縁下 力02:願う

006.願う


 夏休みを目前に行われる期末試験。この結果によってはバレー部の東京合宿に参加できなくなるという武田先生の発言は、同級生と後輩ふたりずつ、計4人を地獄へと突き落とした。
 重ねられる言葉とプレッシャー。ガクガクと震える姿がチラホラと目に入りはじめたところに補修という追い打ちをかけられた瞬間、体育館内の情景は一変する。
 いち早く現実からの逃走を図ったのは田中と西谷だった。
「縁下捕まえろ!!」
 体育館から飛び出そうとする気配を察知した大地さんに命じられるままにふたりの背中を追う。捕獲してもなお無駄な抵抗を試みられるのかと焦ったが、意外にもふたりは大人しくうなだれるだけだった。
 ホッと息を吐いたのも束の間、いまだ落ち着きを見せない喧騒へ視線を戻せば、日向は赤点は何点からなのかと取り乱し、影山がそっと呼吸を失ったと山口が叫んでいた。突如として阿鼻叫喚と化した体育館内に沸き起こった混沌を楽しんでいるのは月島ひとりだけだった。

 体育館から部室へ場所を移動してもなお残っていたざわめきは、4人が大地さんの前に並んで正座をしたことでようやく鳴りを潜め始めた。だが静寂が深まるにつれ、色濃く纏われた緊張感は増す。部室内に行き渡った緊張は、今では問題児だけでなく外野である俺らまで息苦しさを覚える程だった。
 脱いだTシャツを胸の前で畳みながら、いまだ恐縮しきりの田中たちに視線を伸ばす。赤点回避に向けて注意事項の初歩の初歩から唱える大地さんや授業中寝るなよと釘を刺す菅原さんの言葉を一身に受ける4人は憔悴しきった表情を浮かべていた。
 ――まだ何もやってないのに、今からこれじゃ先が思いやられるな。
 何か言われる度にギクリと肩を震わせる姿を目にすると、呆れと今後への不安に重い溜息がこぼれた。
 いつもの威勢なんて見る影もないほどにしおれてしまった田中と西谷は、あらぬ方向を見ては菩薩顔を浮かべている。合掌した手のひらはお互いの行く末を案じてのものなんだろうか。
 ――これは本格的に先を考えないとだなぁ。
 大地さんの言う通り、田中と西谷、それに影山と日向なしの大会なんて考えられない。4人にはなんとしても――何を引き換えにしてでも、赤点を回避して夏合宿に臨んでもらう。
 ほのかに灯った闘志に自然と口元が引き締まる。シャツの前を閉め、学ランを羽織った俺はテスト勉強の予定を立てるべく項垂れた田中と西谷に歩み寄った。

 ***

 結局、二年での話し合いの結果、五人で勉強するのが一番効率がいいだろうという結論に至った。赤点常連だと豪語する田中と西谷に加えて、ちょっと不安だと謙遜する木下の面倒を比較的余裕のある俺と成田とで見る。戦力バランス的には心もとないが、まだ時間はあるんだ。何もせず手をこまねいているだけじゃ状況は変わらないのであれば、覚悟を決めてやるしかないだろう。
 だが、腹を括ったところで浮かび上がる不安が隠し通せるわけでもない。俺と成田の懸念を感じ取った大地さんは「わからないこととか、対応が難しい場合は遠慮無く言えよ」と言ってくれた。端から当てにするつもりはないが、本当に行き詰まったときは相談出来る、という安心感に口元は緩んだ。
 だが、それはそれとして、二年の後始末はなるべく俺らの中で片付けたい。そんな決心を胸に抱いた俺たちは、昨日は田中の家でみっちりと、そして今日は俺の家でしっかりとテスト勉強をするべく集合した。
 部屋に5人も入れば窮屈だが、不満を聞き入れるほど余裕のある状況じゃない。ダイニングテーブルに自室から運んできた勉強机用の椅子を突っ込んで、額を付き合わせて勉強を始める。
 手元に広げられたプリントは、教科担当の教師が問題集から抜粋し、希望者用に作成したものだ。「ここから出るぞ」と断定されたわけではないが、わざわざ「自信のないやつはもらった方がいいぞ」と言い触れてる以上、重点的にやって損は無いはずだ。
 パッと目を通して問題を解く傍ら、いわゆるお誕生日席に腰かけた俺は左右に座る田中と西谷の様子に目を光らせる。外を歩いて来たことで汗をかいたせいか、難問にぶち当たったせいか。手の甲で顔を拭う西谷は水を飲むべく勢いよくペットボトルを傾けた。

