西谷 夕03

小さな未来の可能性


 2クラス合同の体育の授業中、サッカーの授業を受ける男子と2分したグラウンドで、バスケのミニゲームが行われていた。今、行われているのは2試合目で、先程の試合で出場していた私とは談笑しながら、パス練と称してボールを放っていた。その、矢先だ。
 一瞬の衝撃だった。
 避けろ、という叫びに振り返った瞬間、鼻から脳天にかけて衝撃が走る。その勢いに負けて、身体が後方によろめく。尻もちをつくだけでは留まらず、派手に転んで後頭部を地面に叩きつけてしまった。
 地面に背中を擦り、顔面と後頭部の熱と、一気にいろいろな場所が熱く痛んだ。
「うう……いたい……」
 肘をついて上半身を起こしていると、ペアを組んでいただけでなく、クラスの女子が私を取り囲むようにして集まってくる。
「ちょっと、っ!」
「痛そ……大丈夫?!」
「保健室行こう!立てる?!」
「や、そんな、だいじょーぶだから」
 矢継ぎ早に紡がれる心配してくれる言葉に、反射的に無事を示したけれど正直、大丈夫なはずがない。私の頼りない言葉は、彼女たちにとってもなんの慰めにもならなかったらしく顰められた顔が解けることはなかった。
 ガツンとした痛みが残る鼻の頭を押さえると、途端に手の平にじわりとした熱が広がった。確かめるように顔から離すと、予想通り、その手の平の中には赤々とした液体が広がっている。鼻血だ。小学生以来の経験に思わず目を瞬かせた。
 傍らを転がるサッカーボールに目を向ける。遠くから聞こえる喧騒に、どの男子かは解らないけれどふざけて強くボールを蹴って、それがこちらへと逸れたことが推察される。コイツが私の顔面を強襲したのだと思うと自然と恨みがましい視線となった。
 鼻と口元とを隠すように抑えた手の平が、流れだした血液によって赤く染まり上がる。鼻の奥を伝って喉の奥へと侵入してきた鉄の味に顔を顰めた。
 口を漱ぎたい。顔も洗いたいし、いっそのこと保健室行きたい。というか、ここから、逃げたい。
 痛いというのももちろんあったが、何よりも恥ずかしかった。あんなにキレイにボールを顔面で受け止めることなんて、滅多にないはずだ。15年生きてきて、他の人がこんな目にあってるのを見たことがないのがその証拠だ。
 チラリと視線を横に走らせると、遠くで審判をしていた教師がこちらへと駆け寄ってくる様が目に入った。クラスの女子と同様に、心配した視線が降ってくる。
、お前……」
「せんせぇ、保健室行ってもいいです?」
 掛ける言葉を探す教師の言葉を遮って自分の希望を伝える。鼻を抑えていたせいで、随分間延びした声になったがそれが咎められることはなかった。
「あ、ああ。そうだな。すぐ行ってこい。次の授業の先生には私から言っておくから、気にせず休みなさい」
「はぁい」
 教師の許可の言葉を契機に立ち上がる。鼻血を受け止める右手を顔に沿えたままだったせいか、それとも頭を打った衝撃のせいか、ふらりとたたらを踏んでしまう。
、ついてこうか?」
「んにゃ、だいじょぶ」
 付き添いを買って出てくれたにひらひらと左手を振ることで往なし、少しだけ急ぎ足で保健室へと足を向けた。

