北 信介04:輝く

084.輝く


 7月6日。時刻は朝の8時を少し回ったところ。眩いほどの晴天を証明するかのような陽光を一身に浴びながら稲荷崎高校の門をくぐる。
 春先まで使っていたランチトートの3倍はある大きさのクーラーボックスを肩にかけているため、朝から結構な重労働となってしまった。だけど、中に入っているのは他ならぬ北先輩へのプレゼントなんだ。途中で投げ出したりするもんか。
 ここまで来たら食堂まであと少しだ、と気合いを入れ直すべく口元を引き締める。首筋にじんわりと滲む汗をタオルハンカチで拭いながらまた一歩足を踏み出した。
 一歩踏み出す度、北先輩にプレゼントを渡すという目標に近付いているのだと思えば、自然と胸が震え始める。アランくんから貰ったメールには北先輩が豆腐ハンバーグを好きだという旨のほかに「昼はちゃんと食堂で食うように誘導したるから忘れんなよ」とあった。
 決戦は昼休み。その心づもりで登校した。だが、昇降口へと向かう途中に北先輩がいるのを目にした途端、足は自然と駆け出していた。

「北先輩!」
「ん? あぁ、さんか。おはよう」
「おはようございます!」

 外靴からスリッパへ履き替える北先輩の隣に駆け寄って大きく頭を下げる。朝練を終えたばかりだと思われるのに、北先輩はきっちりと制服を身に纏っていた。襟元できゅっと結ばれたネクタイの乱れのなさに、隙のなさを感じると共に凜とした姿が眩しいと感嘆する。同じクラスの治や角名くんは教室に入った途端に、ネクタイだけでなくボタンまでも外してしまうけれど北先輩はそんなことしないんだろうなと確信した。
 今日もかっこいいなという憧れが眼差しに乗ったのだろうか。一心に見上げる私を、北先輩はまじまじと不思議そうに眺めた。まっすぐに交差する視線に思わず喉の奥に力が入る。
 北先輩がひとつ瞬きを挟んだのち、ふわりと目元を和らげる。その変遷にぎゅっと心を掴まれる感覚が走った。

「なんや今日は大荷物やなぁ」
「はい! これは……その、実は今日のお昼にって持ってきてまして!」

 肩に提げたクーラーボックスに対する指摘に、舞い上がっていた私は普段よりも大きな声で応じてしまう。私の返事に対し北先輩は面食らったように目を丸くした。大声を出しすぎたのかと慌てて口を閉ざしたが、それ以上に圧倒的に言葉が足らなかったことに思い至る。

「あ、いやっ! 食べものには間違いないんですけど! 私のやなくて!」

 慌てふためいた私は手をバタバタと振って弁明にもならない弁明を口にした。急に踊り出すような動きを始めた私を笑うでもなく、北先輩はいつもの涼やかな声で「落ちつき」と諭してくれる。
 ポンと軽く肩を叩かれたことで心音は跳ね上がったが、合わせて駆け出しそうな心境をギュッと拳を握りしめることで既のところで堪えた。左手のひらを胸の中心に押し付け、軽く目を伏せるとふーっと細く長い息を吐きだす。まだ落ち着かない心臓の音を数えながら、昨夜から今朝までを振り返る。昨日の昼休み、北先輩にプレゼントを贈るのだと決めてからずっと心は踊りっぱなしだ。
 午後の授業を受けながらも隙を見つけてはノートの端に使えるお弁当箱を書き出し、どんな風に北先輩に声をかけるかイメトレに勤しんだ。部活を終えたアランくんから「北は豆腐ハンバーグが好きやって」というメールを受け取ってすぐ、遅くなっても開いてるスーパーに駆け込んだのは言うまでも無い。
 北先輩にプレゼントを渡すのだと意気込みながら過ごす一夜はとても長く、もう夜が開けないんじゃないかと思えるほどだった。ワクワクめいた心地は朝になっても健在で、豆腐ハンバーグを作るためにいつもよりも2時間早く起きたというのにまったく疲れを感じていない。
 朝からキッチンで格闘する私の動向を訝しむお父さんの視線を躱し、味見をしてくれたお母さんのGOサインを受けて学校へ乗り込んだ。ここまでは順風満帆。登校中も逸る心音を抱えながらも、これからゆっくりと心を落ち着けるつもりだった。
 あとはアランくんに協力してもらって、昼休みに北先輩にプレゼントを渡すだけだ。そんな算段を整えて登校したというのに北先輩の姿を見かけた途端、身体が動いていた。自分のことだと言うのに全然思い通りにならない。
 ざわめきはまだ胸の内にある。だけど、先程までの焦燥とはまるで違う。普段よりも幾分も早い鼓動は、北先輩に恋をする音だと知っている。単騎で乗り込んだ怯えはあるが、せっかく北先輩が話をしてくれるんだ。今、勇気を振るわなくてどうする。
 顔を上げると、微かにこちらの様子を覗き込んでいた北先輩と視線が交差する。また一段と跳ねた心臓を制しながらきゅっと口元を引き締めた。