「飲み終えても麦茶しかないぞ」
「お構いなく!」

 プハ、と息を吐きながらベットボトルから口を離した西谷は再び問題へとかじりついた。クーラーをつけているとは言え、真夏日は否応なしに続いている。水分補給も体調管理、ひいては試験勉強に臨む上での心構えのひとつだ。協力できる範囲での手助けは惜しまないつもりだが、5人全員分となるとさすがに心許ない。だからと言って飲み物を買いに行く時間なんて与えられるのだろうか。
 ――それはこの後の進捗次第だな。
 ひとまず買い置きの麦茶も冷やしておこう。そう思い、テーブルから離れた俺は棚から出したペットボトルを冷蔵庫に突っ込んだ。戻りがてら西谷の正面に座る田中に目を向けると、時折、菩薩顔を披露しながらも真摯に問題に取り組んでいるようだった。
 ――そのやる気をいつもから出せよなぁ。
 当然、抱くべき感想を胸中に浮かべながら椅子に腰掛けると、俺もまた期末試験に向けての勉強を再開させた。
 難問にぶち当たる度に呻くふたりを叱りつけたりたしなめたりしながら、こつこつと問題を解き続ける。一時間も経てば逃走心よりも目の前の課題に意識が傾き始めたのか、田中も西谷も次第におとなしくなっていった。
 チラリと視線を流せば、今ではテーブルの上に顎をつけ、半べそで数学の問題を解いている姿が目に入る。あまりいい姿勢とは言えないが、そんなことで水を差してせっかくのやる気をふいにするのもよくないだろう。
 小さな溜息と共に視線を手元に戻せば、右隣から軽いものが割れる音が聞こえてきた。

「あ、やべ。シャーペン壊れた」
「……どういう握力してんだよ」

 驚愕の顔を浮かべた西谷の供述に対し、その隣に座る木下が呆れたように感想を口にする。その手に握られたシャーペンの見るも無残な姿に思わず頭を抱えた。

「これはもう使えないな……。替えのシャーペンは持ってきてるのか?」
「いや、ゆうべ壊したからもうないな!」
「ゆうべもかよ」
「さすがだぜノヤっさん……」

 心配そうな成田の声に答えた西谷の言葉に思わず俺も田中もツッコミを入れてしまう。奥へと視線を伸ばせば言葉に出さないながらも木下も成田も呆れた顔を浮かべている。当の西谷だけがどこ吹く風で笑っていた。
 
「……机の上にペン立てあるから適当に取ってきていいよ」
「おぉ、ありがとな!」

 自室を指し示し促せば、立ち上がった西谷は俺の部屋目掛けてピュンと飛び込んでいった。
 テーブルに残された元シャーペンの姿を横目に入れる。たった今、破壊されたシャーペンは、縦に亀裂を走らせ、中のバネやパーツさえもねじれ曲がっていた。
 きゅっと目を瞑り、今、西谷が見繕っているだろうシャーペンの行く末を案じる。ペン立てに差したものは使い古したものだし、せいぜい100円かそこらのものだ。わざと粗末に扱われるのは勘弁して欲しいが、集中した果てのものならば致し方ない。
 一本は破壊されるのを覚悟しておこう。そんな風に落ち着いた気持ちで受け入れるつもりだった。だが、ペン立てに差したままにしている文房具以外のものが頭を過れば一瞬で頭が真っ白になる。
 ――まずい。アレは隠しておくべきだった。
 西谷は無断で盗むような男ではないが、善意で交換してくると残してコンビニに走り出しかねない男だ。アレが手元から離れてしまったら。それを考えただけで指先が冷たくなる。
 今更隠すのは難しくても、取り戻さないと。その一心で椅子から立ち上がったものの、俺の部屋から戻ってきた西谷が手にしたものを目にした途端、身体が硬直する。

