澤村 大地04

ミルキーウェイ


 学校からの帰り道をさんと二人で並んで、ゆっくりと歩く。約束をしたわけでもないのに、突然降りてきた僥倖を俺は受け止めかねていて、普段なら詰まらない言葉が喉に引っかかってしまうようだった。
 事の発端はスガにあった。放課後遅くまで図書室で勉強していたというさんを、遅いから送って行くとスガが言っていたくせに、スガはこの場にいない。部室に忘れ物をした、と言い残して、戸惑う俺達を置いて、学校へと颯爽と戻ってしまったのだ。
 明日でいいだろとか、一緒に戻るかだとか。声を掛ける間もなく去ってしまったスガの背中には、失態に対する焦りや後悔などは微塵もなく、恐らく初めからこうしようと決めていたのだろう予感があった。
 気を利かせたつもりなのか、ただ単に面白がっているのかは知らない。ただ気掛かりなのは、こんな風にお膳立てをされていることに対して、さんが気を悪くしていないかということだ。
 別に付き合っているわけでもなく、単なるクラスメイトで、さんにとって俺はスガの友達という以上の認識は持たれていないはずだ。1年の頃から知っているけれど、彼女の様子がその頃と微塵も変わらないことがその証明だ。
 真夏の夜特有のむせ返るような空気と、遠く鳴く蝉の声に包まれる。別に普段通りを装って帰ればいいということは解っている。だけど戸惑いが胸に押し寄せるのを堰き止めることすらままならない。普段から部活の後はジャージ姿のままで帰るのだが、汗臭くないだろうかだとか、目立って嫌な思いをさせていないだろうかだとか、いちいちそんな些細な事を気にしてしまう。
 小さく溜息をひとつ、吐き出すと、隣を歩くさんが俺の顔を見上げた。小首を傾げたさんに曖昧に笑んで返す。
「いや、スガには参ったなって思って」
「……そうだね」
 微かに頭を揺らして頷いてみせたさんは、俺と同様に口元に仄かに笑みを浮かべた。
「でもコウちゃんが忘れ物するのって珍しいから……ちょっと驚いちゃった」
「あぁ、確かに」
 帰る前に部室内で他の連中が忘れ物をしていないか点検するスガなら簡単に思い描かれる。今日だって同じようにしていたのだから、益々俺の疑念が確信へと移り変わったがそれをさんに伝えるわけには行かない。
 手探りのような会話を繰り返しながら、緩やかに岐路を辿る。後ろから歩いてきた同じ烏野の生徒に追いぬかれながらも、その足取りを早めるつもりはなかった。
「コウちゃん、遅いね」
 ポツリと零された声には返事をせず、首を捻って元きた道を振り返る。疎らに人の歩く姿は見えたがスガが追いかけてくる様子はなく、またひとつ唇から溜息が零れた。普段よりも幾分も遅く歩いているのに、追いつけないというのは考えられない。この分だとスガは別ルートの道を辿って帰るくらいのことをしていそうだ。
 それに気付きながらも、俺はさんに対してスガが戻ってこないだろう可能性を口にはしなかった。狡猾だと言われればそれまでだけど、与えられたチャンスであっても不意に出来るほど愚直ではいられなかった。
 会話が途切れたことをきっかけに、さっきから気になっていたものを、今更気付いた風を装って、川縁へと視線を差し向ける。
「あ、さん。見てみて」
 彼女の眼前越しに、少し離れた場所を指で指し示す。俺の指先を辿るように左側に顔を向けたさんに、俺は更に言葉を続けた。
「川の中、星が落ちてる」
 昼間は澄んだ色を見せる川に、天上の星々がきらきらと反射する。水面の揺れに合わせて瞬くそれは、星を見上げるよりももっと綺麗だと思えた。
「ホントだ」
「今日、天気いいからかな」
 感嘆の声を漏らしたさんは自然と歩調を緩め、そのまま立ち止まる。俺もまた彼女に合わせて立ち止まり、少しだけ回りこんで彼女の横に並んだ。
「天の川ってこんな感じなのかなぁ」
 蝉の声に紛れてかすかな声が耳に届く。左隣に立つさんに視線を落とすと、目を細めて川面を見つめる彼女の眼の奥に憧れの色が潜んでいることを見つけてしまう。ゆるりと自然と口元に笑みが浮かび上がる。甘い痺れに似た感覚が胸の奥に沸き起こり、喉の奥に熱が生まれた。
「……ちょっと、降りてみようよ」
「えっ、澤村くん?!」
 言うが早いか、俺はさんの声を置き去り、緩やかな下り坂を駆け下りる。普段ならば取らない行動を起こしてしまった自分に驚く。意識はしていなかったけれど相当テンパってしまっているのかもしれない。
