影山 飛雄10

031.隠す


 少し前に、岩泉さんが言っていた。
「及川は節操なしだ。女と見たら声をかけずにはいられない病気だから大事な女は隠しておけよ」
 それは、俺にではなく絶望を絵に書いたような表情を浮かべた2年の先輩に向けられた言葉だった。少し離れた場所から聞いていた俺は、どうしてそんなことをしないといけないのか理解ができなかった。ただ、その際、額に汗した金田一や、しれっとした態度の国見と目が合い、そういうもんなのか、と尋ねる代わりに首を傾げたこと、そんな態度をとった俺をふたりが冷ややかな視線を向けてきたことは記憶に残っていた。

* * *

 あの時、気にならなかった言葉が不意に蘇る。
 体育館の入口のそば。俺ら1年が練習前の準備をしているところにやってきた。その目の前に、及川さんが立っているのを目の当たりにした。ただ、それだけで胸の奥がざわついた。隠せ、と岩泉さんは言っていた。その言葉が記憶の底から呼び覚まされると同時に、足は動いていた。
「ちょっと、なにやってんすかっ!」
「あ、ホラ。来た来た」
 慌ててふたりのいる場所に駆け寄った。床掃除用のモップは途中で落としてしまったらしく、すでに手の中に残っていない。俺の剣幕を意に介さない及川さんは、まるで俺が来るのを待っていたかのような口ぶりで俺を迎えた。
 驚いているのは、及川さんの向かいに立ち尽くしているだけだ。両腕で鞄を抱え込んだは、目を白黒させて俺と及川さんを交互に見やる。助けを求めるような視線に睨み返すことで、余計なことを言わないようにと釘を刺した。
 そんな俺らのやり取りを、ニヤついた顔を隠しもせずに見つめていた及川さんが面白おかしく顔を歪めて口を開く。
「この子が噂のトビオちゃんの彼女なんでしょ?」
「違います。ただの同じクラスのやつです」
「おんなじこと言ってるし」
 両手のひらで口元を隠しながら言う及川さんは、肩を小さく震わせながら俺に視線を向ける。
「なんで同じクラスってだけのやつがお前に会いに来るのよ」
「それは……」
「影山君の机の横にお弁当のバッグが引っかかってたから、困ってるんじゃないかと思って持ってきただけです」
 言い淀む俺に代わって、がサラっと嘘をついた。嘘を考える暇なんてなかったはずなのに、あまりにも流暢に出てきた言葉に目を見張ってしまう。
 事実は、の言うとおりではない。半分は本当で、半分は嘘だった。
 今日は土曜日で、授業は午前中だけで終わる。その後、1年はボール出しや床拭きなどの準備を終えてから弁当を食うことになっているのだが、その弁当を家に忘れてきてしまったのだ。
 家までは走れば10分で往復できるが、練習のことを考えれば学校を抜け出すことは難しい。かと言って、ジュースを買うくらいの小遣いは持ってきていたが、腹を満たすほどの金はない。結果、俺の代わりにが俺の家まで弁当を取りに帰ってくれることになったのだ。
 が往復する時間と、俺が部活の準備をする時間はちょうどいいタイミングでかち合うはずだった。だから誰にもバレないうちに受け取れると考えていたのだが、思ったよりも早くが戻ってきてしまったため、及川さんと鉢合わせてしまったのだ。じろりとに視線を向けると、同じ程度の強さの視線が返ってくる。不本意なのはも同じらしい。
「へぇ……本当は教室じゃなくて家にでも忘れたんじゃないの?」
 図星を突かれたことに顔が強張る。この人はなにもかもすべてお見通しなんじゃないだろうか。言葉を詰まらせてしまった俺は、及川さんを睨みつけることしかできない。小刻みに肩を震わせながら目を細めて俺を見やった及川さんは、クスッと小さく笑い、に視線を転じた。
「ね、もう少し話そうよ。なんなら部活見学していかない? ウチ、女子マネージャーも募集してるんだよねー」
「え、いや……それはちょっと……」
「いい加減にやめてください」
 困惑しきった表情のの方に近付こうとする及川さんの前に体を滑り込ませる。これで背にしたは及川さんから見えなくなったはずだ。目を丸くした及川さんは、俺の表情をまじまじと観察し、鼻で笑った。
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
「減ります。本当にやめてください」
「ブッ!!」