「力ッ! お前、アイス交換してねーじゃん!」
「あっ!」

 西谷の手に握られたガリガリ君の当たり棒。それはまさに、俺が絶対に破壊されたくないものとして頭に思い浮かべたものだった。
 悪気無く部屋から持ち出してきた西谷は、俺に見せつけるかのようにアイスの棒を眼前に突きつけた。あの日、同じように差し出された記憶が鮮明に蘇る。つい先程浮かび上がったばかりの焦燥が、思い出すだけで目の前がきらきらと光るような思い出に簡単に上書きされた。



 一年前の夏休み、俺が罪悪感と共に積み重ねていた陰鬱とした気持ちを軽く吹き飛ばしてくれたのは、初めてしゃべったひとりの少女だった。



 烏野へ入学して初めての夏休み。鵜飼監督によってもたらされた厳しい練習に絶えかねた俺は、中学から続けていたバレーを初めてサボった。
 ほんの少しの心苦しさはあったが、それ以上に気分は晴れやかだった。苦しい練習からも怒られることからも解放されて、久しぶりに自分の時間が持てる。――そんな気がしてた。
 だけど、日を重ねるにつれて気楽に構えていたはずの気持ちは罪悪感に塗れることとなる。どうしようもないほど練習が辛くて逃げ出したのは俺だ。あんな想いはもうしたくないと思っているはずなのに、それ以上に〝こんな無駄な時間があるんだろうか〟と迷うほど、不安ばかりが折り重なっていった。
 家でじっとしているのも耐えられないくせに、一度離れた体育館に戻る決心ははなかなかつけられず、宛所もないままに家を出た俺は近くのコンビニへと足を運んだ。
 ひんやりとしたコンビニに辿り着けば、少しは頭は冷静になるかと思っていたが、頭の中はいまだ〝どうしよう〟ばかりが渦巻いている。深い溜息を吐きこぼしながら〝今日のアイスは何を食べようか〟と悩む振りをして、バレー部に戻るかどうかを頭に思い浮かべた。晴れない気持ちを抱えたまま、手近にあったバニラアイスを手に取る。そのまま買って帰ればいいはずなのに思うように足が動かない。
 パッケージを眺めているのかいないのか。自分でもわからない視線をカップに向けたままショーケースを前に立ち尽くしているところに、隣から声をかけられた。

「ねぇ、いつまでアイス選んでんのさ?」

 つっけんどんな言葉に思わず振り返れば、眉根を寄せてこちらを見上げる女子の姿があった。目が合うときゅっと眉根を寄せる彼女はさらに追い打ちで「買わないなら退いてくれる?」と続ける。
 鋭い視線と遠慮の無い態度に圧されるままレジへと向かう。結局、いつものバニラアイスになってしまったと嘆くような気持ちと共に家へと足を差し向けると、コンビニを出たところで脇腹当たりのシャツを掴まれた。
 驚きと共に振り返れば、先程話しかけたきた少女が立っていた。厳しく眉根を寄せたままこちらを見上げる彼女は、何に対してそんなに不満を抱えているんだろう。疑問が浮かぶままに目を数度瞬かせる俺に対し彼女は真摯な視線を外すことなく「一緒にアイスを食べよう」と誘ってきた。
 意図のわからない誘いにすぐ頷けるほどの胆力は無かったが、振り払うほどの気力も沸き起こらず、結果、その子に誘われるままに公園へと足を運んだ。

