こうの熱狂よりも身近な人を応援したいのはおかしいこと?」
 まっすぐなさんの言葉に、ただただ呆けてしまう。おかしくないとも応援してくれたら嬉しいとも答えることができない。言葉が詰まってしまい、目を瞬かせてしまう。否定も肯定もしない俺にしびれを切らしたのか、さんがほんの少しだけ眉根を寄せて俺を睨みつける。
「なによぅ、若い子の応援じゃないと嫌だって言うの?」
 ひとつしか変わらないのに、年齢のことを引き合いに出したさんにますます狼狽してしまう。取り繕う言葉を探していると、さんが益々不満を表情に押し出す。ぷぅっと膨らませた頬が、さんをいつもより幼く見せた。
「そんなことないです。ただ……俺ばっかり貰ってる気がして……」
 器の上に箸を置き、自分の首の裏に手をやった。熱がこもっているのはラーメンのせいだけじゃない。好きな人を目の前にして、その相手から嬉しくなる言葉を与えられたら大体の男子高校生は舞い上がってしまうはずだ。
「いいんだよ、私が旭くんのこと応援したいだけだから」
 ニッと口の端を引っ張って笑ったさんに、益々堪らなくなってしまう。耳に熱が走る。
 これ以上言われると、さんの善意をまるっと勘違いしてしまいそうだ。
 今までは与えられる言葉に喜ぶだけだった。ただ、あまりにもストレートなさんの言葉に、勝手に勇気づけられたような気持ちが沸き起こる。どんなにカッコ悪くても、どんなに情けなくても、精一杯の気持ちを吐き出したい。
「あ、あの」
「ん、どうしたの?」
「勝ち進めなくても、俺のこと、応援に来てくれませんか?」
「えっ」
「あ、いや……無理にとは、言いませんが……でも、もし応援してくれるのなら俺が嬉しいので……」
 突発的に生まれた熱に触発された言葉も、さんの反応一つで弱々しいものへと変貌する。まさか、俺はさんが二つ返事で肯定してくれるだなんておこがましいことを考えてしまっていたのか。口元に手を添え、思案する表情を浮かべるさんに、審判の時を待つ死刑囚のような気持ちに陥ってしまう。
「応援って1回戦から行ってもいいものなの?」
 実直に俺を見つめながら口を開いたさんの質問に、思わず目を丸くしてしまう。微塵も考えていなかった切り口に、どう答えたものか逡巡し、夏大の予選へと思いを馳せる。たしか、商店街の人たちは普通に応援にきていてくれたはずだ。そして視線を巡らせても見つからない姿に、さんの予定が合えば応援に来て欲しいのに、と願ったことも同時に思い出す。
「え、はい。結構父兄の方とか、来てますよ」
「そうだったっけ? ……あっ!!」
「ど、どうかしましたか?!」
「そっか、高校生の頃は授業の日にあったからか」
 口元を手のひらで覆い隠したさんは、目を見開いて愕然とした様子を見せる。彼女の言葉に、確かに土日だけでは追いつかないからと平日に試合が行われていたことに思い当たった。
 おそらく、さんもまた昨年の記憶を頼りに試合を見に行きたいと考えたからこそ「勝ち進んだら」ということだったのだろう。
「まだまだ女子高生気分だったわ……恥ずかしー」
 両の手のひらを顔に押し付けたさんは、照れくさいのか自分の頬を揉むように大きく手を動かす。ほんのりとだが、耳までが赤く染まっている事を思えば本当に恥ずかしいと思っているのだろう。
さんならまだまだ女子高生でも通用しますよ」
「そういうフォローは返って恥ずかしくなるから勘弁してよぉ」
 机に突っ伏す勢いで顔を伏せたさんの視線が横に外れたことでようやく大きく息を吐き出した。今までは俺がラーメンが食べたいから、という理由を添えてお店にやってこなければ会えなかったけれど、もし、本当にさんの言葉が実現するのなら、体育館で会えるかもしれないのか。少しでも接点が増えることは、現状を思えば十分に喜ばしいことだ。それも自分が大いに精を出しているバレーを応援に来てくれるだなんて、まるで夢みたいだ。
 まだ、これが俺の精一杯だなんて言うと、またスガや大地に笑われそうだけど、いつの日か、さんに思いを告げる時が来たら、今日頑張ってよかったと思える時が来るはずだと信じたい。
 器に少しだけ残った紅しょうがと、先程さんにもらったばかりのチャーシューを絡めて食べる。ほんのりとした肉の甘みに紛れたしょうがの辛さが喉の奥に詰まるようだった。
 曖昧に笑った俺を、自分が笑われたのだと勘違いしたのか、恨めしそうに唇を尖らせたさんに、やっぱりかわいいな、だなんて思った。



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