「あの! 昨日はお誕生日おめでとうございました! これ! プレゼントで持ってきたんですけど! よかったら召し上がってください!」

 肩にかけていたクーラーボックスを北先輩に差し出しながら深く頭を下げる。それだけでは足りなくてギュッと目をつぶった。
 反応が見えないのは怖い。だけど顔を上げて戸惑いや困惑を目にしたら私はその場に崩れ落ちてしまう。耳まで走った熱を自覚しながら、ただひたすらに北先輩の反応を待った。北先輩の声に集中したいのに、耳に入ってくるのは周囲の喧騒と自分の鼓動ばかりだ。
 耳からの情報が頼りにならない以上、顔を上げる選択肢しかないことを知りながらもどうしても実行に移せない。ドキドキと言うには激しすぎる心音を飼い慣らすことが出来ないまま、閉じたまぶたをさらにギュッと瞑る。
 黙ってしまった北先輩の反応の窺えない数秒間はまるで永遠に続くのではと危ぶむほどだった。周りでは名前も知らない先輩たちが靴を履き替えたり挨拶を交わしたりと各々の朝を過ごしている。そんな喧騒に紛れていると、今この場でプレゼントを渡すことに気後れしてしまい、居心地の悪さが生まれてきた。

「なんや釣りにでも行ってきたんかと思ったわ」

 期待よりも怯えを強く感じていたせいか、涼しいと思えていた声音がより一層の冷ややかさを纏ったように聞こえる。呆れられたのだろうか。お祝いをしたい一心で準備してきたが、ただの顔見知り程度の後輩からの手料理なんておぞましい産物なのかもしれない。
 今更ながら距離感を誤ったことに思い至る。不安を一度自覚すると雪崩のように襲いかかってきた。穴があったら入りたいし、無いのなら掘ってでも身を隠したい。

「そうか……俺にか……」

 居た堪れなさに身を焦がしていると北先輩の独り言が耳が拾い上げた。ぽつりと零された言葉に思わず目を瞠る。視界が開けると同時に、正面に立つ北先輩のスリッパが一歩こちらに踏み出すのが目に入った。
 距離が縮まったことに驚いて顔を上げる。まだ頬に残る熱を制することが出来ないまま北先輩を見上げた。
 交差する視線はいつもと変わらない優しさに満ちていた。いや、勘違いでなければそれ以上だ。ほんのりと目元をゆるめた北先輩の表情に、羞恥に焦がしていた体温の意味がガラリと変わる。眼差しに熱が乗ったことを自覚しながらも、北先輩から視線を外すことは出来なかった。