「あ、あっちに座ろうよ」
「あぁ、うん」

 運良く木陰に空いていたベンチに腰掛けた少女は、自らをと名乗った。青城に通うらしい同い年のさんは、俺が名乗ると同時に勝手に「チカ」と呼びかけてくる。他人に踏み込むことに慣れているらしいさんの勢いに面食らいつつも「どうしてそんな悲愴な顔をしてアイスを選ぶのか」という問いに訥々と答えた。
 バレー部であること。夏休みに入って、同じ一年の部員が減って、流されるままに自分もサボっていること。そして、今はそれを後悔していること――。
 たいして面白くもない身の上話を、さんは茶化すことなく聞いてくれた。今までひとりで抱えていた想いを口にすると、問題点が明確になると共にほんの少しだけ気が楽になる。それと同時に自分の気持ちがバレー部に戻ることに傾いているのにも気がついた。

「――それで、戻ろうとは思っているんだけど、なかなか踏ん切りがつかなくて」
「あぁ、あるね。そういうの」
「わかる?」
「うん。チカの問題と同じように言っちゃダメなんだろうけど、テスト前になると勉強よりも掃除が捗っちゃうのとか、好きな男の子に声かけようとしても恥ずかしいが勝っちゃって声かけられないのとか、悪いようにしかならないのに逃げたくなるのってあるなぁって思って」

 彼女なりの逃避例を挙げられると同時に、そんなに単純な話じゃないと反発めいた心地が湧いた。だが、嫌なことから逃げる例を究極的に突き詰めていくと、案外その程度の話になるのかもしれない。特に試験前の話は身に覚えがあった。掃除によって発掘した漫画をダラダラと読んでしまうところまで想像すると、程度は違えど、後悔するという意味では似ているような気さえしてきた。
 
「まぁ、でもそれを決めるのは結局自分なんだろうね」
「うん。ホント、そうだよね……」

 遠くを眺めながら言葉を零したさんの視線を追うようにまっすぐ前を向く。真夏の日差しを受けた公園は、青々とした木も、砂場の白さにいたるまでハッキリとした景色を見せつける。木陰にいるからこそ際だった明るさと熱気を目の当たりにすると、体育館に戻ったらこんなもんじゃないんだろうな、と不安は浮かぶ。それでも、今抱えている罪悪感に比べたらどうってことないもののように見えてきた。
 ――本当に、自分次第だ。
 この暑さを単純に嫌だと考えるのか、それさえも乗り越えて部活に挑むべきだと考えるのか。逃げた現実を目の当たりにすれば大きく肩は落ちる。それでもまだ、戻りたい場所があるのなら――。
 そう考えると同時に、心音がほんの少しだけ早くなる。さんと話しているうちに次第に固まってきた気持ちが胸の内にあるのだと主張しているようだった。
 誰かに引き戻されたところで、自分が戻る決心を抱かなければ続けられない。そうとわかりつつも、わずかに残る緊張に最後の一歩が踏み出せず、勝手に守りに入ろうとする心境に自然と眉根が寄った。
 きゅっと唇を結び、暗い話を聞かせてごめんと謝れば、事情を知ってる人には話せない話もあるとさんは事もなげに笑う。その明るさに目を細めていると、軽く眉尻を下げたさんが俺を見上げて困ったように笑った。

「やりたきゃやりゃいーし、やりたくなきゃやんなきゃいーさ」

 まさに今、俺が思い描いていたとおりの言葉を口にしたさんに、うん、とひとつ頭を揺らす。それ以上の反応が返せないまま押し黙っていると、隣で忙しなく腕組みしたり頭を抱えたりしていたさんがこちらをパッと振り返った。

