岩泉 一04

風邪


 喉の表面がやけに乾く。つい今し方、食堂でうどんを食ったばかりだというのに、すでに水分を流し込みたいような居心地の悪さが喉に居座り始めていた。塩気のある物を食べた後とはまた違う乾きには身に覚えがある。おそらく、冬の乾燥に負けて、喉が炎症を起こしているのだろう。
 喉の奥にあるつっかえたような違和感を拭い去ろうと、軽く咳をしてみた。だが、ちっともよくなった気がしない。それどころかひっかかったものがさらにまとわりついたかのようにさえ感じた。
「岩ちゃん、風邪?」
「いや、違う」
 ゆうべから頭をよぎり始めた疑念を振り払うように答えると、隣を歩く及川はその端整な顔立ちを歪めてみせた。
「また風呂上がった後にコンビニ行ったりしたんでしょ? もう寒いんだから止めなって前も言ったじゃーん」
「お前な……俺の母ちゃんみたいなこと言うなよ」
 辟易したことを隠しもせずに言い返せば、及川は「だっていやじゃん。風邪うつされると」と我が身かわいさの言葉であることを白状した。大仰に溜息を吐きだせば、目の前に白い塊が生まれる。風に乗って霧散したそれを横目に捉えながら、売店でのど飴を買えばよかったかとぼんやりと考えた。
「熱とかないよね? インフルだったりしたら承知しないよ?」
「うるっせぇな。黙ってろよクソ川」
「クソと合体させないで!」
 キィキィと噛みついてくる及川をあしらいながら、渡り廊下を通って校舎の中に足を踏み入れる。三段程度の階段を上り、3年の校舎へと戻ろうと廊下を歩いていると、不意に遠くから声が聞こえた。
「おーい! 岩泉くん!」
 の声だ。耳で捉えた瞬間、確信した。下した判断に促され周囲を見渡す。今の呼びかけは、一体、どこから掛かったのか。
 ――窓の外か?
 いぶかしみながらも、廊下の窓越しに外を眺める。寒々とした景色へと目を向ければ、学校指定外のジャージを身にまとったが、ちょうど、フェンスの上から飛び降りるさまが目に飛び込んできた。
 自分の身長以上の高さから飛んだは、重力に逆らわず体をしゃがみ込ませ、地面に手を触れさせるようにして着地する。足下を気にするそぶりひとつ見せず、やけにうれしそうな顔をしたがこちらへと駆け寄ってきた。
 廊下の窓枠に顎肘をついて迎え入れれば、普段はほぼ並ぶ視線が俺を見上げていることに気付く。いつもと違う角度で見るが新鮮で、思わず口元がほころんだ。
「おぅ、
 片手を挙げて応じると、は窓枠に手を触れさせ、ゆるりと笑った。相変わらず人好きのする笑い方をするやつだ。顔立ちがさっぱりしていることを抜きにしても、の笑い顔を見て、気分が悪くなるやつはそういないだろう。そんなやつがいたら、に勝手に嫉妬しているか、よっぽど性格が悪いやつに違いない。
「何やってんだよ。お前、今、外から戻ってきただろ」
 俺の隣に顔を突っ込んだ及川は、普段からは考えられないほど険のある声でを見下ろした。性格のねじれ曲がったところのある及川は、が女子からの人気面で自分の領分を脅かす相手であると知って以来、勝手に嫌っている。
 よっぽどのやつが近くにいたわ、とげんなりとした表情で及川を見上げる。俺の呆れに塗れた視線に気付かない及川は、折り合いの悪いに、冷たい視線でもって相対していた。
「やぁ、及川君もいたんだ」
「も、ってなんだよ。も、って。お前ってばそうやっていつも岩ちゃんしか見えてませんってアピールするけどさ。それ、俺にまでバレて恥ずかしくないの?」
「角度的にちょうど岩泉くんしか見えてなかったんだよ」
及川から向けられた剣呑な空気を受け止める気のないはさらりと笑う。こういうところが、さらに及川を意固地にさせるのだろう。
「そうやって見え透いた嘘までつく気かよ。だいたいお前は――ぎゃあ!」
  続けざまに不平不満をまき散らし始めようとする及川に辟易した俺は、うるせぇと言う代わりに及川の頭を手のひら全体で押し返してやる。痛そうな声で呻いた及川が、顔を押さえながらその場にしゃがみ込むのが横目に見えた。
 一連の流れを目にしたことで微かに口元を引き締めたは、横目で及川の様子を探るように視線を動かす。その視線を遮るように、ぐいっと前傾すれば、難なくの視線は俺へと戻ってきた。
「で、どうしたんだよ。。学校抜け出すなんて、悪いことやってんじゃねぇか」
「はは、たまにはいいじゃない」
 軽く笑ったは肩を揺らして笑う。口元を隠すために掲げた腕は濃紺のエナメルのジャージに包まれている。外に出るにあたって女子の制服では支障があると思ったんだろう。その上で、学校指定外のジャージを選んでいるあたり、脱走に慣れていると主張していた。
 ――たまに、じゃねぇだろ。
 嘘をつかれたと言うほど重大ではないが、悪さをしていることを取り繕おうとするに、普通なら咎め立てする気持ちが起こるはずだ。だが、普段は真面目だとか品行方正だとか印象の良い言葉が似合うこいつが脱走しているのを目の当たりにすると、どうしてかショックを受けるよりも先に親しみを感じてしまう。 