「ありがとうな、さん」

 やわらかく笑んだ北先輩の言葉にこれ以上ないほどの歓喜が身体中に満ちていく。

「そんなっ……! こちらこそありがとうございます……!」

 お礼を口にすると同時に自然と頭が下がった。勢いよく顔を伏せてもなお湧き上がる歓喜が和らぐことはなく、打ち震えるままにきゅっと目を瞑る。
 〝先輩に片想いする後輩〟だなんて甘えた立場にいるからこそ北先輩に対して好意を差し向けることに慣れている。だが、あくまでそれは一方的に差し向けるものであってこんな風に帰ってくるとは思わない。もちろんたったこれだけのことで北先輩に好かれただとか報われただなんておこがましいことを考えるつもりは無い。
 ――せやけど、今の笑顔はずるい!
 北先輩は普段、あまり表情の動かない人だと聞いている。出し惜しみしてるわけやなく、純粋に常に冷静な人なんやろう。だが、珍しいからこそ稀に見る笑顔はとてつもないパワーを持っていた。
 心臓を撃ち抜かれるかと思った。すでに落ちている恋がさらに深みにハマっていく。耳の奥に心臓が移動してきたのではと思えるほどおおきな鼓動に一瞬で翻弄されたのを自覚しながらも、一向に抗える気がしなかった。

「はは。なんでさんが礼を言うんや」
「いえ、なんかもういっぱいいっぱいで」
「大袈裟やなぁ。ほら、そんな頭下げんでえぇて」
「は、はいっ」

 北先輩に促されて顔を上げたものの、まだ治まらない羞恥に圧されて北先輩の顔をまともに見ることが出来ない。頬に走る熱を誤魔化すことも出来ないまま、差し出したクーラーボックスに縋り付くように手元に引き寄せる。肩掛け紐をきゅっと握りしめながら、恐る恐る北先輩へと視線を戻す。横目で見えた北先輩は、相変わらずやわらかな視線で私を見下ろしていた。

「そう言えば……さん、今日の昼はめしどこで食うん?」
「えっと……今日は食堂に行くつもりです」

 たまにコンビニでパンを買うこともあるが、今日は大荷物を抱えていたこともあり寄り道が困難だった。元々食堂で食べるつもりだったが改めて尋ねられると他に候補がなかったか気になってしまう。ちらりと目線を斜め上に向けて頭を巡らせてみたが、やはり特にいい案は思い浮かばない。売店でパンを食べるよりも今日は冷やしきつねうどんにしようかな。そんなことを考えていると、北先輩はひとつ頷いて口を開いた。

「そうか。せやったら昼、一緒食べよか。その中身、全部は食えんかもやけどなるべく俺が食うから」
「え? ――えぇ?」

 唐突に告げられたお誘いに思わず言葉を失ってしまう。一緒に食べようというのはどういう意味なのか。頭で理解するよりも先に心が反応したのだろう。心臓が破裂しそうなほど激しく鳴動し始めたことで、自然と身体全体が熱にまみれていく。自分の都合のいいように聞き間違えていないかと北先輩の言葉を反芻したが、やはりどう考えても北先輩が私とお昼ご飯を一緒に食べてくれるというお誘いだったように思えてならない。
 ――だってそんなことある?!
 耳にした言葉を確信しながらも、にわかには信じられなくて何度も目を瞬かせる。一緒に食べてくれるだけでなく、あまつさえ私が作ったものをできるだけ多く食べてくれると北先輩は宣言した。そんな幸せなことが起こってしまったら、この先どうなってしまうのか。幸福と不幸のバランスが乱れてしまうのではないか。
 抑えきれない動揺を抱えたままぐるぐると忙しなく泳いでいた視線を北先輩に差し戻す。目が合うとすぐにまた心臓は駆けだしたが、意を決して口を開く。

「そ……」
「そ?」
「――そ、そんなご褒美貰ってしまっていいんですか?」
「褒美て。俺はどんな立場やねん」

 混乱する頭を抱えたまま差し出した言葉は、頭の悪さを全面的に押し出したものになってしまった。私のアホな言葉を受けた北先輩の冷静なツッコミは〝正論パンチ〟と呼ばれるものなんだろうか。侑や治から聞いた話を頭に思い浮かべながら漠然とそんなことを考えた。だが、ふたりから聞いた時はもっと鋭利な印象を受けていたが、今、食らったツッコミからは鋭さなんて感じられない。ほんのりと口元を和らげた北先輩の言葉は、パンチと言うよりも額をトンとつつくような甘さに満ちていた。
 おこがましい妄想を頭に思い浮かべてしまったのを掻き消すように頭を左右に振ると北先輩は不思議そうに頭を傾けた。

