西谷 夕05

迫る夕暮れ


 夏休みを目前にして友人たちと夏休みの遊ぶ計画を練りに練っている間に、下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。自転車通学の友達を見送り、彼氏を待つのだという友達と別れ、一人で昇降口を後にする。
 夏の夜は遠く、下校時刻になっても日が高いことが多い。正門へ向かいながらなんとはなしにグラウンドの手前で足を止める。フェンスの向こうでは野球部員たちが円陣を組んで夏の目標を叫んでいた。
 あと数日で高校野球大会の予選が始まるのだと同じクラスの男子が言っていた。そして甲子園を目指すのだという彼のカバンにはマネージャーが作ってくれたというユニフォーム型のマスコットが付いていてそれを誇らしげに見せられた。
 西谷もあの美人なマネージャーさん……キヨコさん、だっけ。そのキヨコさんからお守りなんか貰うんだろうか。
 考えると胸の内にきゅっと痛みが生まれる。嫉妬なんてできる立場じゃないけれど、脳裏を何度も掠めていく。
「はぁ……」
 口から漏れる溜息を隠さずに、肩を落とす。西谷目当てでバレー部のマネージャーになんかなれるはずもないのに、どうしても羨ましさが募る。目標を同じくして頑張る姿に憧れる。一緒になって日々を研鑽することの尊さは、なんと眩いものなのか。
?」
 背後からかかった耳に良く馴染むその声に、期待に満ちた目で振り返ってしまう。部活を終えたばかりらしい西谷が、田中や縁下たちと並んで歩く姿を瞬時に捉えるのは最早特技と言っても過言ではないだろう。
 汗の残る精悍な顔つきに図らずも心臓が跳ねる。きゅっと唇を引き締めて立ち竦んでいると、西谷が私のそばで足を止めた。
「ノヤっさん。先帰ってるぜ」
「おぉ、悪ぃな」
もまた明日な」
「あ、うん。バイバイ」
 田中たちは言葉だけを残して帰路に着く。その背中に手のひらを振ると、首だけでこちらを振り返った木下が肩に掛けたカバンの紐を整えながら同じように手を振り返してくれた。
 大きく手を振る西谷を横目で盗み見る。一緒に帰らなくていいのかと聞こうかと迷ったが、西谷が何も気にしていないようだったので口をそのまま噤んだ。
「で、。お前こんなとこでなにやってたんだ?」
 くるりとこちらを振り返った西谷の言葉に、ぐっと言葉を詰まらせてしまう。
「や、野球部見てた」
 取り繕う言葉を瞬時に見つけられなくて、苦し紛れの言葉を紡ぐ。じっと私の顔を見つめる西谷に嘘がばれてしまう気がして思わず目をそらしてしまう。耳のあたりがジリジリとする。きっとまた西谷に目を合わせるようにすれば突き刺すようなまっすぐな視線がこちらに向かっていることだろう。
「それ、もう終わんのか」
「え? あ……うん。ちょろっと見てただけだから別にいつでも――」
「じゃあ、帰ろうぜ」
 西谷の手のひらが私の背中に触れる。ポンとひとつ、軽く叩かれて帰路を促された。ただそれだけで気まずかったような心境が浮かれたものへと遷り変る。満面の笑みで頷いてみせると、西谷もニッと口元を持ち上げた。
 帰り道の途中にある坂ノ下商店でふたり揃ってガリガリ君を買い、食べながら帰り道を辿る。夏といえばこれだなと笑う西谷に「冬も食べてたじゃん」とチクリと刺す。「冬は肉まんが食べたい」と新たな提案を出せば「おう、食おうぜ」と西谷はまた笑った。
 なんの変哲もない会話だったけれど、小さな約束もきっと西谷なら果たしてくれるはずだという確信があった。
 夕焼けが綺麗だとか、道沿いにある川面がやけにキラキラして見えるだとか。そういうので心が動くのは隣に西谷夕がいるときばかりだ。
 アイスを舐め取りながら足元に長く伸びる影を見つめる。影を見つめていると、いたずらな心が沸き起こった。チラリと右隣に視線を向ければ、右手に持ったアイスに集中している西谷の左手は規則正しい歩みに合わせて揺れるさまが目に入る。西谷にバレないように少しだけ歩みを送らせ、半歩分だけ下がる。そのまま西谷の方へと手を伸ばしてみせた。もちろん、西谷の手には触れないように、だ。私の影が、簡単に西谷のそれに触れる。揺れる手を捕まえることができないが、歩みに合わせて重なるように腕を揺らした。
 影はいいな。簡単に西谷に触れられて。
 浮かび上がったはずの心がまた落ち込んでいくのが分かる。キヨコさんに勝てないばかりか、自分の影にさえ負けてしまう。いいないいなと羨むばかりで決定打を打てないくせに、僻み根性ばかりは人一倍にあるのだから嫌になっちゃう。
 手を真横に伸ばし、西谷の背中と首の間に手のひらを向ける。かつて触れたことのあるそこに、また手を触れさせることが出来る気がしない。
 ぷぅっと軽く頬を膨らませる。わざとらしく子供っぽい仕草をとって私の中にある感情を分散させようとした結果の動作だった。
「何やってんだ?」
 怪訝そうな顔をして頭を少しだけ傾けた西谷の髪の毛が手のひらに微かに触れた。驚いて右手をさらに上げて降伏のようなポーズを取ってしまう。
「え、いやちょっと伸びしてた」
「? ……そうか?」
 納得の行かないような顔をした西谷は口元をへの字に曲げて首を傾げた。洞察力の鋭い西谷に嘘は通用しない。帰る前にも小さな嘘をついたが、言葉を遮られたのだって嘘は聞いてられないという意思の表れのはずだ。伸ばしたままだった手を口元に戻し、指先で頬を掻く。曖昧に笑って見せると西谷が小さく唇を尖らせた。
「ちゃんと歩かないと置いてっちまうぞ」
 言うが早いか、西谷の手のひらがこちらへと伸び、ぐいっと強引に手首を引かれる。同時に、少しだけ遅らせていた歩幅がすぐに取り戻される。真横に並び歩く西谷の手は離れない。あまりの急展開に耳の奥に血液がめぐる音が鳴り響いた。
「な、なんで」
「なんでって……」
 キョトンと目を丸くした西谷は数度目を瞬かせ、私の戸惑いに塗れた顔を見つめる。小さく笑った西谷の眉がほんの少し下がる。その表情の変遷に、私の心中に動揺が加算される。
「一緒に帰ってんだから、一緒に歩かねぇと意味がないだろ」
「……う。それはゴメンとしか……」
「さっきからフラフラしてんだもん、お前。グラウンドいたときはなんか思いつめたような顔してたしな」
 思わず自分の頬に手の甲を当てる。しょげていたのは事実だ。西谷に見られていたこともだが、改めて口にされると恥ずかしかった。
「なんかあったか?」
 慌てふためく私に視線を合わせるように西谷が少しだけ背を屈める。眼前に迫る西谷の瞳の色に心配の色が混じっていることに気付いた。私が勝手に落ち込んでいるだけなのに、西谷がその気持ちに寄り添ってくれることが堪らなく嬉しい。
 未だ離れされない西谷の手のひらの熱に、目が回りそうだった。
「に、西谷夕っ」
「ん?」
「あ……あのね! 恥ずかしいから言わなかったんだけど……さっき野球部見てたのさ……なんか羨ましくなっちゃったんだ」
「そういや教室でもそんな感じだったな、お前」
 チラリと目線を右斜め上に向けて思い返すような表情をした西谷に口元を引き締める。照れ隠しにガリガリくんを口元に運ぶと、私に釣られてガリガリ君を口にした西谷は咀嚼しながら言葉を紡ぐ。
「ユニ型のお守り見せられて……物欲しそうな顔してたっけ。欲しいのか? あれ」
「そうじゃなくて、作りたいの!」
 突拍子もない指摘に、我を忘れて応えてしまう。息を飲んだ私の目に、アーモンド型の目を丸くした西谷が映る。私が妙な発言を西谷に提示することは珍しいことではない。毎度おかしな事を言う度に今みたいな顔をされる。まるで私は西谷を驚かすことが趣味なんじゃないかと自分自身でも訝しんでしまうほどだった。だが、今のは正真正銘私の実直な願いであり、自分の本音をさらけ出したことで驚かれてしまうと、いつも以上の羞恥が身に襲いかかってくる。
「うー……失言だ! 忘れて!」
 恥ずかしさに駆られて、足を止めて西谷から顔を背ける。同じように立ち止まってくれた西谷に掴まれた方の腕を引き寄せたかったが、西谷の手からそれが引き剥がされることはなかった。

