西谷 夕02

008.見つめる


 廊下を出た瞬間、目の前を通り過ぎた小さな背中に心が瞬時に奪われた。反射的に追いかけて、その背中に声を投げ掛ける。
 そこまでは、いつもどおり、日常的に行われるものだった。
「おーい、西谷夕ー」
 子供のようにお気楽な声で、西谷に話しかけたことを後悔するなんて思っていなかった。私の呼びかけに応えるように立ち止まり、振り返った西谷の顔を見て、思わず怯んでしまう。
 荒んだ、顔。否、顔だけじゃない。身体全身で吹くように、怒りを表している。
 ビクリと肩が震える。飼い主に駆け寄る犬のようだと西谷に言われたことがある、その表情が萎んでいくのが解った。
 正面に立つ西谷の顔を、真っ直ぐ見返していいものか悩む。いつもの西谷が持つ人当たりの良さがまったく感じられない。
 やけに尖った様子を表した目元には、擦ったのか、微かに赤みが滲んでいる。それは窓から差す西日のせいではないことは、鈍い私でも解った。自分の内にある怒りをうっかり発散させないようにと固く結ばれた口元に、西谷の決意が現れているようだった。
 正面に立ったまま、目を逸らして躱すことも出来ずにただ呆然と立ち尽くす。
 呼びかけた際に学ランの裾を掴もうと伸ばした手も、自分の方へと引き戻すことも出来ず、ただ宙を凪いだままだった。
 こんな風に尖った空気を迸らせた西谷を見ることが初めてで、どうしていいか解らなかった。私を振り返った西谷の視線は、私に向かい合ったまま剥がされない。
 普段ならもうとっくに柔和に綻んでいるそれが、いつまでも鋭さを保ったままでいることが益々私を焦らせた。
 迂闊だった。西谷がこんな顔をするなんて、知らなかった。いつものように脳天気に話しかけていい場面ではなかったのだと今更ながらに悔いる。
 いっそ、うるさい、だなんて当たり散らされる方がまだマシだ。
 数歩の距離を残したまま対峙する私たちを遠巻きに見ていた他のクラスの人達も、西谷の空気に触れ、教室へ逃れていくさまが視界の端に写った。もしかしたら、同じように退散した方が西谷のためになるのかもしれない。一人にして欲しいと、思っているかもしれない。
 だけど、西谷に背を向けて立ち去ることは絶対に出来ない。直感でしか無いけれど、それをしてしまえば、西谷を見捨てることに直結するような気がして、目を見張ったまま西谷の動向を待った。
 放っておけないと思ったのは私の自己満足にしか成り得ないとしても、西谷が去るまでは見届けたいと思った。ぽかんとだらしなく半開きになっていた口を引き締める。きゅっと結ばれた唇に、笑みが浮かぶことはない。
 目を据えてこちらを睨みつけてくる西谷の雰囲気に気圧されそうだ。いつの間にか腰の辺りまで持ち上がっていた手のひらが拳に変わっていた。
 それでも視線を逸らすことはしない。手のひらに爪が刺さった痛みなんて目じゃないほど、この視線から逃れることはきっと、もっと、痛い。
「ホント……は……」
 ポツリと言葉を零した西谷の声が、ほんの少しだけ震えていた。
 西谷に名前を呼ばれれば無条件で浮き立つと思っていたのに、あまりにもせつないその声に、急激に気持ちが小さくなってしまう。
 こんな辛そうな声を出させるくらいなら、声を掛けなければよかった。
 やはり失敗だったのかもしれない、と下唇に噛み付いた。目の前に立った西谷を、好きだと思う気持ちだけで、西谷の役に立てるはずがないのに、何を痴がましくも目の前に立ちはだかったのか。表情を変えた私を見返した西谷は、眉を下げ、呆れたように目元を細めた。少し笑ったように見えるその表情も、泣きそうなのかもしれない、だなんて思うと胸がざわついた。
「――あの人も、お前みたいなヤツなら良かったのに」
 どういう意味、と言葉を聞き返すよりも先に、ふらりと西谷の身体が前傾する。倒れるのか。驚いて西谷の肩を支えようと距離を詰めると、持ち上げかけた手のひらに西谷の腰が触れる。
 反射的に手を引くと、それを追うようにして西谷の身体がさらにこちらへと寄り、そのまま私の肩口に西谷の額が収まった。
「にっ……」
 西谷、と呼びかけようとした声が喉元に留まる。反応を返すことで西谷の中に波風を立ててしまうかと思うと口を噤むことしか出来なかった。
 私の耳と、西谷の耳が触れる。横目に入る小さな後頭部から生えた髪質はいかにも男らしく硬質で、頬に触れると少し痛痒かった。
 嗅ぎ慣れない西谷のにおいが鼻について スンと空気を吸い込む。ぎこちなく触れる肩が微かに揺れた。呆然と立ち尽くした私を抱きしめるわけでもなく、西谷はその肩から動こうとはしなかった。
「――西谷?」
 意を決して喉に張り付く声を絞り出す。掠れ声で西谷の名前を呼んだが、やはり西谷が反応を返すことはなかった。
 肩に埋められた頭は一ミリも動かずそこにある。目の前にある頭を撫でてあげたい気がしたけれど、おいそれと触れることは出来ない。せめて何かの力になれればと、ほんの少しだけ腕を持ち上げ、手のひらを西谷の背中に触れさせ、そのまま私の胸とでサンドするように押し当てる。
 手のひらに触れた背骨の感触に、男の子の割には細っこく華奢な体躯だ、なんて失礼な考えが頭を過ぎる。
 手のひらからじわりと広がった熱と、胸にむくむくと育った感情は西谷を守りたいという欲だった。



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