* * *

 クーラーのよく効いた保健室の丸椅子に腰掛け、鼻の付け根辺りを摘んでどのくらい経っただろうか。もう5分は過ぎたはずだが、血が止まることはなかった。
 鼻に詰められた脱脂綿が赤く染まる度に保険医が交換してくれるけれどこれももう3回目だ。こうも勢い良く血が噴き出るのは初めての経験で、粘膜が切れてしまっているのかもしれないと訝しむ。
 時折、椅子から立ち上がってうがいをしたが、そこに血の色が混じるのを目にして、小さく溜息を吐いた。鼻血が止まるまで横になるのは控えた方がいいらしい。確かに喉奥を伝って血が流れてきても嫌だけど、所在なく座って待つことも飽いてしまったので、とっとと鼻血が止まってしまえばいいのに、と自分の体を恨んでしまう。
 視線を窓の奥へと伸ばすと、まだうちのクラスが体育をしている様子が目に入る。楽しそうな声が耳に届き、あと1試合くらい参加できたらよかったのにとひどく残念に思った。
 肩を落とすと、片目の視界が急に遮られる。手をやると、後頭部に巻かれた鉢巻状のアイスノンがずり下がってきたことに気付かされる。角度を調整すると、氷が擦れることで鈍い痛みが走ったが、先程よりも違和感なく装着することに成功した。
「あーぁ、つまんないなぁ」
 ポツリと言葉を零すと、日誌のようなものを書いていた保険医がクスリと笑った。
「保健室が退屈しない場所だと先生困っちゃうな」
 平和が一番といった口ぶりの保険医に「それはそうですけど」と返す。解ってはいるけれど、クラスメイトが楽しく体育に励んでいるのだと思うと羨望が膨れ上がるようだった。
 お尻をつけたままキャスター付きの丸椅子を勢い良く転がしてみたものの、一向に気持ちが上向くことはなかった。
「あーぁ……」
 退屈な溜息を吐きこぼしながら、踵を床につけて前後に動かしていると廊下を叩く靴音が耳に入ってくる。すぐ側で立ち止まったその音に私が振り返るのと、閉ざされたドアが横に滑ったのは、ほぼ同時だった。
「おぉ、
 ドアを開いたのは、西谷夕だった。保険医を探すよりも先に、手前で椅子を転がして遊ぶ私を目に入れた西谷は、顰めていた顔を緩めて私に笑いかける。
「西谷夕!」
 突然の出現に、思わず椅子から立ち上がる。膝の裏に当たったその椅子が、床を擦る音を立てながら私から離れていく。慌ててそれを追いかけて、西谷の視線から逃げようとしたのに、西谷は私から視線を外そうとしない。
「やっぱり、アレ、お前だったのか」
 右肘の辺りに手をやった西谷はニッと口元を持ち上げて笑う。その笑みに、一瞬で顔が火照る。西谷の笑顔に照れるのは今に始まったことじゃない。だけど今日ばかりは違った。顔面でサッカーボールを受け止めるなんて酷いシーンを西谷に見られたということが耐えられなかった。恥ずかしくて顔から火が出るというのはこういう心境なんだろう。
 言葉ではとっくに知っている例えを、身をもって知り、嫌な汗が背中を伝うようだった。
「あ、先生。俺、肘擦りむいちゃいました」
「あらら、大変。傷は洗った?」
「はい!」
 私の羞恥を目にした西谷は、また白い歯を零して笑い、私の横を通り過ぎざまに丸椅子を掻っ攫っていく。そこに腰掛けて保険医に肘をつきだした西谷の背中を目にし、会話が打ち切られたことに対する安堵の息を吐く。
「キレイに吹っ飛んでたからビックリしたぞ」
 保険医の治療を受ける西谷の言葉は、紛れも無く私に掛けられたものだった。今しがた終わったばかりの会話を掘り起こされて、目を丸くしてしまう。ほんの少しの抵抗の意を込めて、鼻を摘んでいた手を少しだけ広げて、鼻に詰めた脱脂綿を見られないように隠した。
「お恥ずかしい限りデス……」
 口元を隠しているせいか、くぐもった声になる。訝しむようにこちらを振り返った西谷の視線に耐えかねて、ふいっと顔を横に逸らした。
「西谷君、ちょっとこのテープ抑えて」
「あっ、はい!」
 保険医の声に私から視線を外した西谷は、言われた通りに自分の右肘に手を伸ばす。細い指先が抑えた肘の怪我の具合に目を細める。バレーをするのに影響がなければいいんだけど、と微かに願う。