 落ち着いた西谷の声が耳に馴染む。聞いたことのないほど、柔らかな声音に面を上げる。それでも恥ずかしくて正面切って西谷の目を見返すことができない。まごついた視線を道の端に向けていると、より一層夕焼けが街を染めていることに気づいた。
「う」
 辛うじて言葉を発し、無視しているのではないことを示すと、西谷がフッと笑う音が聞こえた。
「俺、ユニはオレンジで番号は4な」
 柔らかな声が更に紡がれた。耳に残る言葉が信じられなくて反射的に西谷に視線を戻してしまう。柔和な目が私を捉えて、離さない。掴まれた腕よりもさらに強く、心が捕らえられる。
「間違えんなよー?」
 掴まれていた腕が解放され、だらしなく体の横に垂れる。そのすぐ後には、額に手のひらと同じ熱が触れた。呆然と西谷を見返す私が面白かったのか、小さく西谷は笑った。
 また少しだけ前傾した西谷が、私の手に触れ、先程は西谷が一方的に掴むだけだった手のひらが、重なる。ぎゅっと握り込まれた手のひらを恐る恐る握り返した。
 西谷はカンがいい。して欲しい時に、そうしてくれる。そして欲しい言葉を、くれる。
「間違えないよ……」
 いつも見てるし、とは流石に言えず、答えると西谷はその笑みをさらに鮮やかなものにさせる。掴まれたと思っていた心が益々奪われていくのを感じた。赤く染まる頬は迫る夕暮れのせいだなんてチープな言い訳も見抜かれてしまいそうだ。
「おう、じゃあ楽しみにしてるからな」
 軽く私の手を引いた西谷は、また何のてらいもなく歩き始める。その背中を追い、並ぶ。校庭で感じた寂しさは既になく、共に歩む道のりの、片鱗でさえも感じる眩さに、笑みを抑えることはできなかった。



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