影山 飛雄07

あとひとつ


「あとひとつ!」
「ねぇ、飛雄……それさっきから何回目ー?」
「いいから! 黙って上げろっ!」
「……はーい」
 ――いいからじゃないよ。本当に。
 溜息混じりにぼやきながらも、飛雄の言うとおりにボールを上げる。
 頭上へと上がったボールに、飛雄の手の平が伸びる。触れたと思った瞬間に、ボールはすぐさま距離の離れた場所へ飛び出し、そして緩やかな曲線を描いて落ちる。体育館の床には等間隔に並べられたペットボトルが待ち受けていて、その一つに掠りながらも倒すことは出来ずそのままボールは転がっていってしまう。
「チッ」
 舌を打ち鳴らして不機嫌であることを露わにした飛雄の視線が私へと戻る。言葉にするよりも明瞭に、飛雄の瞳が「あとひとつ」を望んでいることを知った。隣においたボールかごの中に手を差し入れ、中からひとつを取り出す。出しやすいようにボールを掲げると、ボールの脇から飛雄が目を真剣に光らせ構える姿が見えた。
 ――本当に、飛雄は昔からバレー馬鹿だ。
 胸中で文句を転がしながら、トスを出しやすいようにボールを放る。出来るだけ、飛雄が立っているところに近いように、と気を付けたがそんなに上手くいくはずもなく、数歩歩かせてしまう。
 実践ではもっと荒れた場所に来るから構わないとフォローは貰っていたが、どうせなら飛雄がやりやすいようにボールを上げたかった。ブランクが有るとやっぱりダメだな。
 昔はよく飛雄の練習に付き合っていた。ボールを出すことだけじゃなく、レシーブの練習にも付き合わされていたから、体育の授業でバレーに関しては困ったことがない程度には慣れている。中学の頃にも下手くそだのボケだの言われながらも一緒に練習していたが、高校に入ってからはそれも少なくなった。
 多分、中学の頃と比べて飛雄が楽しそうにバレーをやっていることと、同じ理由がそこには潜んでいるのだろう。主将に交渉して体育館を使う許可を得て、練習相手を探した時に私に白羽の矢が立ったのだって色々な候補の都合がつかなかったからに他ならないはずだ。練習に付き合ってくれる友だちがいないのかと冷やかしてやろうかと思ったが、過去の傷を弄るような言葉は飲み込まれたままだった。
 一次予選をあと数日に控えて、練習に余念がないのは、恐らく飛雄だけじゃない。同じクラスの山口君や月島君も今頃、場所や練習内容を違えど、一生懸命頑張っていることだろう。
 目の縁に汗が入り、手首のあたりで擦る。ざらついたリストバンドから感じたのは、布の乾いた感触よりも湿ったものの方が強かった。チラリと体育館の壁上方へと視線を向ける。格子で覆われた時計の示す時間は3時を過ぎていて、お昼ごはんを食べてから既に2時間以上過ぎていることを知った。体を休めた方がいいんじゃないかだなんて私の身勝手な疑念は、飛雄にとっては愚問にしかならないだろう。ただ疲れというのは、飛雄にだけ引き起こるものではない。一緒に練習している私にも等しく蓄積されている。一度意識してしまうと途端に重く伸し掛かってくる。拭い去ったばかりの汗がまたひとつ、ふたつとこめかみから流れ落ちるのを感じた。
「ねー、飛雄。さすがに疲れたぁー」
 こちらを振り返ってボールを上げてもらう気満々といった様相をしていた飛雄が、少しだけ屈めていた背を伸ばす。
「んだよ。たったこんだけで。だらしねぇな」
 表情に不満の色を濃く出して私を睨んだ飛雄は、唇を尖らせて不平を口にする。
、昔はもっと長く出来ただろ」
 飛雄の指摘に言葉が詰まる。確かに飛雄の言うとおり以前はもう少し身体を長時間動かすことが出来た。飛雄は毎日欠かさず練習に励み、私は飛雄に誘われなければこうやって長時間の運動をしない。日々の運動を思い返してみても夏にプールに通うこと以外では精々友達と遊んだ時にバドミントンをちょこっとするくらいのものだ。もっとも、私はどこの運動部にも所属していないのだからそれも致し方ないことなのだけど。
 また、場所が体育館であることも頂けない。窓を開けてもそんなに空気が動かない室内には熱気も湿気も多分に含んでいて、容赦なく私のなけなしの体力を奪い取っていた。
「あっついんだもん。家に帰ってクーラーつけてカルピス飲んで一緒に甲子園見ようよー」
 大袈裟に音を上げていることをアピールしてみせると、飛雄は私よりも大仰に溜息を吐き出して呆れを示してみせた。
「お前、野球なんて興味あるのかよ」
「別にないけど……」
「じゃあ、いいだろ」
 飛雄の指摘を否定すると、あっさりと飛雄は私の言葉のすべてを捨て置いてしまう。両手を振り乱して慌てて飛雄に再度声を掛ける。
「あ、カルピスには興味ある!」
「あとで奢ってやるから、今は黙って付き合え」
 あとひとつ、と言ったはずの飛雄が、当分練習を辞める気がないことが知れる言葉だった。飛雄は昨夜、私に「明日の練習、ちょっと付き合え」と言った。飛雄の「ちょっと」が「飛雄が満足するまで」というのは長い付き合いの中で充分に解っている。同時にこちらが折れるしか無いことも経験上染み付いている。
っ」
 私の名前を呼んだ飛雄は、ニッと口元を持ち上げて笑う。
 ――ほら、まただ。飛雄があんな風にきらきらと笑うから、私は何度でもその声に応えたくなる。
「もう一回っ!」
 飛雄の声が弾む。嬉しそうにしちゃって、まぁ。きっと飛雄もこうやって催促すれば私がちゃんということを聞くってことを知っているんだろうな。
 緩む頬を抑えきれず、私もまた口の端を引っ張ったように笑って、飛雄に向けてボールを放った。



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