北 信介01:焼き付ける

067.焼き付ける


 夏の日射しが容赦なく肌を焼く。正午にほど近い昼休み。校舎を出て、食堂へと続く渡り廊下を歩くだけでじわりと汗が滲むようだった。手の甲を頬に当て、わずかな冷たさを求めながら足を進める。
「よぉ、北」
「よぉ。今日も暑いな」
 道すがら、後方からやって来たアランに肩を叩かれる。走る生徒に顔を顰めながらも先を譲り、アランと並んで歩けばもう食堂は目の前だ。
「今日のめしはなににしようか」
「せやなー……。昨日は結局、冷やしうどんにしたんやったか?」
「からあげ付きのな」
 昨日のからあげは、家の味付けとはだいぶ違ったんよな。必要以上に薄味というか、塩っ気がないというか。大量に作るからこそ、味がおざなりになるんも仕方のないことやろうけど、夏だからこそ塩分は摂取しておきたい。
 夏になり、弁当を持ってくると腐るかもしれないという懸念から最近は食堂へと通うようになったが、早くも不平が頭を過るようになってしまった。
 ――バァちゃんの弁当が恋しいで、ほんま。
 ふ、と息を吐きながら、右側に目を滑らせる。食堂の正面にある自動販売機の前は、いつものように盛況だ。食堂でもぬるい茶なら提供されているが、栄養バランスを考えれば牛乳系のものを飲んでおきたい。
「先に飲みもん買うとくか」
「せやな。今、行っても中も混んどるようやしな」
 首を伸ばし、食堂の中の様子を覗き込んだアランの言葉に頷き、足を右へと向ける。
 紙パックタイプの自販機の列に並んでいると、程なくして自分の番が回ってきた。隣の列に並ぶアランが何を選ぶか指を行き来させているさまを横目で追いながら、目当てであった『めざめのヨーグルト』のボタンを押す。
 ガコン、とパックひとつ落とすにしては不穏な音を立てた自販機の取り出し口に手を伸ばした。その瞬間だった。
「うおっ」
 アランの声に顔を上げ、そのまま横に捌けようとした。だが鋭く腕を叩かれたことで、止まるように促されたことに気づかされる。
「北、『アタリ』や」
「え?」
 アランの言葉に、何も思い当たるものがなく、首を捻る。どういう意味だと尋ねる代わりに、アランの様子をうかがえば、その視線がまっすぐに自販機へと向けられていることに気が付いた。
 なんや? とその視線を追えば、自販機のランプがすべて点灯しているのが目に入った。
 100円の商品に対し、100円玉を投入し、1本の飲料を得た。本来ならば何のランプも点かないはずだ。
 だがいつもと様子が違うのには、たしかな理由があった。同じ数字が3つ並べばもう1本、というシンプルなギャンブル。アランの言う『アタリ』を証明するがごとく、硬貨の投入口の横にある四角いランプの中には『777』と表示されていた。
 ――ラッキーセブンというやつか、これが。
 当たり付きではあると知ってはいたが、過去2年半を振り返っても当たった経験はない。クラスのやつらが当たったと騒いでいるのを見かけたことも片手で数える程だ。
 感嘆の息を吐き、はじめての経験に目を瞬かせる。突然降り掛かった幸運に、咄嗟の反応ができなかった。反射的に身を引いてしまったが、その背をアランが支えたことで改めて自販機と向き直る。
 ――せやけど、今すぐ、飲みたいものをもう一本選べと言われてもな。
 目当てのものはすでに手にしているからこそ、判断に迷う。だが、選ぶ必要があるのなら、はよ選ばんと後続に迷惑がかかってしまうのもまた確かだった。
 義務感に促されるまま、商品の列に目を滑らせる。なにか飲みたいものがないか探る中で、ひとつの商品に目が止まった。
 あ。これ、たしか――。
 飲んだことは無いが、飲んでいる人を見たことがある。ただ、それだけで指がそちらへと動いた。
 先程と寸分違わぬ音を立て、もう一本の飲料が落ちてくる。初めて手にした『ぐんぐんバナナ』のパッケージは、やけに黄色く、目に眩しいほどだった。