「あ、いえ……なんでもないデス」
「そうか。それでさんにひとつ聞きたいんやけど……それ、教室まで持って行くん?」

 交差していた目線を落とした北先輩の視線を追えば、クーラーボックスを示していることに気がついた。引き寄せたままになっていたクーラーボックスを改めて肩に掛けながら口を開く。

「いえ、実は昨日のうちに食堂のおばちゃんにお願いして冷蔵庫で預かってもらう約束してるんです」
「用意周到やな」

 ちゃっかりしているのだという私の告白に、北先輩はほんの少し眉尻を下げた。呆れられたのかと一瞬戸惑ったが、再び目元を和らげた北先輩の表情に杞憂だったと安堵する。

「せやったら今から運びいくんよな?」
「はい、その予定です!」
「そうか。じゃあ、俺が持つわ」

 言って、北先輩の手がこちらへと伸びた。唐突な接触の予感に慌てふためいた私は思わずクーラーボックスを隠そうと抱え込んでしまう。冷っこい感覚が腕とお腹に触れると同時に、体温との差にかなりの開きがあるのを感じ取る。あまりの冷たさに悲鳴を上げそうになったが奥歯を噛みしめることで飲み込んだ。
 お腹に力を入れることで冷たさを耐えながら、空中で手を止めたままの北先輩を見上げる。

「えっ?! でも重いですよ?!」
「いや、俺にくれるんやろ? それにさんに大荷物背負わせて引き連れんのも悪いわ」
「で、でもっ! 遠回りになると遅刻してしまうかもしれませんし!」
「同じ校内なんやしそんな時間かかるようなもんやないよ」

 突然の申し出に慌てふためく私とは違い、北先輩は至極真っ当な意見をこちらに差し出した。北先輩を引き連れて歩くなんておこがましいと思ったが、これ以上固持しては北先輩の優しさを踏みにじるのではと思えてならない。
 ――お願いしても、いいのかな。
 ほんの少しの不安と共に北先輩を見上げれば、揺らがない視線が一心にこちらへ差し向けられていることに気がついた。北先輩の手はそのまま手のひらを上に向けてこちらに差し出されたままだ。犬のようにお手を求められているわけではない以上、クーラーボックスを渡すのが正解なんだろう。
 ほんの少しの抵抗と共に逡巡したものの、北先輩の態度がブレないことでようやく私も観念する。

「せやったら……お願いいたします!」
「ん」

 頭を下げた私に応じるように北先輩はひとつ頭を揺らした。同時に止まっていた手がこちらに向かって伸びる。北先輩の指の甲がほんの少し肩に触れるだけで、火がついたように熱くなるのを感じながらクーラーボックスを手渡した。
 難なく肩にかけた北先輩だったが、思った以上に重いと感じたのだろうか。一瞥をクーラーボックスに落とした後、ほんの少し眉尻を下げて私を見つめた。

「なんや言いたいこと色々あるけど……朝から頑張ってくれてありがとうな」
「いえっ! そんなもったいないお言葉!」
「だからどんな立場やねんて」

 恐縮した私を見下ろした北先輩はふふっと笑う。機嫌の良さそうな表情にまた胸の奥を熱くさせていると、北先輩が一歩足を踏み出した。

「そうと決まったら遅刻する前に行こうか」
「はいっ!」
「……その前にさんも靴履き替えてき」
「はいっ! すいません! ちょっと待っとってくださいね!」

 くるりと踵を返し、パタパタと足音を鳴らして自分のクラスの下駄箱へと駆けていく。同じクラスの子たちと挨拶を交わしつつも、急いで戻ればちゃんと北先輩は待ってくれていた。約束したのだから当然とはいえ、待っていてくれたのだと思うとさらに足は加速した。