「別に俺は咎める立場にないからいいけどさ。どこ行ってたんだよ」
「あぁ。うん。ちょっとそこまで」
 口元を隠していた方とは反対の手を掲げたは、手にした小さいビニール袋をこちらに示す。透けて見える中身は肉まんかなにかだろうか。かすかに湯気が立ち上るのを目の端に捉えながら、視線をへと戻す。
「今、向こうのコンビニに行ってきたところなんだ。近道なんだよ、ここ通るの。知ってた?」
 ちっとも悪びれた様子のないは、不適に口元を曲げてみせる。こういう悪い笑い方も似合うじゃねぇか、だなんて新たな発見に、俺までニヤリと笑ってしまう。
「まじかよ。今度、脱走するとき使ってみっかな」
「うん。でも見つからないように気をつけてね」
「それもそうだな。なぁ、よくそこから買い物に行くのか?」
「うーん……月に一度か、二度ってところかな?」
「結構多いじゃねぇか! 全然気付かなかったぜ……」
「ふふ。実は目立たないように動くの得意なんだ」
 肩を揺らして笑うにつられて笑っていると、及川が足下で鼻を鳴らした。どうやら俺とのふたりだけで会話が盛り上がっていることが相当気に食わないらしい。
 すこぶる不快であることを隠しもしない態度に、足刀で蹴りを入れてやる。すぐさま「止めてよ!」と非難の声が上がったが知ったことじゃない。
「ねぇ、岩泉くん」
「ん?」
「思い過ごしだったらそれでいいんだけど、岩泉くん、少し風邪引いてるんじゃない?」
「岩ちゃんはゴリラだから風邪なんて引きませーん」
 足下から聞こえてきた声に、もう一度横蹴りを入れると、今度は明確に悲鳴が上がった。
「あー……変か? 声」
「うん、少し気になるかな。だからさ、はい。これ、良かったら」
 袋の中身を検めるように頭を下げたはその中からひとつ探り当てると、そのままこちらへと差し出した。手をひらき受けとめると、スティック状ののど飴のパッケージが手の中でコロンと転がった。
「さっきコンビニでさ。くじ引きのキャンペーンやってて当たったんだ。のど飴、嫌いじゃない?」
「いや、別に嫌いとかはねぇけど……いいのか?」
「もちろん。風邪は引き始めが肝心だし私は今のところ風邪を引く予定はないからさ」
 もらって、と言う代わりだろうか。手の中に落とされたスティックを握らせるように指先を包まれる。ひんやりとしたの指先の感覚に反して、にわかに手のひらが熱くなる。
「どうもな」
 にばれないようにと乱雑に手を引っ込める。咄嗟の行動をごまかすようにスティックを掲げてみせると、俺の変調を疑いもしないは白い歯を見せて笑った。
「それにしても珍しいな。お前が女に囲まれてないの」
 生まれた照れくささを誤魔化すように会話をすり替えた。俺が知る限り、はいつだって女子に集られている。昼休みなんてもってのほかで、同学年どころか下級生までもが押し寄せる様を幾度となく目にしてきた。
 1年の頃からたまに話すことはあったが、こうやって昼休みにゆっくりと話したのははじめてじゃないだろうか。
「あぁ、うん。今日は少し遠慮してもらったんだ」
「へぇ? あの包囲網を破ったのかよ。やるじゃん」
「うーん。まぁ、正直に事情を言えば聞いてくれない子たちじゃないし」
 口元に軽く握った拳を当て、斜め上に視線を投げたは、ぽそりと言葉をこぼす。つい先程までハキハキとしゃべっていたはずなのに、にわかに声のトーンが落ちたことに、軽く首を捻った。
「なんだ。コンビニに行くって馬鹿正直に言ったのかよ」
「……まぁ、そんなとこかな」
 ふいっと俺から視線を外したは、口元にやっていた手を耳の裏に移動させ、指先で引っ掻いた。何かを誤魔化すような態度だと気づきはしたが、話せないことを無理矢理聞き出すのは性に合わない。が言わないと決めたのなら、詮索しないのが男ってもんだろう。
 嫌な嘘ではないと肌で感じ取っているのも理由のひとつだった。ばつが悪いのか、そっぽを向いてしまったの頬の色がほんのりと赤く染まっているのを見つけてしまうと、途端に何も言えなくなる。
「それじゃ、そろそろ戻るとするよ。せっかく買った肉まんも冷めちゃうしね」
「お、おぅ。そうだな。着替えんのもばれないように気ぃつけろよ」
「部室も近いから平気だよ。じゃあね、岩泉くん! あとで教室で! ……及川君も!」
 手を掲げて窓際から身を翻したは、こちらへ向かってきたときと同じように駆けていく。遠ざかる背中を眺めながら、もらったばかりののど飴のパッケージを破り、口の中に放り込む。薬を煮詰めたような味の奥に、ほんのりと柑橘系の味が混じる。このメーカーのものは初めて食べたが、案外、悪くないように思えるのはもらた相手がだからだろうか。
「も、って言うなよな……クソ」