 西谷が治療されるさまをぼうっと眺めていると、程なくしてそれは終わる。立ち上がると同時にまた西谷はこちらを振り返った。当然、まじまじと眺めていた私と視線が交差する。
 目が合うと同時に、西谷は丸っこい目を細めた。
「派手にやったなぁ」
 笑い混じりの声と共に私の正面に立った西谷の小さな掌が私の後頭部へ伸びる。アイスノンが充てがわれた箇所よりも上に触れた。
 労るような手つきではあったが、ほんの少しだけ痛みが走り、つい顔を顰めてしまった。
「あぁ、悪ぃ」
 瞬時に手を翻した西谷に、もう少し触れて欲しかったなどと言えるはずもなく曖昧に頭を横に振って応じる。
「あーぁ……あんな醜態晒しちゃったらもうお嫁に行けないなぁ…」
 溜息ついでに、と唇を尖らせて言葉を零すと、西谷のアーモンドのような目が更に丸くなった。
「なんだ、そんなこと気になんのかよ」
「気にするよー」
「別にさっきの見てない奴選んだらいいだけだろ。それこそ、大学行って、社会人になったらいくらでも出会いはあるんだから」
 あっけらかんと続けた西谷に、益々むくれてしまう。
「それは、そうかもしれないけれど」
 そんな未来の話よりも、私には今が大事なのに、と溜息を零す。つまるところ、今、恋をしている相手である西谷夕にあんなマヌケなところを見られてしまったことが大事件なのだ。そんな私の心境を知らない西谷は、あっさりとその事件を遠い未来へ流してしまう。
「でも恥ずかしかったんだもん。あんなの一生引きずりそう……」
 一生は大袈裟だとしても、卒業して、成人式だとか同窓会だとか、旧友の結婚式に参加した時だとか、時を置いて顔を合わせた際に懐かしい話に花を咲かせたついでに「あの時、さん吹っ飛んだよね」だなんて会話が成されそうだ。遠くない未来予想図を、悲嘆をたっぷりと込めて西谷にぶつける。
 青白い顔をして切々に訴える私の顔を、西谷はゆるりと笑んで受け止めた。
「あぁ、それはあんだろうな」
 龍あたりが言いそうだ、だなんて悪意の無い笑みを浮かべて肯定する西谷に、後頭部とは別の箇所の頭が痛んだ。流れ弾に当たってぶっ倒れて、鼻血を吹いて、そして今好きな人にさえもあしらわれて、散々な目に遭わされたことにいっそのこと泣いてやろうかとすら思う。
 口に出来ない不平を胸の内に押し留めていると、西谷の手が翻るさまが目に入る。
 その手が私の額に収まったかと思うと、2回、その上ではねる。柔らかなその手を目を細めて甘受していると、西谷がいつものようにやけにきりっとした表情を浮かべた。
「まぁ、もし本当に嫁に行けないようなことがあったら、その時は俺がを貰ってやるから安心しろ」
 先程の未来を語る口調と同じく、平然と宣言された言葉に面食らってしまう。気が緩んだのが反映したのか、ずるりと頭に巻いたアイスノンがうなじへと滑り落ちる。
「ひゃっ」
 鼻を抑えた手さえも反射的に後頭部へ回す。垂れ落ちた冷たさを誤魔化すように手のひらで拭い、そのままアイスノンを外して鼻先にくっつけた。西谷から隠したかったのは、鼻に詰められた脱脂綿だけではない。
 西谷の目は揺らがない。あまり背丈が変わらないということも理由に含まれるんだろうけれど、まっすぐに射抜くような視線が注がれる。やわらかな笑みとともに向けられた言葉に、ドギマギしない理由が見つからなかった。
 今のは単なる冗談で、貰ってやるだなんて傲慢な軽口さえも、西谷が言うと本当にその言葉を実行してしまいそうですらある。
 頬に生まれた熱をアイスノンを宛てがうことで堪えていると、益々笑みを深いものをさせた西谷の顔が目に入った。
「子供に馴れ初め聞かれたらちゃんと今日のお前のこと話してやるからな!」
「それはやめて!」
 私が勝手に感じていた淡い空気を一瞬で消しさった西谷の言葉を即座に打ち返すと、西谷はさらに楽しそうに笑った。
 大人になってクラスメイトの口に上ることすら嫌なのに、生まれた子供にさえも同様のことを告げられたらもう逃げ場がないじゃないか。
 それでも、現実とは遠く、叶う見込みの無い宣言さえも、いつか本当になればいいのにと思う。耳に残る熱がそう願っていた。



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