澤村 大地05

僕を見上げた君が笑ってくれるから


「今日の日直は授業で使った年表を資料室に戻すのと、ノートを職員室まで運ぶの手伝ってくれ」
 授業終了の礼もそこそこに、教師の発したなんてことのない言葉に、にわかに体が硬直する。黒板の隅に書かれた名前を横目で盗み見る。目に入った名前に、ぎゅっと拳を握る。ほかでもないさんが今日の日直であることを確認し、高鳴る鼓動を飲み下すかのように一度のどを鳴らした。
 斜め前に座るスガがこちらを振り返る。俺の隣の席のさんに合わせるのかと思われた視線が俺へと差し向けられニヤリと緩む。
 わかってるよ。チャンスだって言いたいんだろ。
 しっしと追い払うかのように手を払い、そのまま机の上に頬杖をつく。目の淵を指先で触りながら、視線を真横に流す。「日直は誰だ」という教師の問いに、さんがまっすぐに手を伸ばすさまが目に入った。資料室と職員室と二手に別れるというのなら、そのどちらであっても手伝ってあげたい。
 手のひらの下で決意に口元を引き締めながら壇上の教師に手招かれてさんらが前に出たのを眺める。ぶつくさと文句を並べながらも男子がノートを抱えた。どうやら重さを考慮してか男子が職員室へと運ぶらしい。地図と年表と、大きな筒を両手に抱えたさんが、教師らの背中を追うように教室を出た。
 授業終了のチャイムに弾かれるように席を立ち、同じように席を立とうとしたクラスメイトの間をすり抜け教室の外へと足を向ける。
「頑張れよー、大地」
 鼓舞するというよりも冷やかすようなスガの声を背に受け、高鳴る鼓動を押さえ込むように咳払いをする。
さんっ」
 教室を出ていこうとする彼女の背中を追いかけて呼びかける。だが、俺の声が届くよりも先に、彼女は教室のアドアをくぐり抜けてしまう。
 教卓に腕をぶつけながらも小走りで追いかけると、視線の先で立ち止まったさんの背中が目に入った。
 もしかして、声が聞こえて足を止めてくれたのだろうか。期待に弾みかけた胸が、彼女の正面に立つ男の姿にパンと弾けるように萎んでいく。
「あれ? ちゃん」
「旭くん」
 さんが立ち止まったのは、俺のためではなく、旭を目にしたからだったようだ。職員室へと向かう教師たちの背中を見送った彼女は改めて旭を見上げた。あとほんの数メートルの距離なのに、同じく教室を出ようとするほかのクラスメイトにちょうど阻まれるようになり声は聞こえど会話に入ることは難しい状況がもどかしい。じりじりとした焦燥に駆られながらも、列に紛れながらさんたちに近づくことしかできない。
「なんだか大荷物だね」
「うん、今日日直だから先生のお手伝いなの」
「そっか。あ、良かったら――」
「手伝うよ」
 旭が続けるつもりだったはずの言葉を奪い、是も否も聞かず、彼女の手にある筒の束に触れる。正面に立つ旭と視線がかち合った。それだけで旭の大きな肩幅が十分すぎるほどに震えだす。
「うわぁ、大地っ」
「なんだよ」
「いや、別に……それじゃね」
 情けない声を一喝するように強い視線で制すると、旭はおどおどと口元をまごつかせる。逃げるようにして自分のクラスへ駆け込んでいった旭の背中にさんが「またね」と声を掛けたが聞こえているのかいないのか。
 焦って行動に移してしまったが、さんを驚かせてはいないだろうか。ひとつ、息を吐き出すことで肩に入っていた余計な力を払い、改めてさんと向かい合う。だが彼女の丸っこい目で見つめられれば、振り払ったはずの力が今度は腹の奥に生まれるだけだった。
 気圧されたわけではなく、ただ自分が戸惑っただけだというのに、妙に気まずいような心地がした。
「社会資料室に持っていくんだよね」
「えっと……うん、そうだよ」
「手伝うから、半分もらうね」
 回答を待たずに彼女の手にした筒を検分する。年表と地図ならば重さ的にも年表を選んだ方がいいだろう。
「そんな、悪いよ」
「いいんだ。さっきの授業のせいでちょっと眠くてさ。眠気覚ましに歩きたいだけだから」
「そうなの?」
 苦し紛れな理由付けを不思議に思ったのか、さんが微かに目を丸くする。先程の授業が眠いだなんて信じられないのかもしれない。実際、教師の会話術のせいか冒険譚のように進められる世界史の授業は眠さを感じるような内容ではなかった。言い訳としては疑う要素しか残していない。これ以上言葉を重ねて眠さをアピールしたところで嘘を取り繕うほどの効力はないはずだ。曖昧に笑って誤魔化す。それでも信じようとしてくれたのだろう。さんは小さく頷いた。
「……ありがとう」
 恐縮したかのように小さくなってしまったさんは、微かに笑みを浮かべてくれる。どさくさに紛れて旭との会話を断ち切ったというのに、咎めるような様子のない彼女に安堵の息を吐いた。
「それじゃ、行こっか」
「うん、お願いします」
 頭を揺らして応えたさんと足並みを揃え、教室からせいぜい5分程度の道を辿る。次の授業の宿題は終わったのかだとか、食堂の新作のラーメンが結構美味しかっただとか。他愛のない会話を連ねる。ただのクラスメイト相手と交わすような会話でも、さんが相手だと隣を歩いているということだけでさえひたすらに意識してしまう。