「お待たせしましたっ!」
「……ん」

 頭を揺らした北先輩は、駆け込んできた私をじっと見下ろしてくる。まん丸になった瞳になんの意図が含まれているのかはわからない。ドギマギとした心地を抱えて北先輩を見上げていると、ふいっと視線を外された。

「すまん。行こうか」
「あ、はい!」

 先を歩き始めた北先輩の隣に飛び込めば、北先輩はひとつ頭を揺らして食堂を目指し足を踏み出した。昇降口から渡り廊下へ差し掛かるまで、口を開けないまま歩みを進める。まさか一緒に校内を歩ける日が来るなんて思ってもみなくて、突然降って湧いた僥倖を噛み締めてしまう。
 初めて隣を歩くのに、自然と合わせられた歩調が堪らなく愛おしい。北先輩にはどんな立場やねんと謙遜されたけど、やっぱりご褒美としか思えない。
 ほくほくと暖まっていく心とは裏腹に指先が緊張で冷えていく。相反する温度に翻弄されるままに肩にかけた通学カバンの紐をぎゅっと握りしめて歩いていると、隣を歩く北先輩が口を開いた。

「ちなみに何が入っとるか聞いてもえぇ?」
「えっと……昨日、アランくんに聞かれたかと思うんですけど……北先輩が、その……豆腐ハンバーグがお好きって聞いたんで、それを作ってまいりました」

 そういえば何を作ってきたか伝えていなかった。当然投げかけられるべき質問だしいずれ知られることだったが、情報を手に入れた経緯を思うと意味もなくもじもじしてしまう。わざわざアランくんに協力してもらったことを言わなくとも北先輩なら察知するはずだ。だけど、バレバレだとしても伝えておいた方がいい気がして、真実を洗いざらい伝えた。

「どのくらいの味付けがお好きかわからなかったんで、ちょっとずつ変えて作ったのでたくさんになってしまったんですけど……」
「そうか」

 言って、軽く頭を俯かせた北先輩は口元に手のひらを添えて押し黙ってしまう。その横顔からは、いつものようにシュッとした印象を受ける。かっこいいなと見とれる心地ももちろんあるが、同時に感情が読めないことに戸惑ってしまう。
 何事かを考えている北先輩を横目に見上げていると、ほんの少しずつ憧れよりも不安の比率が大きくなる。
 ――ストーカーみたいだと思われていたらどうしよう。
 そんな考えが頭を過ぎると同時にごくりと喉を鳴らす。固唾を飲んで見守ったところでやはり北先輩からは何も伝わってこない。だが今、もし私へのなけなしの好感度が大絶賛降下中なのであれば、今すぐ塞き止める必要がある。
 北先輩の涼し気な横顔を見つめたまま、きゅっと唇を結ぶ。数秒の間、躊躇を飲み下しながら話しかけるタイミングを図り、意を決して口を開いた。

「あ、あのっ!」
「ん?」
「ほんとすみません! 北先輩の好きなもん探るような真似をして……」
「それは別に困っとらんし謝る必要もないよ」

 指先同士を突き合わせながら謝罪の意を示したが、北先輩は事も無げに頭を左右に振った。そのままこちらへと顔を向けた北先輩の表情はやはり読みづらかったが、確かに困っている顔にも見えなかった。
 北先輩が言ってくれるならそのまま信じよう。うん、と頭を揺らして申し訳なさを払拭させるべく笑顔を浮かべようとした。

「まぁ、今はちょっぴり戸惑っとるのはあるけどな」

 口の端を上げた途端、聞こえてきた言葉に思わず固まってしまう。北先輩を戸惑わせたという事実を前にするとヒュッと短く息を呑むことしかできない。
 後悔が表情にも出してしまったのだろう。北先輩はこちらに一瞥を落とすと、ふふ、と笑って慰めるようにポンと私の肩を叩いた。たったそれだけの行動で、単純な私は生まれたばかりの後悔をどこかへ吹き飛ばしてしまう。

