孤爪 研磨02

籠絡は緩めでお願いします


「孤爪、嫁さん来てるぞ」
 その声に、膝の上に置いたスマホから顔を上げる。呼びに来たクラスメイトの姿を一瞥し、それから教室の入口へ視線を伸ばした。
 嫁だと称されただろうの姿はここからは見えない。恐らくドアの外で扉を背に立っているのだろう。
 のっそりと立ち上がり、呼びに来てくれた男子に頭を下げる。その横を通り過ぎて教室の入口へと足を運ぶおれへと向けられる視線は少なくない。ひしひしと感じるそれに、冷や汗が出そうだ。
 がおれのところへやって来る頻度は少なくない。やれ教科書を忘れただの、やれ弁当を作ってきたから食べてだの、あれこれと理由をつけてはおれを呼びつける。そういうことが続けば、当然周囲はそういう目でおれたちを見る。所謂公認の仲、というものに当てはめられているのが現状だ。
 実際、付き合っているわけではないと否定したところで意味は無い。真実がどうだとか、他の人には関係がないからだ。
 面白ければなんでもいいという無責任な野次馬の視線から逃れるため、緩い足取りをほんの少しだけ早めた。入り口から顔を出し、視線を左側へ転じると、悪い顔をしておれを見上げると視線がかち合う。
「どうしたの……」
「別に、特に用事はないんだけどね」
 言って、おれの目を見返すの視線を受け止めかねて、廊下の端に視線を転じた。そうするとが満足することをおれは長い経験の中で学習していた。
「嫌そうな顔をする研磨が面白いから、つい」
 目を細めたに、おれは肩を落とす。冗談じゃない。 目立つのは嫌なのに、いくら言い募ってもが態度を改めることをしてくれない。いつから彼女の性格が歪んだのか思い返したが、小学生の頃からもうすでにこういう兆候は現れていた気がする。
 クラスメイトたちからおれの嫁だと言われていることに、はどう思っているんだろうか。状況を知ってやって来ているのなら大した根性だと思う。
 ただ、が来てくれることは別に悪いものだと思っているわけではなかった。むしろ、状況さえ違えば喜んだとも思う。
 なんだかんだ言ったって、おれのへの気持ちは固まっているからだ。その気持ちが続けば、その孤爪の嫁だなんて呼称ももしかしたら実現するかもしれない。幼いころの約束を一方的に覚えていて、それを守ろうとか今更考えてるわけじゃないけれど、以外の女の子をかわいいと思えたことがないのだからそれも致し方ない。
 あの頃と同じようにもおれを想っていてくれるのかどうかも知らないのに、勝手なことを考えてしまう。のそりと、へと視線を戻すと、ずっと俺を見上げていたのだろうと視線が交じり合う。
 すぐ側で成長した彼女は、昔みたいにおれに対してももちろん、クロに対しても素直な笑顔を見せなくなっていた。浮かべられるものといえば嘲笑だとか嫌な意味を含んだものばかりで、特におれにはまるでネコが狩ってきたネズミを甚振るように振る舞うに、肩を落とすことしか出来なかった。
 今はもういやな笑顔は消えていたけれど、今度は口元を引き締めておれを観察するような目で見てくるに、また視線を反らした方がいいのかと逡巡する。
 多分、今は視線を逸らした方が機嫌を損ねるはずだ。
 反対におれがを観察して、押し黙ったままに視線を落とす。すると、は少しだけ満足そうに口元を緩めた。よかった、当たった。安堵に胸を撫で下ろしながら、おれはそっと口を開く。
「……じゃあ、もう用事は終わったよね」
 特に用事がなく、おれの嫌そうな顔を見て満足したであろうに、言外にもう自分のクラスに戻るよう含めると、その唇が簡単に尖った。
「どうしてそういうこというの?」
「だって……目立ちたくないから……」
「……なにそれ。自分のことばっかり。用事があるからこっちは来てるだけなのに」
「じゃあ、その用事って?」
 確認すると、の唇が益々言いづらそうに尖る。眉根を寄せておれを見上げるその瞳を、肩を竦めながらも受け止める。
「研磨と……ちょっと話したくて」
「……はぁ」
 溜息を零したのは、呆れたからではなかった。言い難そうな言葉に、少しだけ心を身構えていたことに対する安堵のものだった。だけどれが性格にに伝わるはずもなく、彼女がその柳眉を逆立てておれに詰め寄ってくる。
「溜息なんて吐かないでよっ」
「え、……ごめん」
「自分が何も悪くないのに謝るのも、ずるい」
「ご、」
 ごめんと言いかけて、口を噤む。反射的に謝ることでこれ以上の機嫌を損ねるのは本意ではなかったからだ。
 押し黙ったは、おれから視線を外して俯いた。廊下を通り過ぎる生徒の視線が向けられていることに気付き、彼女を隠すように腕を持ち上げながら半歩移動する。それを、おれが立ち去るのだと勘違いしたのか、の腕がおれの制服の裾を掴んだ。
……」
「……解ってるのよ、自分が酷いこと言ってることくらい」
 おれから目を逸らしたものの、先程よりも少しだけ顔を上げたの横顔の、その双眸が潤んでいることが見て取れて、胸の奥に痛みが走る。泣くのなんてずるい。おれがの涙に弱いことなんて、きっと彼女は解りきっているはずなのに、簡単にはそれをおれに見せつける。
「でもこうでもしないと、私のところに来ない研磨と関われないじゃない」
 震える声で告げられた言葉に、観念する。
「ごめん、。もう冷たいこと言わないから」
「ホントに?」
 中途半端に持ち上げていた腕を彼女の背中に回し、宥めるように擦った。
「うん」
「じゃあこのままぎゅって抱きしめてよ」
 唐突に話が飛躍したことに狼狽えてしまう。ここは学校で、廊下で、人の目も多数ある。否、それ以前におれたちはそういう間柄にはなく、を抱きしめるなんてして、気持ちが抑えられるかどうかさえも怪しい。
 簡単に言ったは、おれの制服を掴んだ右手をそのままに、更に左手で脇腹辺りを掴む。背中に触れた手にほんの少しだけ、力を入れれば彼女の望みを叶えることができるだろう。
「それはちょっと……」
 憚られるどころではない提案を退けると、は顔を上げておれの目を射抜く。
「じゃあ今度からは研磨が私に会いに来てくれる?」
「それくらいなら……」
 譲歩されたことに安堵して頷く。その途端、の表情が緩んだ。昔のようにふわりと嬉しそうに笑うに胸の奥が甘く痺れる。思わず手のひらに力がこもりそうになるのを既で堪える。
「じゃあ、次の休み時間に。絶対来てよね、待ってるから」
「……う、うん」
 ドギマギとしながら応じ、この場から立ち去るの背中を見つめる。触れていた手を自分の方へと引き寄せ、もぞもぞと手のひらを動かした。

* * *

 次の休み時間に、と言われたことを守ろうと自席を立つと、前の席のやつがおれを振り仰いだ。
「あれ、便所?」
「いや……ちょっと、隣のクラスに……」
「あぁ、嫁さんに会いに行くのか」
「嫁じゃ……ないけど」
「はいはい。でも珍しいな、孤爪がさんに会いに行くなんて」
 級友のその言葉に、今更ながらに、に嵌められたのだと気付いた。やめようかな。一瞬考えたけれど、それをやって怒鳴り込まれても嫌だから、うん、とひとつ頭を揺らして応え、そのまま教室から出る。
 隣のクラスのドアの後ろから覗くと、案の定、ニヤニヤとしたと視線がかち合った。



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