影山 飛雄02

003.諦める


「ただいまー」
 委員会の週番を終え、帰り着いた私は普段よりもかなり遅い時間の帰宅を告げながら自宅のドアをくぐる。おかえりという母親の声を耳にしながら鍵を閉めていると、玄関のたたきに父のものとは違う大きな靴が目に入る。
 カジュアルな運動靴は最近新しく買ったらしく、白い部分が電灯に反射して輝いているようにさえ見えた。見慣れないその靴を疑問に思うことはしない。
「飛雄、来てるの?」
 廊下を小走りで通りぬけ、キッチンへと続く丈の短いカーテンを片手で持ち上げ、母親に尋ねた。
「来てるわよー。今日はポークカレーだから呼んじゃった」
 鼻をくすぐる香ばしい匂いにほぼ確信していたけれど、肯定の言葉を楽しそうに告げた母に、思わず苦笑する。メル友なのだと前に聞いてはいたけれど、こうやって私よりも先に飛雄が帰ってきていることに、なんとも言えない気分を味わう。
 リビングのソファの横に鞄を置き、首元のリボンを外してブレザーのポケットに突っ込む。
 視線を巡らせても飛雄が居る様子がない。トイレにでも行ってるのだろうか。
「お母さーん、飛雄はー?」
「飛雄ちゃんならのお部屋にいるから呼んできて。ご飯にしましょ」
 娘不在の部屋に仮にも同い年の男の子を入れることに抵抗のない母に肩を竦める。飛雄に対する信頼の現れなのか、まだまだ子供だと思っているのか。
 思春期に突入している自分にとっては、不愉快とは言わずとも、心中にむず痒い感情が生まれる。ただ、こういう風な扱いを受けることには心ならずも慣れており、溜息をするだけの反応しか出てこない。
 まぁいいや。そう思うこともまた、同様に慣れていた。
 とりあえず、と洗面所で手を洗って階段を登り、自室の前に足を運ぶ。コンコンと2回、扉を手の甲で叩く。自分の部屋なのに、変な感じ。
 数秒待ってみたものの、中から飛雄の声が返されることはなかった。
 制服も着替えたいし、呼ばないで先に食べ始めても怒るだろうし、返事がなくてもドアを開けるという選択肢しか残されていない。
 集中して雑誌でも読んでいるのかもしれないし、そもそも私の部屋なんだから、と躊躇しながらもドアノブに手を掛ける。
「飛雄ー。入るよー」
 念のため、と声をかけながらドアノブを捻って手前へ引く。
 まず目に入ったのはドアの側に置かれた大きなスポーツバッグだった。
 乱雑に投げ落とされたバッグに、リビングに居座るという選択も取らずに私の部屋に上がってきたことが推察される。
 部屋の奥へと視線を移動させると凹んだクッションが目に入る。すぐ側の床に数冊散らばった漫画はお気に入りの少女漫画の1巻ばかりで、いつもは綺麗に整然と本棚に並べられているものだった。飛雄が適当に時間を潰そうとして何冊か取ってみたものの面白くなかったからか、そのまま放り投げたのだろう。
 そして、その飛雄がどこに居るのかとベッドの上に視線を伸ばせば、そこでようやく発見することが出来た。部活のジャージ姿のまま眠る飛雄に、思わず顔を顰めてしまう。
 ベッドが汚れるだとか汗臭いのが移るだとか、そういうこと以上に、ベッドで寝られているという事実を受け止めきることが出来ない。
 花も恥じらう女子高生の部屋で、しかもそのベッドの上で無頓着に寝ていられるのは飛雄くらいだと思う。
「ハァ……」
 下を向いて手のひらで顔を覆い、大仰に溜息を吐き零す。そんな些細な音で起きてくれるほど、飛雄の眠りは浅くないらしい。
 花柄のベッドシーツとそこに沿えられたいるかのぬいぐるみの側に、180cmを超えた男子高校生が眠っている。そのアンマッチ加減に、頭痛さえ感じるほどだった。
 ちゃっかり私の枕を頭の下に敷いて安眠をむさぼる飛雄に近付き、手を伸ばして肩を掴む。
「飛雄、起きなよ。ごはんだよ」
「……んー」
 肩を軽く揺さぶってみたが、寝起きの悪い飛雄が起きる様子は見られない。
 どうしたものかと逡巡する。まさか介護のように抱き起こすことも、ましてや新妻から送られるおはようのチューなんてことも出来るはずがない。
 首の後ろを指先で掻きながら、飛雄の寝顔を見下ろす。壁に向かって寝ている飛雄のうなじが惜しげも無く晒されているのが目に入った。普段、日の当たらない体育館の中にいることが多い飛雄の肌の色は、他の同級生たちに比べたらいくらか白く見える。
 男の割にサラサラな髪質が、重力に逆らわずにベッドへと流れている様に、思わずドキッとしてしまう。照れくささに燃える頬を誤魔化すように手の甲で拭う。そのままベッドの傍らに両膝をつき、飛雄の耳元に唇を近付けた。
