影山 飛雄08

手繰り寄せた世界をこの手に


 風紀委員の週番の業務を終え、校舎から出ると蒸し蒸しとした空気に包まれた。数分で汗が滲むのではないかというほどの湿気に、もうすぐ雨が降るのだろうことを知る。
 疎らに帰る生徒たちの後ろ姿を眺めながら、部室棟へと視線を伸ばす。バレー部ももうすぐ部活を終えていろだろう頃合いだ。もしかしたら飛雄と鉢合わせてしまうかもしれない。
 お昼に見かけた機嫌の悪そうな飛雄の表情を脳裏に浮かべながら、肩で一つ息を吐いた。正門を通って帰路に着きながら、昼休みのことを思い返す。
 珍しく4組に来たと思ったら、月島君に簡単に追い払われた飛雄にどのような用事があったかなんて、想像するに容易い。
 あと1ヶ月もすればもう夏休みだ。だが、目前に迫った大型連休に浮かれるよりも前に、立ちはだかる期末テストの対策を講じるために、月島君に聞きに来たのだろう。
 ただ、呆気なく月島君にすげなくされた飛雄が、5組の女子に教わりに行くという選択肢をとったことは想定外だった。日向君についていく、という形であったとしても胸にやきもきとした感情が去来した。
 授業が始まる前に、とトイレに行く途中で5組の教室を覗いたら3人で和気藹々とした様子で勉強している様が見て取れた。
 一緒にいたのは小柄で可愛らしい感じの子だった。もしかして、あの子が男バレの新しいマネージャーなのだろうか。
 つい先日、綺麗な先輩からマネージャーにならないかという誘いを受けたことが脳裏を掠める。飛雄が絶対にいい顔をしないことが分かっていたから断ったけれど、もしも決まったのなら良かったな、と思う。けれど、実際にあんな風に知らない女子が飛雄に関わっているのを見ると、ちょっと面白くないな、なんて思ってしまう。
 嫉妬というよりも、寂しさが強いのかもしれない。飛雄に勉強を教えるのは私の役目だったのになぁ、なんてなんだかもやもやと感じるのはそのせいだ。
「何やってんだ、お前」
 不意に背後から声が掛けられる。びくりと体全体が撥ねたのは、思考の渦に飲み込まれかけていたせいだろう。ぎこちなく後ろを振り返れば、ほんの少しだけ前髪のはねた飛雄が私に駆け寄ってくるさまが目に入る。
「と、飛雄」
「なんでこんな遅くに帰ってんだよ」
「あ、今日は週番だったんだ」
「……チッ。またかよ」
 舌打ちしなくてもいいじゃん。帰る時間が重なったことは悪いと思っているよ。
 どうせ月島君らに見つかりたくないとかそんなことをまた言われるのだろう。突き放される前に、と、いつものように飛雄から距離を取る。
 家が近いのだから歩く方向は同じだ。せめて離れて歩いていれば、関係性なんてそうバレるようなもんじゃない。
 足早に歩く飛雄を見上げ、道を譲るように一歩退く。簡単に私を抜き去った飛雄はずんずんと迷いなく歩を進めていった。
 目を横に流し、歩みを再開させる。一緒に帰れないのってやっぱりちょっと残念だな。胸に沸き起こった寂寥に押し出されるようにして、自然と溜息がこぼれた。
っ」
 脇に視線を向けて歩いていると、飛雄に鋭く呼びかけられる。
 驚いて視線を飛雄に向けると、飛雄はいつのまにか立ち止まっていて、私を言葉以上に鋭い視線で睨み据えていた。思わず肩にかけていた鞄の紐を縋るように掴んでしまう。
「な、なによぅ」
「ちゃんと歩けよ。置いてかれてーのか」
 唇をへの字に曲げた飛雄はじっと私を睨みつける。言葉通りに捉えれば待っているのが焦れったいのだろう。だがあまりにも強すぎる視線を、威嚇のように感じてしまう。
 慣れているとは言え、あんな風にじっと見られると怯んじゃうってば。声に出さず、小さな溜息だけを吐き出して、小走りで飛雄の元へと駆け寄る。
 来たよ、と言う意味を込めて見上げると、飛雄は「ん」と小さく頭を揺らした。
 尊大な態度に口元が綻ぶ。そのまま並んで歩みを進め始めると、訥々とながらも会話が紡がれる。
 今日の練習で月島君に腹が立っただとか、クラスメイトとラーメンは味噌か醤油かの談義になったがはどっち派だ、だとか。くだらない話でも、途切れない程度には飛雄から出てくる事を思えば、一緒に帰るのが今日だけじゃないならいいのにと思う。
 やっぱりマネージャーにならないかと誘われた時に、飛雄に嫌がられてもいいからなるって言っておけばよかったのかな。今更嘆いたところで後の祭りだというのに、もしもの可能性を考えては後悔してしまう。
