東峰 旭02

オンリーワン


 秋から冬に移り変わるこの季節に降る雨は思いのほか冷たい。寒い冬に慣れているとはいえ、それでも感じとった寒さには首を竦めることしかできなかった。傘を叩く雨音を耳にしながら、この雨はこれから更に勢いを増すのだろうかとぼんやりと考える。
 早めに帰った方がいいな、と思うよりも先に、少し寄り道をしようか、だなんて選択肢が頭を過る。その選択肢はいつだって俺の中に用意されているものだった。
 もうすぐさんのバイト先だし、雨宿りがてら立ち寄ってもいいのかもしれない。寒いから温まりたくて、だなんて言ってラーメンでも食べて帰ろうか。
 あ、でも今週の頭にも食べに行ったばかりだし、あまり寄りすぎても迷惑かもしれないな。今日はやめといた方がいいのかもしれない。でもどうせこのまま真っ直ぐ行けば烏野食堂に着くし、せめて一目だけでも見れないだろうか。
 そんなことを悶々と考えていた矢先だった。

 ―― あれ、さんだ。

 数メートル先の車の脇に立つ女性は、紛れもなくさんだった。車から出てきたばかりなのか、雨の日だというのに、傘も差さずに立ってい車の中を覗き込んでいる。駆け寄ってこの傘を差し出した方がいいんじゃないか。その考えに従って足を動かそうとした。だけど、どうしてか動き出せなかった。
 車の中の人に頭を下げたさんが、相手に対して、とても、安心しきった笑みを見せていたからだ。会話は聞こえないものの、顔を上げたさんの様子から、仲のいい相手なのだということは察せられた。
 ドキン、と心臓が跳ねる。口元を真っ直ぐに結び、喉の奥に生じた違和感を黙って耐える。少し先にあるバイト先に駆け込んださんを、暗澹たる思いで見送った。先程までの浮かれた気分が唐突にしぼんでいくのがわかった。
 水を跳ねる音と共に通り過ぎる車。チラリと見えた横顔は、確かに男のものだった。


「はあああああ」
「辛気臭いなひげちょこ」
 俺にとってかつてないほどの衝撃をもたらしたシーンを目撃してしまってから1週間経っていた。あれ以来、当然、烏野食堂に足を運べてはいない。どうしても気後れしてしまうのは、さんに彼氏がいるかも知れないという可能性が常に頭にあるせいだった。
 昼休みにジュースを飲んでいる時も、授業中に本読みを当てられてその後もう当たらないなと安心した時にも、ふとしたことで思い出してしまう。あの男は誰なんだ、だなんて追求できる立場にない。ただ気にして、嫌な考えだけを頭に思い浮かべて、傷つくことしかできない。
 部活の休憩中に聞く大地のまっすぐな罵倒に対しても、曖昧に笑うことしか、今はできなかった。
「ああ、ほんと普段と変わらない罵倒さえ今は落ち着くよ」
「本当に気持ちわるいな」
 げんなりとした様子の大地に苦笑する。力ない笑い方しか出来ていないのは薄々感じていたが、鏡に向かって笑っているわけではないので実際にどの程度ぎこちないものを浮かべているのかはわからなかった。ただ、笑ったのにも関わらず、正面にいる大地が顔を顰めたものだから、あまりいい表情を作れてないんだろうなと漠然と感じ取った。
「…今日の帰り、ラーメンでも食いに行くか。話くらいなら聞けるぞ」
「はは、ちょっと今はその勇気はないかな」
 飯を食いに行くのに勇気がいるのか、だなんて不思議そうな顔をしていた大地だったが、何やら勘付いたらしいスガが呆れたように眉根を寄せた。
「大地はわかってねぇなー」
「なんだよ、わからないから相談に乗るって話をしているんだろ」
「そうじゃないべや。こういうのはもっと配慮が必要なんだよ」
 スガの言葉に納得がいかない表情で首を傾げた大地は口元を引き締めて俺に視線を向けた。大地が間違っているわけでも、スガがすべてを知っているというわけでもない。案外、相談してみたらすんなりと解決してしまう可能性だってある。
 だけど、二人にさんのことを相談するのは憚られた。もし相談するとなったらさんのことで悩んでいることを伝えなければいけない。そうなれば当然、さんに彼氏が居る可能性を説明しなくてはいけなくて、その結果、聞いてみればいいじゃないか、だなんて流れになって、本当に彼氏がいるのだと確信してしまうのが怖かった。