 ずっとプルプルと肩を震わせていた及川さんが、いきなり吹き出したことに目を瞬かせる。腹を抱え込むようにして体を曲げた及川さんが肩を震わせていることに呆気にとられてしまう。引きつったような笑い声が耳に入り、ようやく、自分が笑われたのだと知った。
 いくら先輩とは言え、ふざけた態度をとられれば腹が立つ。ムッと唇を引き締め、いまだ引き笑いを続ける及川さんを睨みつけた。
「岩泉さんから聞いてるんです。及川さんがセッソーなしだって」
「ちょっとトビオちゃん。俺、先輩なんだから言葉選んで」
 女に対してセッソーがない、というのがどういう意味を持つのかは知らない。だが及川さんとがしゃべっているのを目の当たりにし、危険だと感じたのだ。
 がクラスの女友達らといる時には感じない違和感がそこにはあった。が金田一や国見としゃべっている時以上に、胸の奥がチリチリと痛む。焦っている、というのが一番近い感覚かもしれない。
「コイツ……俺の……同級生なんで」
 岩泉さんの言う「大事な女」とか、そういうのはわからない。ただ、がほかのやつと喋っているだけでイライラする。俺だけを見ていればいいのに、だなんてさえ考えている。部活の応援なんてもってのほかで、こんな風に及川さんに絡まれるくらいなら、には来て欲しくない。
「だから、ダメです」
「同級生だからダメ、ねぇ」
 肩でひとつ息を吐いた及川さんは、眉を歪めて俺からへと視線を転じた。
「聞いた? 今の言葉、疑問に感じない?」
「……はぁ」
 顔を顰めてこちらを見るは、言葉にこそしないが、なにやら文句があるらしい。その表情には「何言ってるの」だなんて呆れがありありと刻まれていた。その表情にムッと唇を尖らせると、の表情も俺が作ったものに似たものへと変化する。
 睨み合うこと数秒。視界の端で及川さんがニタニタと顔を緩めているのを捉えながら、それでもから視線を外せないままでいた。
「及川っ! いい加減に戻ってきやがれ!!」
 体育館の奥から岩泉さんの声が響く。それに触発され、から視線を外し、声のした方へと目を向けると、バレーボールを片手に掲げた岩泉さんが鋭い剣幕でこちらを睨んでいた。
「え、ちょっと、なんで俺だけ?!」
「っるせえ! 影山も用事済ませたらちゃんと飯食えっ!」
「ウス!」
 矛先がこちらへと向かったことに背筋を伸ばす。チラリと及川さんの視線が俺とへと交互に向けられる。フッと鼻で笑うような表情を浮かべた及川さんは、岩泉さんへの文句を口の中で転がしながら体育館の奥へと戻っていった。その背中が離れきったことで、ようやく、肩にあった緊張がほどける。
「……ハァー」
 及川さんから解放されたことに胸を撫で下ろし、深い溜息を吐きこぼす。チラリとに視線を向けると、もまた安堵したように息を吐いていた。
 あとで家に帰ったらに言って聞かせなければいけない。もう絶対にここに来るなと。特に、及川さんとは関わらないように気をつけろと、念を押さなければ。
「はい、飛雄」
「ん」
 差し出された弁当の入った包みを受け取る。うん、とひとつ頭を揺らしたの表情にはやり遂げたという充足感で満たされていた。チラリと視線を横に流せば、体育館の出入口の脇に自転車が置いてあることに気付いた。思ったよりも早く戻ってきた理由はこれだったのか。
「じゃあ、俺も戻るから。お前も早く帰れ」
 岩泉さんの説教が終わったあと、またいつこちらに及川さんが舞い戻ってくるかわからない。それに及川さんでなくても金田一や国見が話しかけに来ないとも限らない。一刻も早く、にはここから離れて欲しかった。
「あ、飛雄っ」
「なんだよ」
「……部活、頑張ってね」
 早々に弁当を食い終えた奴らが動き出すのは早い。床をこする音、ボールを打つ音、誰かの掛け声。体育館の中に響くのは、そんな喧しい音ばかりだ。だが、そんな中にあっても、の控えめな声はすんなりと耳に入ってきた。長年の付き合いがあるからこそ、コイツの声は拾いやすく感じているのだろう。じっとの表情を眺めながら、耳に入った言葉を反芻する。
 別にに言われなくたって、バレーに関しては手を抜くつもりはない。反発めいた言葉も頭を過ぎったが、それ以上にどこかむず痒いような心地が生まれる。それはポークカレーに温玉を割り入れた時の高揚によく似ていた。
 だが、に向けてそのまま素直にさらけ出したくなくて、むずむずとする口元をわざと尖らせてを睨みつけた。




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