「せやから責めてるんやないて。ただ……予想外というか、みっちり豆腐ハンバーグ入っとるとは思わんくて驚いただけや」
「いや、保冷剤も入ってますよ!?」
「そういうことやない」

 北先輩の唐突な接触に混乱した私は、心境に比例して脈絡のない言葉を口にしていた。そんな私の反論をふるふると頭を横に振った北先輩は真顔で否定する。
 さっきまでの心境なら否定されたことだけを拾い上げて落ち込んでしまっただろう。だけど、たった一度の接触と真顔から笑顔へと変遷する北先輩の表情を見てしまっては落ち込んでなんていられない。コンクリートで出来ているはずの渡り廊下を歩く足下がふわふわし始める。3センチは宙に浮いているのではと疑ってしまうほど舞い上がった私は〝北先輩とテンポのいい会話を紡げている〟だなんて思い上がったことを考えてしまう。
 コロッと態度を変えた私を訝しむことなく、目を細めて受け止めてくれた北先輩は、また進行方向へと目を向けて口を開いた。

「まさか昨日のアランとの話がこうなって帰ってくるとは想像つかんかったわ」

 軽く顔を上げた北先輩は、空中に視線を投げ出したままひとつ息を吐いた。ひとりごとのような声音で紡がれた言葉に対し、何と返すべきかほんの少したまけ戸惑ってしまう。もじもじする私を尻目にこちらを振り返った北先輩がポンとクーラーボックスを叩いて示した。

「これ、俺らが部活終わった後から材料やら準備して、作ってきてくれたんよな」
「は、はい」

 不意に投げかけられた質問に対し頭をひとつ揺らしながら応じると北先輩は足を止めてこちらを振り返った。実直に差し向けられた視線に、自然と私の足もその場に縫い止められたかのように動かなくなる。
 まだまだ食堂への道のりは続くというのにどうしたんだろう。「北先輩?」と名前を呼んだところで、北先輩は私を見下ろしたままだ。押し黙ってしまった北先輩は、視線を外すと渡り廊下の脇へと追いやり、指の甲を唇に押しつけた。何かを言い淀むような仕草に〝北先輩らしくないな〟と軽く首を傾げていると、北先輩の視線がこちらへと戻ってくる。まっすぐに交差する視線に自然と背筋は伸びた。

「――さん」
「はいっ!」
「さっきも言うたんけど、本当にありがとうな。プレゼントくれるんもそうやけど……頑張ってくれたんやなって思うとその過程込みで嬉しいわ」
「いえ……いえっ! そんな……お礼言われるほどのことやないですよ」

 丁寧な言葉でお礼を伝えてくれる北先輩に驚いた私は、立てた手のひらをぶんぶんと振って謙遜の意を伝えた。だが、そんな私の行動を目にした北先輩は俯きがちに頭を左右に振るう。

「十分すぎるわ。さっきは作ってきてくれたもんがケーキや思って怯んだけど、せっかく好物作ってくれたんやったら意地でも俺が全部食うよ」
「え……ホンマですか?」

 私の質問に対し、今度は北先輩が頷いた。ただそれだけで、舞い上がっていた心境が更に高みへと突き上げられる。ロケットが大気圏へ突入するような高揚感に紛れて、言いようのない熱が胸の奥にをじわりと温めた。
 自己満足でしかないプレゼントを受け取ってくれるだけでもありがたい。そのつもりだったのに、北先輩はそれ以上の言葉を私にくれた。材料を用意したり慣れない料理にチャレンジしたり、北先輩のために取った行動さえも見てくれるなんて思っても見なかった。一方的に差し出すだけで良かったはずの真心が報われたような。そんな感慨深い気持ちが満ちていく。

