影山 飛雄05

パーフェクト・ランデブー


「失礼しました」
 職員室のドアの前で頭を下げ、その場から立ち去った。預けられたばかりのプリントの束に目を落とす。
 日直だからという理由で取りに来いと言われたけれど、こんなもの教師が来る時に一緒に持ってくればいいのに、と思う。反発するほどの気概はないから黙って受け入れたけれど、少し面倒だなと感じるのは否めなかった。
 普段歩きなれない廊下に差し掛かり、少しだけ視線を彷徨わせる。自分のクラスへの最短ルートはどちらだっただろうか。入学したてという程ではなかったけれど、職員室なんてまだ片手で足りるほどしか来ていないから判断に迷ってしまう。
 廊下の窓から見える景色を目にし、右に曲がった方が近そうだと判断を下す。
 そのまま足をそちらに向けると同時に、前方から女子生徒が歩いてくる様子が視界の端に入る。俺よりも背の低いその人が、真横を通り過ぎる。だが、そのすれ違った瞬間に、意識が彼女に持っていかれる。
 背筋を伸ばして歩くその少女の背中を、抗うことも出来ないほどに視線が追いかける。他人を見て、そんなふうになったことが初めてで、俺の中に疑念が沸き起こった。
 ぼうっとしてしまった手から力が抜け、しっかりと持っていたはずのプリントの束がすり抜ける。
「あっ……」
 片膝を立ててしゃがみ混んで手近にあるものから掻き集める。普段ならば気にしない失態が、異様なほどに恥ずかしく感じる。もう先程の人は角を曲がって去ってしまったのだろうか。そうだといいのに。そう思いながら床から視線を持ち上げた。その、矢先だ。
 目の前で、白く、しなやかな手が翻る。指先までまっすぐに伸ばされた手を、視線が辿る。
 散らばった数枚のプリントを拾い上げてくれるその手の持ち主は、先程、俺の横を通り過ぎたはずの女子生徒だった。
 思わぬ接近に、息を呑む。ぐっと喉元に詰まった呼吸が不思議で、左手を添えた。ひとつ、咳払いをして、彼女から視線を外し、彼女と比べて乱暴な手つきでプリントを集めた。
 最後の一枚を拾い上げ、立ち上がると、彼女は手元にあるプリントを手で綺麗に揃えながら立ち尽くしていた。手元に視線を落とすために少しだけ首を傾げたその角度にさえも、目を奪われる。
 じっと見つめていた俺の視線が、顔を上げたばかりの彼女に絡め取られる。目が合うと柔和になったそれに、益々息が詰まるようだった。
「大変でしたね」
「あ、いえ。ありがとう、ございます」
 労うような言葉に曖昧に答え、彼女から差し出されたプリントの束を受け取り自分のものと重ねる。ふと、そこに目を落とすと、自分が集めたものと彼女が集めたものの境目がはっきりと解った。それがまた恥ずかしくて、手の中と腹のあたりを使ってプリントの端を揃える。そんな俺の仕草を目にした彼女は、手の甲を口元に持って行き小さく笑った。
「それでは」
 お腹のあたりで両手の指を組んで、頭を下げた彼女はそのまま踵を返して自らの進行方向へと足を進めてしまう。
 それが何故か酷く惜しい気がして、思わずその背中に向かって声を投げかけていた。
「あの、俺、一年三組の影山って言いますっ!」
 何故名乗ったのか、自分でも解らないままに、叫んだ。首から上の熱を自覚したのは、振り返った彼女の目が真ん丸になっているのを目にしてからだった。
「その、あなたは……」
 怯みながらも言葉を続けると、彼女はゆるりと笑った。その自然な口元のカーブに、いとも簡単に心臓が跳ね上がる。
「3年の、といいます。よろしくね、影山君」
 彼女の鈴のように転がる声で紡がれた名前が、耳にじわりと広がる。紅潮した頬を隠すように、俺は彼女に向かって頭を下げた。

