西谷 夕07

偶然よりも必然を


「ヨォ、
 乗り込んだ電車の中で声をかけられる。聞き覚えのありすぎる声に、弾かれるように顔を上げた。期待に溢れた視線が一直線へ彼へと向かう。私に目を合わせるように覗き込んだ西谷夕は、視線がかち合うとニッと口元を持ち上げた。
 乗り込んだ入口のすぐ側の吊革を掴んでいるのは、紛れもなく西谷夕で、ただそれだけで頬に熱が走る。今日は日曜日で、学校もないから西谷夕と本当ならば会えるはずもなかった。まさか偶然会えるなんて。運命だとか大げさなことは思わないけれど、降って沸いた幸運に、簡単に胸の奥は弾んだ。
「珍しいな、電車で会うの」
「そうだね。むしろ初めてじゃない?」
 普段、学校に行くときに電車に乗る習慣もなく、遊びに行くときも近所ならば自転車で事足りる。家族と出かけるときも車がほとんどで、電車に乗るのは本当に1、2ヶ月の間に1度あるかないか程度だった。電車に乗る機会がほとんどないからこそ、西谷と電車で乗り合わせるのは初めてだった。
 珍しい経験に少なからずドキドキしてしまっている私は、さりげなく西谷の隣に並び、同じように吊革を掴んだ。チラリと西谷に視線を流せば、ニッと西谷が唇の端を持ち上げて笑った。
「今からどこ行くんだ? 買い物か?」
「うん。ちょっと寒くなってきたし、友達と新しい手袋とかマフラー買おうかって。西谷夕は?」
「俺はシューズ新調しようかと思って。龍たちと駅で待ち合わせしてんだ」
「そっか」
 シューズ、ということはおそらくバレー用の物を取り扱う店に行くのだろう。田中の名前が出たからその予想はかなり正解に近いはずだ。そう考えた途端、これから西谷はキヨコさんとも待ち合わせてるんだろうか、だなんて嫌なことを考えてしまう。
 彼女でもないのに嫉妬をするなんてことは出来なくて、嫌な考えを頭を振ることで追い払う。突然、雨に濡れた犬のような素振りを見せた私を不思議そうに眺めていた西谷は、きょとんと丸っこい目で私を覗き込んだ。
 何もないよ、という代わりにぎこちないながらも笑みを浮かべてみせる。納得いかないような顔つきで眉を寄せた西谷だったが、深く追求されることはなかった。
「しっかし今日はいつになく混んでるな」
「そうだね……日曜日だし……みんなでかけるのかも」
 周囲を見渡せば空席はなく、座席に並行するように下がった吊り革のほとんどに人の手が重なっているのが目に入る。電車が止まったのを機に、掴んでいた吊り革から手を離し、手のひらを労わるように撫で付けた。背が高いわけではないから、ちょっとの間でも捕まっていると手のひらが痛くなる。
 さすることでほんの少しでも痛みが緩和すればいいのだけど、と両の手をこすり合わせていると、ほどなくして電車がまた発車した。慌てて吊り革を掴もうとしたが、うまく手を伸ばせず空中でからぶってしまう。西谷の隣での失態に、一瞬で頬を赤くしてしまう。下を向きいて体を小さくさせつつ、改めて上に手を伸ばしていると、その動きは途中で止められる。弾かれるように顔を上げると、私の手のひらを掴んだ西谷が、まっすぐな視線を私に向けていた。
「大丈夫か、? 手、しんどいんなら俺に掴まっていいからな」
「え、いいの?」
「当たり前だろ。ホラ、この辺、掴んどけ」
「うん。じゃあ……」
 誘導されるがままに、西谷の腕を掴んだ。あまり身長が変わらないのに、西谷の腕は意外とがっちりしている。こういうとこ、男の子なんだなぁ、だなんて意識してしまう。
 照れくささに黙り込んでいると、ついつい西谷夕のことを観察してしまう。背筋をピンと伸ばし、車窓越しに走る風景を眺める西谷夕は、時折、私に視線を向ける。その度に目元が和らげられるのを目にし、やっぱり好きだなあ、だなんてのんきなことを考えた。
 揺れる電車の中で他愛もない会話を交わす。そのほとんどがバレー部のことだったけれど、普段、部活に関わらない私にもわかりやすいように西谷夕は話してくれた。東京遠征を単純に羨む私に、遊びじゃないと怒る西谷は、それでも、気が向いたらなにか土産買ってきてやるよ、だなんて言って笑った。
 教室にいる時と同じような会話でも、外で交わす言葉はどこかこそばゆいような想いが湧き出てくる。電車の中、という普段会わない場所だというのも相まってテンションが変な感じになってしまっているのかもしれない。