「そんな風に言ってもらえて嬉しいです……」

 感極まったせいか、今にも泣き出しそうな声になる。一度意識すると鼻の奥にツンとした痛みが生まれていることに気がついた。自分がこんなにも感動屋だったのだと生まれて初めて知った。
 ――と、言うか思い知らされてるやん、こんなん。
 北先輩のことを好きになってからというもの、知らない自分がどんどん生まれてくる。誕生日プレゼントに手作りのご飯を作ってもってくるなんて発想今までなら絶対になかった。いくら侑や治に唆されたとは言え、アピールが過ぎる。
 ――そんな向こう見ずな行動でも、受け止めてくれるんやもんなぁ。
 北先輩の優しさに甘えて、大胆な行動ばかりを起こしてしまう。脈があるだとか。希望という名の勘違いだとか。そういうポジティブな妄想を抱いているわけじゃないけれど、それでもこの恋に全身全霊で臨めるのは、相手が北先輩だからだ。北先輩じゃなきゃ、こんなこと出来ない。
 手のひら全体で頬を覆い、締まりの無い顔と浮かれ上がった心を整えるべく強く抑えた。顔を隠したまま軽く下を向き、ふーっと長く息を吐く。まだ駆け出したままの心音に触発された熱が指先に移り始めたのを察知して手を離しがてら北先輩を振り仰ぐ。顔を上げれば難なく交差する視線に、またぎゅっと心臓を掴まれたような感覚が走った。

「あ、せやけど……その、作ってきた私が言うのもアレですけど……全部食べてしまったらお腹破裂しません……?」
「ふはっ。やっぱたくさん作ってきてくれたんやな」
「すみません……治の食べっぷりを見て育ってしまったばかりに平均がわからなくなってしまって……」

 侑も治も私よりも食べるというのは共通していたが、より食欲旺盛なのは治の方だ。クラスの男子が食堂で食べる量を見る限り平均はきっと侑の方なんだろうと思ってはいるが、治を見てきたことで例外があることを知ってしまった。
 もしかしたら北先輩は治以上にめちゃくちゃ食べる人かもしれない。そんな一抹の不安が過れば、北先輩を飢えさせたりできないという使命感に駆られた私には〝多めに作る〟以外の選択肢はとりがたかった。
 作り上げた豆腐ハンバーグの量は、おそらく、侑に食べさせようとしたら「こんなに食えるか!」と文句を言われるほどの量だ。もしかしたら治でさえも「お前、俺を肥えさせるつもりか」と呆れるかもしれない。北先輩ひとりで食べられるかどうかの判断は私には出来ない以上、無理のない範囲で食べてもらえたらと思う。

「まぁ人並みには食う方やけど……破裂したら縫ってもらおうかな」
「縫います! 縫ってみせます!」

 破裂せん程度に食べてもらえるのが一番やけど、ホントにそんな事態になってしまったら責任を取るべきだ。料理は好みの味付けや塩梅などが合わなければいくらうまく作ったところで意味は無いが、裁縫は違う。縫い目という明確なジャッジが出来るからこそ、より安定した技術が求められる。
 自信があるわけではないが、他ならぬ北先輩のお腹ならば、丁寧に縫い上げてみせる。そんな意気込みを見せるべくぎゅっと拳を握ってみせれば、北先輩は「頼もしいな」と笑った。

「あっ……北先輩、北先輩!」
「ん?」
「あの、私、あともうひとつだけ心配事がありまして……」

 人差し指を立てつつお伺いを立てると、北先輩は「なんや?」と口に出す代わりなんだろう。軽く頭を傾げて見せた。その動作も愛らしいです、とはさすがに口にすることは出来ない。ぐっと口元を一度だけ引き締め、豆腐ハンバーグをプレゼントで渡すことを考えて以来、一番気になっていたことを口にする。

「食べてくださるって言うてくれたのは嬉しいんですけど、でももし北先輩のお口に合わなければちゃんと言ってくださいね! 治に全部食べさせますんで!」
「いや、合わんことはないやろ」