 驚いたさんを背中で感じながらも、肩に掛けた鞄を置き、運動靴と靴下を脱ぎ去り、履いていたジャージの裾を捲り上げ、川の中へと足を進めた。
 大粒の石の感触が足の裏をくすぐる。ひんやりとしたゆるやかな波を脛で受け止めながら、漸く、そこでさんを振り仰いだ。
 先ほどまで俺がいた場所で立ち尽くしたさんが、目を丸くして俺を見返す。驚かせてしまったことを申し訳なく思いながらも、ここまでしてしまったら、もう進むしか無いのだと腹をくくることが出来た。
さん」
「は、はいっ」
「………来る?」
 短い呼びかけとともに、誘うように右手のひらを差し出した。怯えが含まれながらも懇願にも近い声になってしまった。こんなの断られるに決まっている。来るわけがない。それでも来てくれればいいのに。矛盾だらけの思いが胸中に綯い交ぜになって沸き起こる。さんに対して、選んでくれればいいのにというちっぽけな祈りを込めて小さな賭けを仕掛ける癖は、この2年で染み付いてしまっていた。
「ちょっと、待って」
 手のひらをこちらに向け、静止を求めたさんは、緩やかな斜面を足元に気をつけた様子を見せながらも駆け下りてきた。彼女が近づいてくるさまを、胸を高鳴らせながら目に焼き付ける。断ることも出来るという逃げ道を用意した上で誘うのは、自信があるからじゃない。こうやって、さんが応えてくれるのが嬉しいから、いつも仕掛けてしまうんだ。
 俺に背中を向け、俺と同じように川に入る体裁を整えたさんは、ローファーの踵を揃えてこちらを振り返る。真っ直ぐに口元を引き締めて俺を見つめるさんに、胸の奥が熱くなる。
「……おいでよ」
 もう一度、手を差し伸べながら誘いの言葉を投げかける。さんもまた、横に下げていたままだった腕を胸の上に持ち上げた。
「うんっ」
 一つ、頭を揺らしたさんが、俺の方へと手を伸ばす。小走りで飛び込んできたさんの腕を反射的に取る。滑らかで柔らかな肌の感触が手のひらに馴染む。触れたことなんて殆ど無いのに、手のひらに吸い付くようだった。
 引き寄せたのは、彼女が転ばないように、怪我しないようにと守るような気持ちなのだと、大義名分のもと触れた。
 抱きしめることはまだ出来ない。それでも、さんの肘の辺りの二の腕を俺が掴み、さんもまた微かに俺の胸の辺りに手のひらを寄せた距離に、気持ちが決壊しそうなほど溢れてくるようだった。足元は確かに川の水の冷たさで心地いいほどなのに、反対に手や胸や、首のあたりの熱に浮かされるようだった。
「水、気持ちいいね。こういうの、実はいつかやってみたいなって思ってたの」
 戸惑った表情を浮かべていたさんが、足元にやっていた視線を持ち上げながらふわりと笑う。だが、至近距離で視線がかち合ったことに目を開いた彼女は微かに身を引いた。離れたくないという気持ちが出てしまい、彼女の腕を強く掴み、引き寄せる。さんの柔らかな前髪が、俺の首元をくすぐる。抱き寄せてはいないだけと言える距離だ、俺の胸に耳を欹てるように置いたさんに、心臓の音が伝わってしまうだろう恐れはある。それでもこんな風にしておいて平然としていると思われるよりは断然いい。
「さ、澤村くんっ……」
「ごめん、ちょっとだけ…こうしててもいい?」
 彼女の焦った声に被せるように自分の願望を口にする。賭けにすらならない言葉を、さんはどう思っただろうか。聞きたいような、まだ知らないままでいたいような。余裕のない感情を自分ですら持て余している状態では、さんの感情を突き止めることなんて出来ない。今、想像しても絶対に俺に対して都合のいいようにしか解釈できない。
 身体を固くさせていたさんがぎこちないながらも少しだけこちらへ身体を預けてくれたことを、俺を受け入れてくれるかのように思ってしまっているのがその証拠だ。
 横目で彼女の様子を眺め、その耳が赤く染まり上がっているのを目に入れる。密着したことで暑さを感じているのだとしても、それでもいい。吊り橋効果でも何でもよかった。さんに生まれた熱が今はたとえ夏の熱さによるものだとしても、恋によるものだと錯覚してくれればいいのに、と、足元に光る星のきらめきに祈りを捧げた。



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