「選んだんか。ほな、行こか」
「おぉ」
 アランに促されるままにその場を離れながら、手の中でパックを転がし、成分表に目を落とす。カルシウムや食物繊維。その他にもビタミンが豊富に含まれているという謳い文句を目で追った。
 栄養補給の観点から言えばうってつけだろう。だが、今買ったばかりのヨーグルトとの合わせ技で飲むのには適さない。
 学校内に俺が自由に使える冷蔵庫があるはずもなく、この昼休み中に飲みきってしまわないといけないというのもまた難点だった。
 ペットボトルのお茶をすでに手にするアランがこの提案を飲むとは思えない。だが、もしかしたらということもある。まずは目の前にいるアランに打診してみるか。
 手にしたそれを目線の高さまで掲げ、アランに呼びかける。
「いるか?」
「いや、昼飯にはきついわ」
「せやんな」
 わかりきっていた断りに頷いて返しながら、パックを下ろす。ヨーグルトとバナナと、ふたつを横に重ねて持ち運びながらどうしたものかと思案する。
 食堂に入れば誰かいるだろうか。治あたりなら何でも食うやつやし、これも飲むやろ。
 乱暴な予想を思い描いていると、アランが俺の手元を指さしながら口を開いた。
「なんでそれにしたん。北、そんなん飲んだことないやろ」
「せやな。なんでやろな」
「わからんのかい」
「いや、理由というか、きっかけはあるんやけど」
 たしかにぐんぐんバナナを思い出すきっかけはあった。だが、選ぶという理由には至っていない。飲んでみたかった、という気持ちなんてさらさらない。
 ただ、ひとりの少女の美味しそうに飲む姿が、頭をよぎった途端、指先がぐんぐんバナナのボタンに引き寄せられていたというだけの話だ。
 言葉を打ち切ったまま考え込んだ俺に視線を落としていたアランは、自らの後頭部を掻きながらひとつ息を吐いた。
「まぁ、あれや。イチゴ味より当たりやと思うで」
「いらんわ、そんなフォロー」
 口元を歪め、じと目でアランを見上げた。その途端、視界の端にひとりの少女の姿がひっかかる。反射的にそちらに意識が傾いた。その反応は、彼女を振り返るという行動にすぐに結び付けられる。
 キャラクターの描かれた小銭入れを片手に、俺が先程まで並んでいた自販機の前へと足を進める彼女は、どうやら飲み物を買うつもりのようだ。
 あぁ、そうや。ぐんぐんバナナを飲んでる姿を見かけたのは――。
「北?」
 アランの声がかすかに耳に届いた。だが、それに反応を返すよりも先に、俺の足が彼女の方へと向かっていた。
「こんにちは、さん」
「……わぁ! 北先輩! こっ……こんにちは!」
 こちらを振り返ったさんは、背後から声をかけてしまったせいか、目を大きく開いて驚いた様子を見せる。別に驚かんでええよ、と言いたいところだが、驚かせたのは俺やねんなと思うとそこは反省すべき点に思えた。
 取り乱した心境を立て直したらしいさんの瞳がまっすぐにこちらへと差し向けられる。だが、それも束の間の反応で、俺が言葉を返すよりも先にこちらを見上げた瞳が、ちらりと左に移った。
「アラン君も、お久しぶりです」
「あー……おぉ。せやな」
 いつの間にか俺の左に立っていたアランが、さんに手のひらをかざしながら応じる。
「知り合いやってん?」
「……まぁ、双子関係やし。それなりに」
 歯切れの悪い様子を見せるアランが、あの双子らと小学生の頃からの付き合いがあるというのは耳にしたことがある。それならば双子の幼馴染であるさんもまた、自然と知り合ったってなんの不思議もない。
 俺にだってそのくらいの付き合いならあるからだ。バァちゃんの知り合いだったり、同じ中学の同級生の兄弟だったり、とその種類は様々だ。それと似たようなものがさんとアランの間にあるという、ただそれだけの話。
 正当なきっかけだ。納得できる。だが、なぜだか釈然としない心地が胸に残った。