 事もなげに大丈夫だと口にする北先輩に、私は大きく頭を横に振って否定する。

「よっぽどのことがあるかもしれないので!」
「……味見してないん?」
「いえ、味見はしたので大丈夫だとは思うんですが……もしかしたらそもそもの舌がバカかもしれないので!」

 太鼓判を押してくれたお母さんには悪いが、もしかしたら〝家族揃って舌がバカ〟なんてことがないとは言い切れない。全部食べると言ってくれた北先輩の心意気はありがたいが、ちゃんと逃げ道は作っていて欲しい。そんな一心で進言すると、北先輩は、ほんのりと眉尻を下げて笑った。

「その時はお返しに亜鉛サプリ買うたるわ」
「ホントですか?! 大事にします!!」
「いや、だから飲んでよ」

 北先輩から何かもらえるのだと思った途端、反射的そう応じてしまっていた。期せずして昨日と同じような会話になってしまったことに気がついた私は思わず目を丸くする。そんな私を見下ろした北先輩もほんのりと眉を上げて驚いたような表情を浮かべた。二度、三度と目を瞬かせた私たちは、どちらからともなく息を吐いて笑い合う。

「……昨日のぐんぐんバナナ、まだ残しとるんやないか心配になるわ」
「それは……惜しかったんですけどちゃんと飲みましたよぅ……」

 北先輩からいただいたぐんぐんバナナは、結局食堂では飲めなくて教室へと連れ帰ることになった。授業が始まる前に飲み始めたものの、最後のひとくちを飲めそうにもなくてちゃんらには散々呆れられたものだ。
 せめてパックだけでも残しておくべきか。そんな考えに取り憑かれるままにゴミ箱の前で躊躇したが、目ざとく気付いた治に呆気なく捨てられた。その映像は角名くんのスマホの中にきっちり残されているはずだけど、どうやら北先輩には見せられてないらしい。
 飲みものでなければ肌身離さず持てたのに、と昨日感じた悔恨が再びわき上がってくる。後悔に塗れた私の顔を一瞥した北先輩は、ふははっと明るい笑い声を上げた。

「なんやねん、そんな顔して」
「えっ、変でしたか?!」

 侑や治ならともかく、まさか北先輩に顔の造型を笑われるとは思っていなくて、一瞬で羞恥に身体が燃える。慌てて顔を隠そうと手のひらを大きく開いて目の前で腕を交差させると「ちゃう、ちゃう」と北先輩はこちらへ手を伸ばした。

「すまん。別に悪い意味で笑ったんやないよ」
「へ? そうなんです?」

 北先輩の指先が私の腕に掛かる。〝顔を隠す必要なんてない〟と言われるよりも強く印象づけられると同時に、北先輩の指先に導かれるまま腕を下ろした。
 悪い意味じゃないならいいか。そんな風に安堵の息を吐いたのも束の間で、北先輩の指先が離れた途端、たった今、北先輩に触れられていたのだという事実にたじろいでしまう。どうしてこういう照れくささって後からどんどんわき上がってくるんだろう。波のように襲いかかってくる気恥ずかしさに身を焦がしていると、また顔を隠したい衝動に駆られる。だけど、また北先輩に触れられたら今度は爆発してしまうかもしれない。そう思うと安易には動けなくて、きゅうっと強く目を閉じて感情に耐えていると、北先輩の笑い声が耳に飛び込んできた。

「ほんまさんとおるの飽きんわ」

 耳にやわらかく馴染む声で紡がれた言葉をにかわには信じられなくて、強く閉じていた目を開く。恐る恐る見上げれば、快活に笑う北先輩が手の甲で口元を隠して肩を揺らしていた。楽しそうな笑い声と飛び込んできた光景が相まって、喉の奥が簡単に詰まってしまう。
 目を瞑っていた弊害だろうか。もしかしたら白いシャツが朝の太陽を反射させているだけなのかもしれない。それでも、いつになく楽しそうに笑う北先輩は、目に眩しいほどにきらきらと輝いていた。



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