* * *

 思い返しては胸が痛む。それは部活を終え、へとへとな状態で帰る道のりでさえも同様だった。思い浮かべなければいいはずなのに、ふとした瞬間に気にしてしまう。昨年までは同じ高校生で、学校の中で探そうと思えば、好きなだけ会うことができた。
 でもさんが大学に進学してしまってからは、なにひとつ接点がなくなってしまった。俺がさんのバイトしている店に通わなければほとんど会うことすらままならない。こんなの一方的に追いかけているだけだ。
「諦めた方が楽なことは、知ってるんだけどな…」
 ポツリとひとりごとをこぼす。彼氏がいるとかどうか以前に、さんが俺を好きになってくれるだなんて未来が想像できない。解りきっているのに、どうしてか、諦めがつかない。
 スマホで片思いの諦め方、だなんてワードで検索したりして、無駄な時間を過ごしてはやっぱり会いたくなって。そんなことばかりを繰り返してきた。
「何を諦めるの?」
「わっひゃあ!」
 もう一つ、溜息を吐きこぼそうかと思った瞬間に、背後から声がかかった。俺が、さんの声を聞き間違えることはない。半ば確信しつつも振り返れば、人が悪い笑みを浮かべたさんがそこにいた。
 驚きにより早まった鼓動は、会えたことによる喜びに移り変わり、そして先週のワンシーンが頭をよぎったことで焦燥に変化した。肩にかけたカバンの紐を縋るように握り締める。こんばんは、だなんて挨拶を交わしながら、はねた心臓を押さえつけるように息を吐いた。
「あ、いや……今度、期末試験があるんですけど…もう諦めちゃおうかなって…」
「あー、そういうことかー」
 先程まで頭にあった理由を口にすることはできない。咄嗟に思い浮かべた曖昧な返答を信じたらしいさんは、顔を顰めて苦笑した。
「勉強だけがすべてじゃないけど……追試にはならない程度に頑張った方がいいよ。じゃないと補講なんかでバレーする時間がなくなっちゃう」
 先輩らしい助言に、素直に頷いた。うん、とひとつ頭を揺らしたさんは、そのまま歩き始める。これは一緒に帰る、ということでいいんだろうか。確かめて、やっぱりやめる、だなんて言われるのが怖くて、恐る恐るさんの隣に並んだ。チラリと俺を見上げたさんが微かに微笑んでくれたから、間違いじゃなかったのかとそれだけで安心してしまう。
「今日はバイトだったんですか?」
「んーん。今日はちょっと街に買い物行ってきててさ、その帰りなんだ」
「あ、もしかして……デート、ですか?」
「ええ? 違うよー。どうしたの、急に」
 クスクスと笑って答えたさんに、今日は違ったのか、と小さく安堵する。
「あ、いや、かわいい格好してらっしゃるから…もしかしたらって」
 安心したら口の滑りも良くなるのか、普段ならばなかなか口にできない正直な感想を添えてしまう。俺がそんなことを言うのに驚いたのだろう。ほんの少しだけ頬を赤くしたさんに背中を叩かれる。
「もー、旭くんったら」
 照れくさそうに笑ったさんは「今度お姉さんがラーメンおごってあげよう」だなんて妙な先輩風を吹かせている。曖昧に遠慮しながらも、頭の中にひとつ、考えが浮かんだ。
 俺の帰り道の途中にあるさんの家までの距離は然程残されてはいない。聞きたいことをたくさん抱えている俺には、その短い時間で全てを聞き出すことは出来そうもないが、せめて一端だけでも掴めないかと会話を切り出した。
さん、彼氏いらっしゃるんですよね…」
 かまをかけるというよりも断定した言葉を選んだのは、曖昧に聞いてしまうことで、その結果、あやふやな言葉が返ってきてしまったらもう二度と追求できないと感じたからだった。覚悟を決めて聞いたはずなのに、口に出した瞬間、背中に嫌な汗が流れる。
「え、いないよー」
「で、でもっ」
「うん?」
「この前、男の人の車から……降りてきてましたよ、ね?」
 言いながら途中で随分気持ちわるいことを言っているなと自覚した。偶然見たとはいえ、それを後から彼氏でもないただの後輩に追求されるなんて、ちょっとした恐怖に違いない。
 慌てて取り繕おうとしたが、既に思案するように視線を右斜め上に向けたさんは、一つの考えが頭に浮かんだのか「あぁ」と頷いてみせた。
「それ、月島さんのことじゃない?」
「え?」
「えっと確か1年生に弟くんがいるんだよね?」
「あ、あぁ。います。月島」
「その、お兄さん」
 俺の質問とさんの言葉が結びつかなくて、キョトンと目を丸くしてしまう。突然、話題の中心に出現した月島の顔が頭をよぎるが、その兄となるとパッと思い出すことは出来ない。そもそも月島が兄を俺たちに紹介するなんてシチュエーションが思いつかない。俺が知ってる月島からはまったく想像できない。どちらかというと妄想に近いんじゃないだろうか。
 記憶を手繰り寄せる中で、白鳥沢戦の応援席の中で、見慣れない人がいたことを思い出す。目深に帽子をかぶっていたその男の人が月島からやたらと睨まれていたこともまた、記憶の中に残っていた。
「え、それじゃ……さん、は」
 と、いうことは、だ。まさか、さんは月島の兄と付き合っているということなんだろうか。俺が告白も出来ずにうだうだしている間に、そんなことになってしまったのか。ついこの前の白鳥沢戦で知り合ったばかりで、まとまってしまったのか。それとも前から交流があったんだろうか。俺が入学する前にさんの憧れの先輩だったとか、そういう甘酸っぱいものがあったのではないか。でも月島の兄貴って田中のお姉さんよりももっと年上じゃなかっただろうか。学校で知り合うことがなかったのならお店の常連だったとか、いや、それでもさんは大学に入ってからバイトを始めたはずだから、やっぱり俺の方が早くに出会っていた可能性が高い。と、なると俺がグズグズしているのが敗因なのではないだろうか。でも早くに告白したからといって、必ずその想いが報われるかというとまた別の話で……。あぁ、でもこんな風に後悔するくらいならいっそ早く言っておけばよかった――。
 ぐるぐると考えを巡らせている間、きっと悲痛な顔をしていたのだろう。俺の表情を目にしたさんは小さく苦笑した。
「あの日、最初は冴子ちゃんとも一緒だったんだよ」
「冴子ちゃんって……田中の、お姉さんでしたっけ?」
「そうそうー。それで、すっごい雨降ってさ、大学の近くのコンビニで雨宿りしてたんだよね。そしたら月島さんが通りかかって…車だし通り道だから送ってくれるって。優しいよねー」