「じゃあさ、これに賭けてみる?」
「え?」
「アタリが出たら戻る。ハズレが出たら戻らない」

 ガリガリ君のアイスを掲げたさんの目と手元に交互に視線を差し向ける。二往復ほどさせればさすがに彼女の言わんとする言葉の意味が頭の中に浸透した。

「それだいぶ偏ってないかっ?!」
「まぁ、いいからいいから」

 アイスの当たる確率なんて知らないが、精々10%か高くても20%くらいのものだろう。そんな分の悪い賭けがあるかと叫んだが、さんは軽い調子で俺の反論を撥ねのける。
 ――なんて勝手なヤツだ。
 ついさっきまで真摯に俺の話を聞いてくれた彼女に向ける評価ではないとわかりつつも、あまりにも突拍子もない提案に内心で悪態をついてしまう。非難する俺の視線に気付きつつも、余裕の表情でアイスを食べ進めるさんを見ていると呆れと落胆が胸の内を占めていく。
 こうなってしまったらもう結末が出るまで彼女の意識はこちらに向かないのだろう。今後起こりそうな展開を頭に思い浮かべると自然と溜息がこぼれた。不毛な視線を向けていても意味が無い。そう考え直した俺は、ほとんど溶けかけているバニラアイスを掬った。
 食べると言うよりも飲むに近い状態のアイスを味わっていると、不意にさんが「お」と言葉を零す。丸っこい目でアイスの棒の先を見つめるさんは「うわ……」と続けるものだからどうしても気になってしまう。

「ど、どうした?」
「当たった……かも」
「え、本当に?」

 譫言のように紡がれる言葉が信じられなくて、ちゃんと目で確かめたいと思うと同時に勝手に身体は動いていた。頭をさんに寄せれば、見やすいようにとさんもまたことらに身体とアイスの棒を傾ける。そこには「1」とだけ書かれていた。
 その表記には見覚えがあった。「1本当たり」と続くはずの言葉だ。だが、まだすべての文字を見たわけじゃない。
 ――先が知りたい。
 その気持ちが視線に乗ったのがわかった。間近でさんを見返すと、微かな緊張を纏った表情で頷いたさんは再びアイスを食べ進める。シャク、シャクとさんがガリガリ君をかじる度に耳に入る音に合わせて心音が高鳴っていく。最早アイスの様相を残していないカップを手に握り混んだまま、じっとさんを見守った。
 程なくして、アイスを食べ終えたさんは自らの口元から棒を引き抜いた。軽い不安を纏ったような表情は瞬く間に変遷する。軽く目を開くと同時に、一瞬、輝きを放った横顔に、思わず息を呑む。そのきらめきに目を向けたままでいると、さんは「ねぇ、チカ」と呟き、俺の目の前にアイスの棒を差し出した。
 緊張と共にさんの表情から棒の先へとピントを合わせれば、先程以上に息が詰まる思いがした。
 丸っこい文字で「1本当たり」と書かれている。ただそれだけのことで、この上なく肌が粟だった。
 ――驚いた。まさかこんなにも呆気なく当たるなんて。
はじめから分が悪すぎる賭けだった。しかも気の乗らない賭けともなれば、そんな結果、気にするはずもないと思っていた。それでも、いざ目の前に当たりが突きつけられると、喜びが大きく胸を打つ。

「縁起いー……」

 呆けたような顔で呟いたさんの言葉に頷いて返す。まさかこんな結果が出るなんて思っていなかった。さんと話している間に固まっていたはずの気持ちが、ますます強くなる。部活に戻る。この選択が間違っていないのだと後押しされたような気になった。
 アイスを食べて冷やしたはずの体内に強い熱が生まれる。ぎゅっと唇を引き締めたまま当たり棒を見つめていると、さんが手を下ろしたことで視界が開けた。微かな驚きと共に視界を戻せば、難なくさんと視線が交差する。

「チカもアイス食べ終わった?」
「え? あぁ、うん」

 カップの中に残ったものを食べ尽くすべく口元でカップを傾け口の中に流し込む。滑らかさの中に少しだけ残った形を舌先に押しつぶしながらコンビニのビニール袋の中にゴミをまとめていると横からさんの手が伸びる。