 薄く唇を開き、その耳に声を注ぎ込む。
「早く起きないと、飛雄の温玉割っちゃうぞー」
「ふざけんなボゲェ!!」
 ワザとコミカルに声質を弾ませた私の言葉に、文字通り飛び起きた飛雄は怒鳴り散らしながら私の肩を掴んだ。結構な力を込められているその手に、どれだけたまごを潰されるのが嫌なのかと呆れてしまう。
 怒った顔を引っ込めた飛雄は、眉を顰めた私の顔を目に入れ、数度その目を瞬かせる。
「ハァ? なんでが居んだよっ」
「……ここ私の部屋ですから」
 寝ぼけるのも大概にして下さいよ、トビオちゃん。
 呆れた溜息たっぷりにそう告げたけれど、飛雄はまだ納得がいかないらしく、普段から尖り気味の唇をまた更に突き出して不満を全面に押し出した。
 私を睨みつけていた視線をきょろきょろと左右に散らし、そこで漸く合点が行ったような表情を取る。
「あぁ、そういやお前ん家に来たんだったな」
 あっけらかんと言ってのけた飛雄は私のベッドの上で胡座をかく。一方、私はそのっベッドの下で正座をして飛雄の側に詰めていて、肩を落として揃えた膝に手を添えた。
 中学の頃、金田一や国見が飛雄のことを王様だと揶揄していたことを唐突に思い出す。
 今の飛雄の姿を2人にぜひとも見せてやりたい。やっぱり王様だな、なんてきっと同意してくれるはずだ。
 呑気に目元を擦る飛雄に、なんで人のベッドで寝てんのよだなんて問いかけたところで満足な答えが返されることはないだろう。
 大方、床で寝てたら身体が痛くなったから、無意識的にベッドに上ったとか、そんなとこだ。
 帰宅してから何度目か解らない溜息を吐き出す。部屋に勝手に上がられていることが今更なのだから、一々ベッドで寝られたなんてことを気にしていても仕方がない。
 飛雄が気にしていないのだから、私がそれに揺さぶられたところで意味が無いんだから。
「まぁいい」
 よくない。そんな言葉を飲み込んだ。ツッコミを入れたところで飛雄に怒鳴り返されることは解っていた。
「お前、帰ってくんの遅ぇんだよ」
「だって週番だったんだもん」
「またかよ。よくやるな」
 大口を開けて欠伸をしながら、飛雄は自分のお腹を擦る。ぐうと低い音が部屋の中に響く。その音は飛雄からではなく、私の体の中心からも生まれたものだたった。
、飯行くか」
 足を伸ばし、ベッドから降りた飛雄は、ドアの前へと移動してドアノブに手を掛ける。傍らに置かれたスポーツバッグに、手をのばす事はしない。
「とっとと着替えて降りてこいよ。カレーだぞ、カレー」
 口元によだれを垂らし、目を輝かせながら飛雄は言う。子供みたいな顔をした飛雄に、呆れながらも頭を揺らして応えると、飛雄は満足そうに口元を歪めた。
 ドアを押し開き出て行った飛雄はタンタンと足音を響かせながらダイニングへと向かうのだろう。簡単に想像がついたそれに、またしても諦めの溜息を吐き出した。
 着替える前に、飛雄によって散らかされた本を拾い上げて本棚に並べる。一冊ずつ元あった場所にしまい込みながら、よくもまぁ、きれいに一巻ずつ抜いたものだと呆れてしまう。
 ただ、飛雄が起こしたこの行動に腹を立てることはしない。
 カレーはもうすでに出来上がってたみたいだし、お腹が空いているのなら私を待たずにとっとと食べてしまえばいいのに、飛雄はそれをしなかった。この漫画の散らかり具合は、待っていてくれたという証拠みたいなものだ。
 ただそれだけで、むず痒いような心地が生まれ、同様に口元が緩みそうになる。
 誰かに見られているわけでもないのに、手の甲で口元を隠しながら、チラリと床に残されたスポーツバッグに視線を向ける。
 それはまたこの部屋に飛雄が戻ってくるつもりがあるということを意味している。
 どうせまた難解な宿題を出されて、それを解かされるだけだって解っていても、益々口元に笑みが浮かび上がりそうだった。不毛だとも思えるけれど、飛雄の役に立てるのはちょっとばかり、嬉しい。
 そんなことを口にすれば、その言葉の真意に気付かない飛雄から「じゃあ、これも解けよ!」だなんてもっと課題を明け渡されそうだから絶対に言わない。ちっとも届きそうにない想いを嘆きながらも、まだ飛雄の方にその気がないのだから仕方ないかと溜息を吐き捨てる。
 ――まずは、一緒にご飯でも食べますか。家族のように、食卓を囲んで。
 飛雄の残り香の汗臭さに、ワザと顔を顰めながらブレザーを脱ぎ捨てた。



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