 そして、西谷夕の腕を掴んでいる、というのもその変調に拍車をかけている。まるで腕を組む恋人同士のようだ、だなんて気づいてしまったのは車窓にうっすらと写りこんだ私と西谷夕の姿を見てしまったからだった。意識しないようにとすればするほどに動悸が激しさを増すのを感じた。
 暴れる心中とは裏腹に、体の方はちっとも揺れることがなくなった。吊り革を掴んでいる時よりも安定感があるのは、小さな揺れに西谷がまったく動じないからだった。西谷が吊り革を掴んでいる、ということを抜きにしても、やはりバレーをしているだけあって体幹が鍛えられているんだろうか。
「私も何かスポーツ始めたほうがいいのかな」
「どうした、急に」
「うーん……なんか西谷がちゃんと立ってるのが羨ましくなっちゃって」
 曖昧な私の言葉を受け止めた西谷は丸っこい目をますます丸くさせる。きょとんと私を見返した西谷にきちんと説明したほうがいいのか、ほんの少しだけ逡巡する。
「体幹が、ね」
「タイカン?」
「西谷、さっきから電車の揺れにも負けてないっしょ? だから……」
「あぁ、体幹か。それなら、別に――」
 西谷の言葉が不意に途切れる。車内アナウンスで駅に到着したという放送が西谷の声に被さったせいだった。その瞬間、目の前に座っていた男の人が勢いよく立ち上がり、ぶつかってしまう。勢いに弾かれ、西谷の腕から私の手が離れた途端、その先で蹴躓いてしまう。
 ――体のバランスがうまく取れない、転んじゃう。
 そう思い、次に来る衝撃に耐えるべくぎゅっと歯を食いしばった。だが、腰を落とすよりも前に、細い腕が私の体を支えた。
「おっと」
 西谷の声がやけに耳に響いた。それもそのはずだ。腕を引く、という先程の接触をはるかに超えている。尻餅をつきそうになった私の背を支えた西谷は、そのままぐっと腕を引き寄せた。抱きしめられている、といっても差し支えのない距離に、目を瞬かせる反応しか取れない。
「大丈夫か、
 顔を上げれば間近に西谷の双眸が、射抜くように私を見つめている。あまりの距離の近さに、一瞬で混乱に陥ってしまう。
「これがラッキースケベってやつか」
 事も無げにさらりと流すような言葉を言い放つ西谷に、茶化すような言葉を差し出すことすらできない。声にならない叫びが身内の中で暴れまわる。知らない人にぶつかられたことに対する怒りを覚えるよりも強く、西谷の接近に対する衝撃が胸の内のすべてを支配した。
 ぐるぐると視線の定まらない視線を西谷に向ける。驚きの渦中にある私とは打って変わって、涼しげな顔をした西谷は怪我がなくてよかったとばかりに私に笑いかけてきた。
 耐え切れなくて顔を伏せ、西谷の胸の上で、ぎゅっと拳を握る。あたふたしているのが自分だけ、というのが恥ずかしいというのも充分あったが、なにより西谷の胸の中にいる、というシチュエーションが胸を焦がして仕方が無かった。あまりの展開に頭がくらくらする。
 今の状況も夢みたいな展開だが、このままそばにいるのも心臓に悪い。早々に離れなければ変なことを口走ってしまいそうだ。例えば、愛の告白だとか。
「ありがと、西谷夕……でも、もう、大丈夫だから」
 言って、体を起こそうとした。だけど背中に圧力がかかり、その動きは引き止められる。押さえつける力はなんなのか。それが西谷の手のひらなのだと気づくのに、時間は必要なかった。
「離したくない」
 やけにはっきりとした西谷の言葉が耳に残る。カッと頬に熱が集まるのを感じた。顔を上げることも声を出すこともできない。ダダ漏れになりそうな感情を、息を殺して抑えつける。
 こんな状況は耐えられない。片思いの私にとって、ありあまる程の僥倖だ。私にはもったいないほどの状況に逃げ出したくなる。だけど、西谷の言葉を拒否することなんてもっとできない。言葉に応えるよりも早く、手のひらが西谷の服を掴む。私の反応に、小さく西谷が笑うのが聞こえた。
「さっき言い損ねたんだけどな」
「……ん」
がふらつくんだったら、俺が支えるから。だから…もうちょっとこのままでいよう」
 まっすぐな西谷の言葉が胸に刺さる。恥かしいだとか、ここが電車の中なんだけど、だとかつまらない考えがどこかに飛んでいってしまう。
「……うん」
 やっとの思いで、たった一言だけ返すことができた。ドキドキと耳の中に響く心臓の音が、私のものなのか西谷夕のものなのか。混乱の最中に陥った私にはもうなにもわからなかった。




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