影山 飛雄03

029.抱きしめる


 さぁ、寝ようと、ベッドに横たわってどのくらいの時間が経ったのだろうか。
 カチカチと、規則正しい音だけが耳に響く。あまり意識して聞いたことはなかったけれど、耳に割と馴染むその音は、自室の窓の側の壁に貼り付けた時計のものだ。
 視線をそちらに向けても、夜中でしかも電気もつけてない状況では、その輪郭すらも見つけることが難しい。
 カーテンの奥の街灯の明かりさえも届かない中、自分の頭の上あたりを手のひらでまさぐってスマホを探す。硬質で平べったいそれを引きよせ、手の中で操作する。小さいストラップを目印に、スマホの側面についたボタンを押す。瞬時に煌々と四角く照らされた画面のきらめきに、反射的に目を細めた。
 闇に慣れた目を瞬かせながら画面上にピントを合わせると、おぼろげながらもそこに浮かぶ文字列が目に入ってくる。
 時刻はもうすでに12時を回っていた。
 宿題を終わらせた飛雄が帰ったのが10時半よりも少し前で、その後すぐにお風呂に入った。
 今日は夜遅いというのもあったしそんなに長湯はしていないことを考慮しても、11時過ぎくらいにはもう床についていたはずだ。そこまで計算して、もうすでに一時間は経ったのかと愕然とする。
 ギンギンに目が冴えているという程ではなかったが、満足に寝付けないだけで結構堪える。身体が休まらないということももちろんだが、普段とは違うものに包まれていることで神経が磨り減りそうだった。
 平静を保っていられなくなっている理由は、他でもない先程まで部屋にいた飛雄にあった。
 鼻先を摘んだり、掛け布団に鼻先を突っ込んだりと、先程からずっと漂う空気から逃れようと躍起になったが、それも当然長くは続けられない。
「うぅ……」
 息苦しさに負けて顔を離せば、途端にその空気がまた鼻先を掠める。
 呻いた声が誰かに届くことはない。ましてや、飛雄に伝わることなんて絶対にない。
 乱暴な言葉を選べば加害者である飛雄はどうせ家に帰ってぐっすり眠ってしまっているのだろうと思うと腹が立ち、益々眠れない理由が増えるだけだった。
 イライラとした頭の中で、飛雄への罵詈雑言が大挙して押しかける。

 汗臭い、男臭い、それ以上に――トビオ臭い。

 歯を食いしばって息を詰めてもなお、鼻孔をくすぐる自分のものではない匂いに、耐えることが出来ない。
 飛雄が先に帰ってきたと言っても、精々30分も経ってないだろうに、どうしてこんなに鼻につくのか。
 バレー漬けで汗の残る身体で横たわったのが理由なんだろうか。それとも私に飛雄の匂いを嗅ぎ分ける才能でも備わっているのだろうか。
 冗談みたいなことを考えて気を紛らわそうとしたが、それももしかしたら原因の一端なのかもしれないと思うと自然と溜息が吐きこぼれた。
 寝返りを打って枕から頭を下ろす。飛雄が頭を置いていた方に匂いがついたのだから、と試しに裏返してみたけれどそのにおいが薄れることはなかった。
 むしろベッドとの間に留まっていた飛雄の匂いが新しく追加されたような気さえもした。一層匂いが充満したような錯覚に陥り、げんなりと目元を抑えると、手首の付け根に頬が触れた。熱を持っているのを感じ取り、益々居たたまれない気持ちが膨れ上がる。
 臭いだなんて言い訳したところで、自分の中にある結論を誤魔化すことが出来ていないことを自覚してしまう。箱に仕舞いこんで、毛布で包んで、鎖で巻いてでも隠したい気持ちが、簡単にするりと溶け出してくる。
 いいにおいだと感じてるわけでもないのに、飛雄の匂いに嫌でも心臓が反応する。胸の奥にある甘く鈍い痛みが、飛雄に参っているのだという証拠だとして突きつけられているようだった。
 以前、何かの本で読んだことがある。
 男女問わず、首の裏からフェロモンが出てて、その匂い次第で相手との相性がわかるとか、なんとか。もちろん、好きな匂いなら相手のことが大好きで、嫌な匂いなら近づかない方がいいというお決まりのものだ。
 冷静に考えて、そもそも嫌いな相手の匂いなんて嗅ぎたくないし、好きな人の匂いなら受け入れるんじゃないかとも思う。ただそれだけなら、こんな風に胸は締め付けられないのかもしれないとも思った。
 今、私の枕から漂う匂いは、そのフェロモンが詰まったものなのは疑いようがない。
 と、いうことは、今こんなにもドギマギしている私は、遺伝子レベルで飛雄を好きだと言っているのと同義なんだろうか。
 飛雄のことを好きだというのは自覚していたけれど、子供の幼い恋心の延長戦なんだと思っていた。だけどそんな風に細胞で飛雄を好きなのかもしれないと思うと、胸の奥が簡単に焦げ上がるようだった。
 頬の温度が上がった気がした。心なしか指先に触れる額も暑くなっているような気がして、手を剥がしてベッドの上に放り投げた。
 もう一度、寝返りを打って、頭を枕の上に乗せる。ただ先程とは違い、鼻先を埋めるように枕に顔を突っ込んだ。当然、飛雄の匂いがダイレクトに感じられる。

 ――眠れないんですけど、トビオちゃん。

 眉根をきつく寄せて、文句を頭の中に浮かべると、知るかっ!、ボゲェ! とお決まりの反論さえもが飛雄の声がステレオで飛び込んでくるようだった。
 焦げるような気持ちをどうすることも出来ない。届かない文句も、伝わらない気持ちも、何もかもが不毛過ぎる。
「……こっちが知るかッてんだ。飛雄のボケ」
 ポソリと零れた声が、誰も居ない部屋に染みこむ。唇を尖らせて、つばを飲み込むのと一緒に、気持ちも体の奥に流れていけばいいのに、と考える。
 小さく溜息を吐いて感情を紛らわせた私は、飛雄を抱きしめられない腕で、枕を抱きしめた。  



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