「まとめて捨ててくるからここで待ってて」

 俺の返事を待たず袋を取り上げたさんは、自分の手にしていたビニールとひとまとめにするとゴミ箱の方へと駆けていく。ゴミを捨ててそのまま戻ってくるかと思いきや、公園に設置された水飲み場に寄り道しているようだった。
 ――さっき当たったヤツ、もう交換するつもりなのかな。
 漠然とこの後、彼女が取りそうな行動を予想しながら、こちらに駆けてくるさんを見つめる。目の前に辿り着いたさんは走ったことで軽く浮かび上がった汗を指の甲で拭うと、ポケットティッシュを取り出し、先程の当たり棒をくるんでこちらへ差し出した。

「これあげるよ。チカの賭けに対する勝利の証ってことで」
「え? いいの?」

 てっきり早速アイスを交換しに行くものだとばかり思っていたため、突然のプレゼント宣言に思わず受け取ること前提の答えを返してしまう。もちろん、とばかりに頭を揺らしたさんに今更いらないと言えるはずがない。いいのかな、と思いつつも、手のひらを差し出せばそのうえにアイスの棒が載せられた。感慨深い気持ちで眺めていると、頭上でさんが「ふふっ」と笑ったのが耳に入る。

「それじゃ、そろそろ帰るね」

 言って、またしても俺の返事を待たずに踵を返したさんに、思わず手が伸びた。立ち上がり、彼女を見下ろせばこちらを振り返ったさんと視線が絡み合う。
 まっすぐにこちらを見つめる視線に怯みつつも、喉の奥を突き破りそうなほどに迸る気持ちを言葉に変えて紡ぎ出す。

「あ、あのっ! 今日、俺、さんと話が出来て良かった!」

 とにかく今、胸にある感謝の言葉を伝えるべきだ。そんな考えと共に放った言葉は、想像以上にストレートな言い回しになってしまった。一瞬、面食らったように目を丸くしたさんだったが、瞬きひとつ挟めば眉を八の字にしながらも歯を見せて笑う。

「うん。私もチカと話が出来て良かった。でも、もうこの時間にコンビニにも公園にも来ちゃダメだよ」
「――ッ。うん、わかった! ありがとう!」

 遠回しな言い方だったけれど、彼女の言わんとする気持ちは明確に伝わった。今のは会いたくないだなんて拒絶の言葉じゃない。これから俺が進む道を応援すると、さんは言ってくれたんだ。
 バイバイと笑って手を振ったさんは照れくさそうな笑顔を残してこちらに背を向ける。まっすぐに歩いて行く背中を見送りながら、もらったばかりのアイスの棒と拳を固く握った。



「おい、どーした? 力」
 
 西谷により眼前に突きつけられたアイスの棒が目の前で揺れる。それと同時に、思い出したばかりの記憶が霧散する。結局、あの日、さんからもらったアイスの棒は交換することなくペン立てに突き刺したままだった。勉強の合間に眺めては、勇気をもらってきたものだ。今更アイスなんかに交換できるはずがない。

「それは――」

 返せ、とも触るな、とも続けられないまま言葉を探していると、背後で会話に花が咲き始める。

「そういや俺んちにも交換し損ねて一夏を超えてしまったやつあったなー」
「当たり付あるあるだな」
「あとで休憩がてらコンビニにでも行くか? みんな飲み物も心許ないようだし、少しは歩いて酸素を頭に入れた方が捗りそうだ」

 頬を掻く木下、したり顔で頷く田中、新しい提案を掲げる成田。それぞれの言葉が耳に入ると同時に、ようやく過去と現実の狭間から立ち返った俺は、いまだ西谷が手にしたアイスの棒に手を伸ばす。

「とりあえず、これは返してもらうよ」

 3人の会話に耳を傾けていた西谷から当たりの棒を取り返した。今すぐにでも交換しに行きたいと書いてあるようなきらきらした視線に怯みつつも、これだけは守り通さなければと気を引き締める。