 自宅近くの道に差し掛かる角を曲がったところで、不意に飛雄が私を見下ろした。
「そう言えば、、今日こんだけ遅くに帰るってことは夜、時間あるよな」
「え? うん」
 あるというか、ないというか。今日は特に観たいドラマもないし、仮に何かあったとしてもお母さんが録画しているはずだから時間を作ろうと思えば作れる。曖昧に頷いてみせると、飛雄は満足げに笑った。
「じゃあ飯食ったらうちに来い」
「えぇ?!」
「数学教えろよ」
 教えを請う側なのに、どうして命令口調なんだろう。飛雄の相変わらずの「らしさ」に思わずくすりと笑ってしまう。軽く握った手の甲で口元を隠しながら飛雄を見上げて答える。
「……うん。わかった」
「なに笑ってんだ、
「えぇ? 笑ってないよ」
「俺が困ってんのがそんなに嬉しいのかよ」
 私の態度に表情を曇らせた飛雄は、その怒りをますます顕著にさせる。眉間に寄ったシワがどんどん増えていく。不貞腐れて撤回されるよりも前に、全面降伏した方が賢明だろう。
「違うよ! 飛雄が私のこと頼ってくれて嬉しいなって」
「はぁ?」
「最近さ、バレー部で勉強してるでしょ?私はお役御免なのかなって思ったらなーんか寂しいなーって」
 乾いた笑いを交えて、胸につかえていた寂寥を吐き出した。バレー部、と曖昧に濁したのは私なりの抵抗だった。一番引っかかったのは5組の子だ。もしもこれからずっと、部活で共に過ごすうちに、飛雄がその子と親しくなって、その子の方が勉強教えるの上手いから、とあっさりと私を見放したらどうしよう、だなんて怯えてる。
 早いうちから幼馴染という枠に収まり込んでしまったため、脱却する方法が見当たらないなんて言ってる場合じゃないなと焦りもあった。
 胸中に生じた戸惑いをひっくるめて、飛雄にぶつけると、飛雄は呆れたように目を細めた。
「お前は馬鹿か」
 飛雄の右手が動く。デコピンでもされるのだろうかと思わず強く目を瞑ってしまう。だけど来ると思った衝撃は来ないまま、頭をふわりと包み込まれる。
 恐る恐る目を開けば、飛雄の大きな手が私の額にあり、そのまま柔らかく撫で付けられていることに気付く。
「……ずっと一緒にいんだろうが」
「――え?」
「今までも……これからもだ」
 呆けた顔で飛雄を見上げていると、飛雄の手が翻り、不意に鼻を摘まれる。ひゃん、と変な声を出したことが面白かったのか、飛雄が満足げに笑った。
「ちゃんと、覚悟しとけ」
 乱暴に離された手を視界に入れながら、頬が熱くなるのを感じる。私の胸の中で燻っていた手が付けられないような想いを、飛雄はあっさりと掻っ攫っていってしまう。
 これからも、と未来につながる言葉一つで高揚する想いに、あぁ、やっぱり私は飛雄のことが好きなんだと自覚した。
 自覚すると同時に、行動で示したくなった。離れたばかりの手のひらを追いかけて、握り締める。ほんの少しだけ汗で湿った手のひらを、それさえも好きだと思った。
「んだよ、急に」
 ぎょっと目を見開いた飛雄の反応。それでも振り払われないこの手のひらに賭けてみたくなる。今、飛雄の心が、私に向かって柔らかくなっているのは、勘違いじゃないはずだ。
「だめかな?」
 ねだるように言葉を繋げる。何かを言い返したいかのように口を開いた飛雄の喉から言葉が紡がれることはなかった。飛雄が戸惑っている様子を、じっと見つめながら待つ。
「チッ。今日だけだぞ」
 観念したように吐き捨てた飛雄が、私が一方的に握るだけだった手を離し、きちんと握る形に変える。それだけでまた口元が緩んでしまう。
 私の笑みを見つめた飛雄は、一瞬だけ、表情を解けさせたが、それもすぐさま引っ込めると鼻を鳴らして歩き始めた。
 セッターをしているせいか、指先だけがやけに固くなった飛雄の手の感触を確かめるように触れていると、その動きを制すかのようにぎゅっと握りこまれる。その手の強さに、益々胸の奥に安堵が広がっていく。
 この手を離したくなければ、離さなければいいんだ。
 気付いてしまえばとても単純なこと。だけどそれは応えてくれる飛雄があってこそのものだから、これからも、飛雄のことを大切にしようと思った。



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