 偶然だと主張するさんは、嘘は吐いていないのだろう。あっけらかんと、いつものように滞りなく喋っているのがその証拠だ。それでも、付き合っていないのだとしても、好印象だったのは間違いないようだ。
「あぁいう人がお兄ちゃんだなんて月島くんが羨ましいよ」
「……そういう時って、彼氏っていうもんじゃないんですか?」
「彼氏?」
「はい、彼氏です」
 きっぱりと告げると、さんはぱちぱちと目を瞬かせた。目を丸くしたさんの様子では、月島さんと付き合うだなんてまるっきり考えになかったように見える。願望混じりかもしれないが、そう信じたかった。
「考えたことなかった。でも、うーん……あそこまで優しすぎるとちょっと不安かな……」
 吟味するように顔を顰めたさんは、口元に手を当て長い息を細く吐き出した。うーん、と鼻にかかるような声で唸り、「失礼かもだけど、やっぱりないなぁ」だなんて言いながらその眉間にシワを刻む。
 ひとまず、彼氏かと思った月島さんは現状では彼氏ではなく、またタイプとしても当てはまってないということに安心してしまう。ただ、なんとなく腑に落ちなくて、言葉がもれてしまった。
「そういう……もの、なんですか?」
「そういうもんだよー。私は結構わがままだから、私にだけ優しい人がいーの」
 言って、目を伏せて笑ったさんに、胸の奥がきゅうっと鳴る。
 今のはヒントだ。好きなタイプの男がそのまま彼氏に直結することはなくても、そういう男になれれば、もしかしたらさんが俺のことを想ってくれるようになるかもしれない。そんなおこがましいことを考えるのは憚られる。それでも目指さなければ何も得られないのだとしたら、俺はそんな男にならなければいけない。そう思った。
「じゃあ、俺はさんにだけ優しくしますね」
 言わないよりも、言ってしまった方が諦めがつく。そんな思いに駆られて口にしてしまった。
 宣言したものの、さんの反応なんて確かめる勇気は無くて、「だから彼氏にしてください」だなんて繋げる勇気はもっと無い。顔を逸らし、それでも足りずにきゅっと目を瞑る。
 喉の奥が詰まるような気持ちを抱えたままでいると、隣でさんが小さく笑うのが聞こえた。



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