 チラリと視線を横に流す。肩口越しに見えるさんの横顔を見つめていると、胸の中心か、喉の奥かは分からないが熱を持ったような、力が自然と入るような、そんな反応がにわかに生じる。まっすぐに伸びる視線が、いつか俺に向かえばいいのにと願ってしまう。
 不意に、さんの視線が俺へと向かって転じられる。視線がかち合ったことに驚いたのは俺だけではなかった。
「わっ」
「あ、ごめん」
「ううん。……どうかしたの?」
「あ、いや」
 驚いて声を上げたさんの質問に答えることができない。まさか見とれていただなんて言えるはずもなく、歯痒いような気持ちを持て余してしまう。片手を持ち上げ、首の裏を掻く。
 ほんの少しだけ赤らんだようにも見えるさんの頬の色を、都合よく勘違いしてしまいそうになるのはここ2年のうちに染み付いた習性のようなものだった。
「ごめんな」
「え、どうしたの? 突然」
「俺、勝手なことばっかりやってるなって」
 行動に移したことも、想像の中でも、いつだって俺はさんに対しては独りよがりになってしまう。先程の件もそうだし、夏に川の中でさんを抱きしめたことも自分がしたいから起こした行動であって、彼女の許しも願いも何ひとつ聞かなかった。
「そんな。助けてもらってるのに……こっちこそ申し訳がないよ」
 眉根を寄せて真摯に俺を見上げるさんに小さく苦笑する。突然の謝罪も彼女を困らせるだけだ。
 冷静になって考えてみれば、もしかしたらさんは旭に手伝ってもらった方が嬉しかったかもしれないだなんて考えが頭をよぎる。「旭くん」と親しげに呼んだからには交流もあるのだろう。あのデカイ図体にビビらなかったことも仮定を裏付ける根拠になる。俺が割って入るまでのほんのわずかな時間だったが、ふたりの間で漂ったまどろむような空気を思い返す。スガが交流の起点になったのはきっと変わらないはずなのに、とその距離感の差を妬んでしまう。
 ――本当に、勝手だな。
 自分本位さがいやになる。本来ならば咎め立てされる前に自分を戒めたほうがいいはずだ。わかりきっているのに、目の前にさんがいると理性が効かなくなる。
「うん、でもやっぱりもう少しさんのことを考えて声をかけなきゃな、って」
 自然と肩が落ちる。考えて行動を、だなんて人として当たり前の行動なのに俺は出来ていないのか。苦笑交じりで息を吐き出すと、隣を歩くさんの指先が俺の袖口を掴んだ。
 反射的に立ち止まると、彼女もまた俺のすぐそばで立ち止まった。さんが俯いてしまっているためその表情は見えない。微かに頭を下げ、さんの表情を伺う。きゅっと寄せられた眉根が、前髪の隙間から垣間見えた。
「私、ね」
 躊躇うように言葉を途切れさせたさんは、少しの間をおいて俺を振り仰ぐ。眉根と同様に引き締められた口元にただ事ではないことを言われるのではと感じ取り、自然と背筋が伸びた。
 うん、と応えるように一つ頷いてみせると、さんもまた小さく頷き、改めて口を開いた。
「澤村君が、手伝うよ、って言ってくれて本当に嬉しかった」
「え……?」
「……ホントだよ?」
 戸惑う俺を見上げたさんはただひたすらに実直な視線を向けてくる。その視線は、今しがたの言葉が真実であるのだと口にされるよりも強く、そうなのだと思わせる力があった。
 さんを前にして、初めて手応えのようなものを感じ取った。彼女の視線が、俺の彼女への想いを肯定してくれている。いつも、俺が勝手に関わりたいからと手繰り寄せいていたものと、同質のものを返されたような気になってしまう。
 にわかに、塞ぎ込むようだった感情が解ける。
「そっか。じゃあ、これからも遠慮なく声をかけてみるよ」
「うんっ!」
 嬉しそうに笑ったさんは、親に褒められて喜ぶ子供のように力強く頷いた。
 その笑顔が、スガに向けるものよりも鮮やかなものだと思ってしまうのは、例のごとく俺の自分勝手な思い込みなのかもしれない。今だけはそれでもいいと思えた。
 そんな俺の思惑を知る由もないさんは俺の制服を摘んでいた指を離し、資料室へと向かう足取りを進めてしまう。その背中を追い、隣に並びながら考える。
 嬉しかった、と肯定されたせいで、俺の想像に拍車がかかる。これから声をかけてもいいのだと、許しを得たかのような心境に陥ると妄想に近い想像が止まらない。
 どこまで踏み込んでいいのか。たまに一緒に帰ろうだなんて誘っても許されるのだろうか。手をつないだりしても振り払われたりしないんだろうか。
 あくまでさんは手伝うことを嬉しいと言っただけだというのは理解している。だが「声をかけるとしたら」と仮定を考えただけで別ステージの希望が沸き上がってくる。服越しにあっても、さんが触れてくれたということが嬉しかったのも要因の一つだ。
 試しに今日の放課後、バレー部を見に来てくれだなんて誘ってみようか。帰り道も送るよ、だなんて今のうちに約束してしまいたい。スガも一緒になるだろうけれど、それでも流れで一緒になるよりもずっといいはずだ。
 勝手な空想ばかりが頭に浮かび続ける。ホントだよ、といったさんの耳になじみのいい声が、いつまでも離れなかった。



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