 足下から呻くような声が耳に入る。チラリと視線を足下に落とせば、廊下にあぐらをかいた及川の姿が目に入る。尻が冷えただの、最後まで嫌な女だだのと、ぶつぶつと不平を口にする及川に、大仰に溜息を吐きこぼす。及川の様子を見るに、いじけるのと腹が立つのと半々というところだろうか。
 こうなってしまったコイツを、無視するのも、蹴りを入れるのも煩わしい結果しか引き起こさないことは、長年の付き合いで知っていた。
「ホンット……ムカつく」
「なんでだよ。はちゃんとお前にも挨拶しただろうが」
「岩ちゃんのついでじゃん!」
「ハァ?! どうせお前、がお前めがけて挨拶したところで気持ち悪いとか言うだろうが!」
「言うけど!」
 自分が優先されても気に入らない。無視されるのも、おざなりにされるのも気に入らない。の何もかもが気に入らないと主張する及川は、聞き分けのないガキにしか見えなかった。
 溜息がその場にふたつ重なる。見れば、及川は眉根に深い皺を刻み込み、心底不機嫌だと顔全体で示していた。
「おい、このクソ――」
「岩ちゃんは知らないみたいだから教えとくけどね。今、キャンペーンやってるの向こうのコンビニじゃなくて正門の方だからね」
 態度の悪さを咎めようと口を開きかけた途端、むくれたままの及川が突然口を開いた。あぐらを掻いた上に顎肘をついた及川の視線は廊下の奥に投げ出されたままだ。唐突な言葉をにわかには理解出来ず、俺もまた及川と同じように顔をしかめた。
「は?」
「だーかーら! のやつ、絶対それ岩ちゃんのために買ったんだって! なんなら売店には売ってなかったの確認してるはずだよ! 恩に着せないつもりなのかもしれないけど、ホンット健気で好青年な王子様気取ってて腹立つっつーの!!」
 早口で一気にまくし立てた及川は自らの頭に手をやり、ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき乱す。苛立ちを大仰に露わにする及川の言葉に、俺は目を白黒させるしかなかった。
 それじゃ、この、飴は。いや、今日、が外に出た理由は――。
「どうせ、アイツ。取り巻きの女の子たちにも――」
 ひとつの考えに思い至る直前に、及川が声を上げたことで思考が遮断される。だが、及川の言葉は繋がらない。言いかけて、口をむぐっと引き締めた及川は貝のように堅く口を閉ざしてしまっていた。
「ほかの女子が、なんだよ?」
「なんでもないよっ!」
「なんでもなくはねぇだろ! がなんて言ったんだよ! 言えよ!!」
「絶対に嫌だね、ばーか!!」
 べっと舌を突き出した及川の、あまりの子供っぽい態度の悪さに瞬間的に腹を立てる。
「このクソ野郎っ!」
 ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた俺たちを、通りすがりの数人がなんだなんだと視線を投げかけては通り過ぎていく。人目があることに気づくと、どことなくいたたまれなさが生まれ、互いに視線を外して黙りこくった。
 納得はしていないからこそ、腹の底に居心地の悪さが沈んだままだ。怒りに翻弄されるのは好きじゃない。おおきく深呼吸を繰り返しながら、口の中に入れたままの飴を転がす。
 時折、飴が歯に当たると、軽い音が頭に響いた。その音を聞いていると、次第に及川への怒りも鳴りを潜めていく。
 怒りが分散すると、先程、断ち切られたばかりの思考が再度、姿を現しはじめた。ガリッと口の中の飴を噛み砕き、浮かび上がったばかりの仮定を口にした。
「……は、俺が風邪引きかけてんの知って買いに行ったのか?」
「俺はそうだと確信してるけどね」
 ハン、と鼻を鳴らした及川は、自らの尻を叩き、ゴミを払いながら立ち上がる。横に並んだ及川の視線が鋭く落ちてきた。
「だからって簡単に絆されたりしないでよね? あいつ、外面がいいだけでホントは計算高いんだから!」
「絆されるって……を良い奴だって思うことのなにが悪いんだよ」
「ハァー? 岩ちゃんがそれだけじゃ済まなさそうな顔してるから忠告してんだよっ!」
 指摘された事実に、瞬時に頬が赤らんだのがわかった。別にへの好印象を、隠していたわけではないが、その根幹にあるものを言い当てられると途端に怯んでしまう。
 ――だが、今、火をつけたのはお前だろうが。
 俺ひとりでは思い当たらなかったの思惑を暴いたのは及川だ。この際、その仮説が合ってるかどうかは関係ない。それを聞いて喜んでいる俺がいる、という動かしようのない事実が何よりも重大だった。
「ちょっと! ホントなんて顔してんのっ!」
「っるせぇな、見んなっ!!」
 及川の悲鳴混じりの絶叫を、拳を添えて振り払う。首の裏に集まった熱は、風邪のせいだと誤魔化すには、あまりにも熱すぎた。



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