「これは、俺の――願掛けみたいなやつだから交換はしないの」
「そっか。で、願掛けってどういうんだ?」

 あっけらかんと追求してくる西谷に言葉が詰まる。ハッキリとした理由はあったが、それを口にするのは憚られた。
 俺の身の上話も交えれば長い話になるし、端的に伝えるとなると別の意味で難しい。まさか「好きな子との思い出の品だから」なんて言えるはずもないし、その相手が「一度しかまともに話したことがない」なんてもっと言えない。
 説明しようと思えばいくらでも言葉は紡ぎ出せる。だが、やはりどれを切り取っても思い出や淡い気持ちを隠したまま伝えられる気がしない。
 ひとつ、溜息を挟んだ俺は取り戻したばかりの棒を揺らしながら目を細めて西谷を睨んだ。

「言ったら効果がなくなるかもしれないだろ。それよりこれ以上、余計なもの触ったらお前らの試験勉強みてやんないからな」
「ええっ?! 俺とばっちりじゃねぇかよ!」

 まだまだ追求したそうな西谷を撥ねのけるべく最終通告を口にすれば、巻き添えになった田中が困惑の声を上げた。

「そうでもしないと真面目にやんないだろ。――さて、こういう状況は四字熟語でなんて言うんでしょう、はい西谷答えてっ!」
「運命共同体!」
「四字熟語だっつってんだろ!」

 正解は一蓮托生。すんなりと出てこなかった回答に不安になったが、まぁ試験範囲ではないので大目に見るとするか。げんなりとした様子で机に突っ伏した田中と、あぁでもないこうでもないと答えを導き出そうとする西谷を横目に俺は自室へと足を向ける。

「それじゃ、これ片付けてくるから、戻ってくるまでに答えを考えておけよ」
「ぐぬぬ……」

 ふたり分の呻き声を背に自室に入る。いつもの癖でペン立てに戻そうとしたものの、ふと思い直して引き出しを開けた。これ以上、ヤツらの目に留まらないように、と細々としたものが入ったトレーに仕舞い込む。そのまま引き出しを閉じようと思ったが、一度取り出す度にじっと見返す癖は染みついたままで、今もまた自然とその「1本当たり」の文字に思いを馳せてしまう。
 あの後も何回かさんの姿を見かけたけれど、話しかけるにはいたらなかった。彼女がほかの友人らと楽しそうに過ごしていたから。目に入っただけで満足する自分がいたから。あとは、部活後の汗臭い身体では近付けないから、なんてのもある。思い浮かぶ理由はいくつかあったが、そのうちでも大半を占めるのは、まだ自分がさんと向き合うのに相応しい人間になれている確証がなかったから、というものだった。
 一度逃げ出した根性なしに対する不信感は、根深く身内に残っている。だからこそ、もっとちゃんとバレーを続けることで、少しでもマシな人間になりたかった。
 疲労困憊の帰り道、たまたま見かけるさんの姿に、ただ〝元気そうで良かった〟と想いを募らせる。そう胸の内を温めるだけで、不思議と元気になれた。明日もまた、ちゃんと部活に挑もうと身が引き締まる想いさえも抱けた。
 あの日、さんが願ってくれたのは、俺がちゃんとバレー部に戻れるようにというものだった。さんの言葉通り、あんな時間にコンビニにも公園にも行かなくなった俺を彼女が今も覚えてくれているかどうかは知りようがない。
 それでも俺は、さんからもらった当たり棒を心の支えに、今日まで逃げることなくバレーに向き合っている。いつかまた、さんと話ができたとき、胸を張って「バレーやってるよ」と伝えられるように。そんな新しい願いを、このちっぽけな棒に込めていた。
 ――「また一緒にアイスを食べれる日が来るのを信じてる」だなんて言ったら、さんはなんて言うのかな。
 その答えを知るためには、さんと向き合う必要がある。今はまだ自分に対する〝根性なし〟だなんて劣等感が消えていないから会いには行けない。
 それでもいつかこの劣等感を払拭できたなら、その時はちゃんとさんに会いに行こう。
 強い気持ちでアイスの棒を見つめ、新たな誓いを胸に打ち立てると、ひとまず目の前にある期末試験をやっつけるべく4人の元へと戻った。
 




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