* * *

 それから、彼女――先輩が居ないか探すことが自分の中に染み付くまでそう時間は掛からなかった。移動教室や登下校中だけではなく、休み時間にどこかで会えないかうろつくようになった。
 運よく彼女を見かけても、声を掛けることも出来なかったけれど、級友に囲まれても凛としたその背中を見れれば満足だった。
 時折、俺の視線に気付いた先輩は、手を翳して応えてくれるようになった。綺麗に揃えられた手のひらが俺に向けられると飛び上がりたいほどの心境が胸に沸き起こった。
 彼女の所作の綺麗さを見習わなければと思うと、自然と背筋が伸びる。顎を引き、肩の直ぐ側で手のひらだけを揺らす。硬直している俺が面白かったのか、先輩は口元を手で隠しながら笑った。
 それが溜まらなくて、目は見開かれ、口元は自然と引き締まる。それでも口の端は自然と緩んでしまうのだから、本当に彼女に参ってしまっているのだと思い知らされる。
「皇室か」
 部室への道中で、そんな俺の姿を目の当たりにした日向のボケに言葉を返すのも馬鹿らしく思えるほど、おれは先輩の姿を目で追いかけた。

* * *

「あの、先輩には、今、お付き合いしてる人って、いるんですか?」
 出会って幾週か経った頃、中庭の自動販売機の前で鉢合わせた先輩に、かねてからの質問を投げかけた。
 折り重なった時間の分だけ、一方的に俺の方では情愛が募っていった。いくら視線を差し向けたところで、近付けるわけもないのにその距離感を誤ってしまう。
 初めて合った日と同じく、目を丸くした彼女に居たたまれない心境が胸に沸き起こる。
「さて、どうかしら」
 俺の質問に対して更に質問を返すように言葉を零した先輩に視線を向ける。俺を見上げた彼女の表情が解けたのは、きっと俺の恥じ入った顔が面白かったのだろうと推察する。
「ふふ、冗談。今はいないよ」
 今は、ということは以前は居たということなんだろうか。再度疑問を投げかけたい心地がしたが、そこまで踏み込むほどの勇気を奮い立たせることは出来なかった。
 口ごもる俺を見上げた先輩は、目を細めて鮮やかに笑う。
「でも、もし……そうね、好きな人が出来たら、一世一代の大恋愛をするんでしょうね」
 遠く未来に思いを馳せるように、一度視線を空へと向けた彼女の姿に、買ったばかりのぐんぐん牛乳を持つ手に力が入る。
 ――それを、俺としてくれませんか。
 喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。こんな質問をしたこと自体、失礼だと思えるのに、更にそれ以上を望むことは出来なかった。もう少し、ちゃんと時間を掛けて仲良くしないとダメなことくらいは、朧気ながら察していた。
「そう、なんですね」
 曖昧に言葉を返しながら、縋りつくように握っていたブリックパックを持ち上げ、そこにストローを差し込んだ。気分を落ち着けたいような心境に圧されて、普段は片手で飲むそれを、両手を揃えて口元に運んだ。
 俺から視線を外して自動販売機の前に立った先輩が、ジュースを買う様子を眺める。ピンと伸びた背中や指先、膝を揃えてしゃがみ込んで拾い上げるその一連の動作に、やはりこの人はきれいな人だと改めて思った。
「その相手は、もしかしたら影山君かもしれないね」
 スッと、音もなく立ち上がった先輩の瞳が俺の目を覗きこむ。普段よりもいたずらっぽく笑んだその表情と、言葉の破壊力にたじろいでしまう。
「うっ……ゲホッ!」
 唐突なその言葉に、不意に喉元が詰まった。飲んでいた牛乳が口から出ることはさすがになかったが、咽た呼吸がすぐには楽にならず目元に生理的な涙が滲む。
「大丈夫?」
 慌てて俺の背を撫でる先輩の手のひらの感触に、益々呼吸が覚束なくなる。胸の苦しさと相まって、いつまでもほろ苦く胸に疼いた。



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