影山 飛雄09

熱情


「もう、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてんだろうが」
 非難する声と、反論する声が交差するのは何度目だろう。30分程度の記憶を思い返しただけで、片手では足りない数になることを、ゆらゆらと頭を揺らす飛雄は覚えているのだろうか。小さく溜息を吐き出してもなんの反応も示さない飛雄に、それを望むのは酷なことなのかもしれない。
 私の左肩を支えにノートに視線を落とす飛雄が不意に黙り込む。顔を覗きこまなくたって目を開けて寝ているのだと察しがついた。
「眠いなら今日はこれで切り上げよっか?」
「まだ予定の半分しか終わってねぇ」
 私の提案に頭を上げた飛雄の力強い言葉とは裏腹に、その目は思った以上に虚ろだ。強情さと意地だけで動いているとしか思えない。
 「一緒に宿題をしろ」という誘いよりも命令に近い言葉を受けて、夕飯のあとに飛雄の家にやって来た。飛雄の部屋にダイニングの椅子を持ち込んで、狭い机に並んで座るのにもとうの昔に慣れている。そしてこうやって、勉強する度に飛雄が眠たそうにしていることもだ。珍しい点といえば、まだ夏休みが半分近く残っているのに宿題を気にする素振りを見せてきたことだろうか。どうやら東京合宿へ行く際に、期末で赤点を取ったせいでバレーに支障が出たことが堪えたらしい。
 英単語を見るとそれだけで眠くなる、と豪語する飛雄は、辞書を開く間にすら眠ろうとするほどだ。今だって、確認したばかりの単語を組みわせて和訳しているうちにうつらうつらと頭を揺らしている。
「もー……飛雄ってば。頭揺らしすぎてると船酔いみたいになっちゃうよ?」
ガクン、と力なく背中側へ首を逸らした飛雄は白目を向いて天井を仰ぐ。支えるように手を首の裏に差し入れ、せめて机にうつ伏せにしようと右手を伸ばして飛雄の左肩を掴んだ。ゆっくりと前傾させようとそっと飛雄の身体を動かした。だが、そんな私の思惑を裏切るかのように、またしても飛雄の頭が揺れる。
「飛雄、ちょっと」
 待って、と続けようとした言葉が飲み込まれる。顔を上げてしまったのは失敗だったのだろうか。飛雄の顔が普段より近い、と思った時にはもう遅かった。
「んっ?!」
 唇に湿った柔らかなものがぶつかると同時に眼前に飛雄の双眸が迫り、鼻先が触れ合う。勢いがついていたせいか、前歯までもがぶつかりカチッと鳴った。
「痛っ」
 小さく呻いて、痛む口元を右掌で覆う。ほのかに血の味がしたことに驚いて手を離すと手のひらの中央に赤色が滲んでいた。唇が切れてしまったのだろうか。訝しんで、軽く下唇を噛むと鉄の味が広がった。
 ――事故だ。それ以外の言葉が見当たらない。
 左右に揺れ、前後に揺れた飛雄の頭が、またひとつ、私の方へと傾いた。今度は唇ではなく、額同士が重なる。重なる、というよりもぶつけられた、という言葉の方が正しいかもしれない。熱を計るためにくっつけたことがあったな、なんて遠い昔のことを思い返した。
「ん? ……どうした、
 寝ぼけ眼の飛雄が、うとうととした眼をこちらへと差し向ける。私一人で動揺していることが、浮き彫りになると同時に頬に熱が走る。少しだけ浮かせていた腰を力なく椅子に下ろす。
 ショックだったわけじゃない。ただ、あまりにも突然のことに吃驚してしまった。目の奥が熱い、と思った時には涙がせり上っていた。
「なに泣いてやがるんだよ」
 ぎょっと目を見開いた飛雄は、眠気も吹き飛んだ様子で声を上げる。飛雄の手が私の頬に触れる。辛うじて溢れてはいなかった涙が無遠慮な手に流れ落ちた。
 私の目の周りに乱暴に手首のあたりを押し付けてくる飛雄の行動には覚えがあった。小さい頃も、転んだとかアイスを落としたとか、些細なことで泣き出す私の溢れる前の涙を、飛雄が拭ったものだ。
「いきなり、どうしたんだよ」
「だって……」
「うん」
「だって、飛雄と、その……キスしちゃったから、」
 驚いてしまったのだ。本当に、ただ単に吃驚して涙が出た。嫌だったとか、逆に嬉しかったとか。そういう感情は一切追いついていない。
 途切れがちにしか出てこない言葉に、飛雄が首を傾げる。納得がいかないような表情が、ほんの少しだけ解ける。私の目と耳の間を掴んでいた飛雄の手が離れ、そのまま自分の唇に触れる。感触を追っているのだろうか。きゅっと唇を引き締めた飛雄は、また私の目を射抜くかのように力強い視線を差し向ける。
「泣くほど嫌だってのかよ」
「そうじゃないけど」
「だったら別に気にするようなことじゃないだろ」
「だって」
「ガキのときに何回もしてんだろ」
 飛雄の手が、今度は額に伸びる。乱暴な手つきだが、宥めるつもりで撫でられていることは解っていた。ただ飛雄のそんな行動でも、今の心境が晴れる気がしない。
 物心ついたかつかないか微妙なころの話を持ち出されても、思春期を迎えた今とでは重みがまるで違う。まして今みたいに唇にしたことなんてなかったくせに、同列にしか扱ってくれないなんてひどすぎる。簡単に流されてしまうと、意識するような相手ではないと暗に言われているようで腹立たしい。衝撃を飲み下し終え、気持ちに余裕が出てくると、次第に飛雄への苛立ちが増幅される。
ぐずるかのように水っぽくなった鼻を啜る。まだ泣いてんのかと言いたげな飛雄の表情が憎たらしくて仕方が無かった。
「じゃあもう一回できんの?」
 鼻声で告げる。いつもよりも尖った声になっただけで、その奥に孕んだものに気づいたのか飛雄が顔を顰めた。
「……何回でもしてやる」
 むくれた顔で、簡単に挑発に乗った飛雄の手が後頭部に回され、そのままガシッと掴まれる。あまりにもぞんざいな扱いに、人の頭をバレーボールかなにかだと勘違いしているんじゃないかと訝しんでしまうほどだった。
 来るであろう衝撃を受け入れる覚悟を作る。一回したんだから二回目も一緒だと、どこか自棄になるような気持ちになったのは、飛雄が平然としているせいだった。
 唇を引き締めて、じっと飛雄の目を見返す。真っ直ぐに注がれる視線から逃げるつもりはなかった。真一文字に口元を引き締めた飛雄が、動く様子は見られない。お互いに息を詰めているせいか、室内から音が消え去ったかのように感じた。
 不意に、後頭部に込められていた力が緩んだ。空気が変わったことを感じ取り、目を瞬かせる。そんな私の様子を一瞥した飛雄は目を伏せ、長く息を吐き出した。
「……やっぱり、ナシだ」
「え、」
「……なんか、違った」
「なんかって……なによ」
「俺が知るかよ」
 八つ当たりかのように吐き捨てた飛雄は、またしても大きく息を吐き出した。頭を振ってもなお、険しい表情を浮かべたままの飛雄は、いつもと同じように口元をへの字に曲げた。