 矛盾する感情に首をひねったが、にわかに判断がつけられない。ちらりとアランを見上げたが、アランが口を開く様子を見せない以上、理由を探るきっかけすら生まれなさそうだ。
 追求するよりも先に、さんに声をかけた以上、彼女と話をするべきだ。
 そう思い直し、改めてさんへと向き直る。アランへの挨拶を終えたことで、さんの視線がまたこちらへと戻ってきているのを目で捉える。
 目が合うと、さんの表情が綻ぶ。夏の暑さに火照った頬の熱を目の当たりにし、先程以上の違和感が喉の奥に芽生えるのを感じた。
「もう飲みもん買うた?」
「いえ! 今から買おうかなってところです!」
 相変わらず歯切れのいい受け答えを返してくれるさんに、うん、とひとつ頷いて返す。
 初めて話をした時から感じていたことだが、さんは元気がいい。双子にこき下ろされている姿を何度か見たが、それでも立ち向かっていく気概を見せるだけの度胸や反骨心もあった。
 あの双子の幼馴染を16年も続けていると自然とこうなるんだろうか。
 知らない彼女の幼少期に思いを馳せていると、隣から「ふっ」と短い笑い声が上がる。視線を差し向ければ、さんの様子を見ていたアランが、緩んだ口元を握りこぶしで隠す姿が目に入った。
 幼少期のさん。その一端を知るらしいアランの目には、彼女の様子が俺とはまた違う風に映ったんだろうか。
 そんなことを考えながらアランを見上げていると、アランはバツの悪い表情を浮かべ、俺から視線を外した。
 見知らぬ居心地の悪さを抱えたまま、ひとつ息を吐き出す。話しかけておきながら度々会話を断ち切る俺を、さんが不思議そうな表情で見上げていた。
 意識して口元を引き締め、左手に持っていた飲み物のうちのひとつ、ぐんぐんバナナを右手に取り、さんに向けて掲げる。
「これ、当たってんけど二本も飲まんから……さん、良かったら飲む?」
「え? ええ?」
 唐突な申し出に驚いたのか、さんは目を白黒させながら俺と、ぐんぐんバナナと、アランと、視線を忙しなく行き来させる。一瞬で混乱状態に陥れてしまったことに、きゅっと唇を結ぶ。
 ……驚かせるつもりはなかってんけどな。
 この日、二度目の驚愕を目の当たりにし、またもや同じような言い逃れの言葉を頭に思い浮かべてしまう。だが、さんが驚いている以上、彼女の感情を咎めることはできない。
 ならば、と現状を押し進めるために掲げたままのパックを更にさんの方へと押しやった。物が近づけば反射的にひとは手を動かす。
 恐る恐るといった顔でこちらに手を差し出したさんの手のひらの中に、ぐんぐんバナナのパックを押し付ける。さんの白い手が、丸く、そのパックを包んだのを目にし、そっと手を離した。
 ひんやりとした感触が手から離れる同時に、さんの顔へと視線を戻す。
 パックに視線を落としていたさんがこちらを振り仰ぐと、吸い込まれるように視線が交差する。俺を見上げるさんの瞳が色づいた。一瞬で華やいだ笑顔に、思わず面食らってしまう。
「わぁあああ! 大事にしますぅぅ!」
「いや、飲んでよ」
「出たわ、正論パンチ」
 歓喜の声を上げていたさんは、俺とアランのツッコミに、ハッと我に返ったように表情を引き締める。だが、また手の中のパックに目を落とし、俺を見上げれば、またしてもその顔が簡単に緩んだ。
「ほんま、ありがとうございます! 北先輩!」
 改めて謝礼を口にしたさんの表情は明るい。
 好物を手にした喜びに溢れているんだろうか。当たっただけのものにそんな感謝されるとは思っておらず、ほんの少しの決まりの悪さと共に、今度改めて奢ってやりたいわ、だなんて考えてしまう。
 冷静に見当をつけながらも、静かに胸の奥が高揚するのを感じる。目をキラッキラに輝かせて笑うさんが、夏の日射しよりも強く、目に焼き付いた。



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