「なによ」
 飛雄の声の刺々しさに、肩が震える。先程までの喧嘩を売るような態度を窘められるのかと身構えた。相変わらず不機嫌そうな表情の飛雄に向き直り、固唾を飲んで言葉を待つ。
「さっきみたいなの…ほかのやつに言うんじゃねぇぞ」
 言い捨てて、フイっと顔を背けた飛雄は、広げておいたままになっていた英語のテキストに視線を落とした。肩肘をついて、ワザとらしく私から顔を背けてしまったため、その表情は見えなくなってしまう。
 釈然としないものを感じて、溜息を吐きこぼした。私もまた、手近に置いたままだった辞書を手繰り寄せ、どこを探るわけでもなくページをめくる。
 先程以上の熱を感じ、ほんの少しだけ湿った頬を手の甲で拭った。
 相変わらず、飛雄の独占欲とも取れる言葉には惑わされる。唇を重ねたところで何にも感じてくれないくせに、私の行動を抑制する言葉だけは忘れないところが、本当に憎たらしい。
 いっそ、本当にもう一回してやろうか、だなんて乱暴なことを考えてみたけれど、そんな行動を起こせるわけがない。
 口元を隠すように開いた辞書を鼻先に押し付け、じっと飛雄の横顔を眺める。1、2分程そうしていると、視線に気付いたのか飛雄がこちらを振り返った。憮然とした表情の中に、今までは見られなかった色を見つけ、またその熱が私の中になだれ込んでくるのを感じた。



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