澤村 大地06

024.出会う


 ――あ、かわいいこがいる。
 部活の休憩時間。一息ついたところで、ふと、視線を外に向けると、思ったよりも外が薄暗くなっていることに気付く。時刻は17時が近い、という頃合いだが、きっと次、外を見る機会があれば、そこはすでに夜になっているのだろう。
 視線を外へと巡らせている中で、体育館の脇に見慣れない姿があることに気付いたのは、そんな時だった。
 部員でもマネージャーでもなさそうだと判断したのはひとえに彼女が制服姿のままでそこにいたからだった。まだブレザーを着慣れていない初々しい様子に、同じ1年生なのだろうか、と見当をつける。まじまじと見つめ続けるのも気が引けるが、彼女が誰かを探しているのなら声を掛けてあげた方がいいかもしれない。頼りなげな彼女の表情が、俺の庇護欲に火をつけた。
 逡巡して、誰か、彼女の知り合いはいないのかと、部員へ視線を戻しかけた瞬間だった。
?」
 傍らにいた菅原が名前を零した。菅原の知り合いか、だなんて問いかけようとしたが、タオルで汗を拭うのもそこそこに、菅原はそそくさと体育館の出入口に向かう。
「おーい、っ! どうしたー」
 菅原の呼びかけに、ひどく安心したように笑った彼女に、こっちまでなんだかホッとしてしまった。
 時折、肩を揺らしているのが見て取れる。会話が弾んでいるのが目に見えてわかる程度には、仲がいいんだろうな、だなんて漠然と感じていた。
 数分の会話の後、戻ってきた菅原に、同じ1年部員の東峰が声をかける。
「さっきの子、彼女?」
「うんにゃ、幼馴染」
 東峰の問いかけに、軽く答える菅原の言葉に、俺は奇妙な安心感を覚えた。
 ――なんだ、違うのか。
 ひとつ、息を吐き、はたと、自らに生まれた感情に気付き、驚いてしまう。
 ――……なんだって、なんだよ。
 自分で思い浮かべておきながら、その感情に戸惑ったのは、今までにない感覚だったからだ。
 チラリ、と視線を出入り口へと差し向ける。もうすでにその場に彼女はいなかった。だけど、気恥しそうに体育館の中を覗いていた彼女の姿は、鮮明に瞼にこびりついていた。

* * *

 彼女との再会は早かった。この前、見かけた時から一週間、といったところだろうか。高校も学年も同じなんだから無理もない話だ。それでも、ただ、見かけた、というだけなのにどうしてか胸が踊るような心地に陥る。
 部室棟の手前にいてもなお、体育館を気にしている様子の彼女は、恐らく、菅原を待っているのだろう。部活を終え、体育館から部室へと向かうにはこの道を通る可能性が非常に高い。ただ、菅原は同じセッターのポジションの先輩と話し込んでいたから、今はこの場にいないのだけど。
 このまま素通りしたって、彼女は何も思わないだろう。もしかしたら、もうすぐ菅原が来るだろう、だなんて見当を付け、安心するのかもしれない。それだけでは、どこか、味気ない気がして、意を決して彼女の方へと足を進める。
 たしか、菅原が彼女のことを、こう、呼んでいたはずだ。
「えっと、、ちゃん?」
 少し離れたところから声をかける。ただ、呼びかけるだけで、言葉が喉に詰まるような感覚が走ったのははじめてのことだった。
 名前を呼ばれたことに弾かれたように顔を上げた彼女は、俺の顔を目に入れた途端、燃えるように顔を赤くさせた。喋ったこともない相手に下の名前で呼ばれるなんて、普通にびっくりするよな。怖がらせるつもりも脅かすつもりもまったくなかったけれど、驚かせてしまったことを申し訳なく感じた。
 喉の奥でひとつ、咳を払い、躊躇いながらも言葉を紡ぐ。
「あのさ、菅原ならまだ体育館にいるから」
「え、えっと」
「あ、俺。菅原と同じバレー部なんだ……ってジャージ見たらわかるかもなんだけど。菅原のこと、待ってたんでしょ?」
「う……うん、そうなの。コウちゃん、まだ部活、ですか?」
「あー……いや、もうほとんど終わってるんだけど、少し先輩と話し込んでるみたいだったよ」
 目線を合わせながらも、時折、躊躇いがちに俯いてしまう彼女は、人見知りする性質なのだろうか。中学までの知り合いの女子にはいなかったタイプだ。だからこそ、こっちまでどこか変に緊張してしまう。いつになく饒舌なのは、多分、きっと、そのせいだ。
 落ち着かない。妙にそわそわしてしまう。居た堪れないような感情は、変な正義感から話しかけてしまった弊害だろうか。
「俺、ちょっと呼んでくるよ」
「え? でも、帰るところだったんだよね? 申し訳ないから…」
「いや、いいって。どうせすぐそこだし。じゃあ、俺、呼んでくるからここで待ってて」
「あ……。うんっ」
 頭を揺らして頷いた彼女は、ありがとう、と頭を下げる。肩から流れる髪のサラッとした雰囲気が、いやに胸に刺さった。妙な感覚を振り払おうと踵を返した。そのまま走って体育館へと戻ろうと足を一歩踏み出す。だけど、いざその場を離れようとしたら、後ろ髪を引かれるような思いが胸に沸き起こる。
 もう一度、彼女を振り返った。キョトン、と目を丸くした彼女と視線がかち合う。不思議そうに頭を傾けた彼女を見ていると、耳の奥が変に熱くなっていく。
「あのさ……名前、聞いてもいい?」
「え?」
「もしかしたらまた、話すこともあるかもしれないし」
 目を瞬かせた彼女が、頬に熱を集めていくのが見て取れた。多分、俺も彼女と同じような顔をしているんだろう。口元を真一文字に引き締めて、浮かび上がる感情を抑え付ける。表情に出さない分、部活を終え、収まりかけていた熱が体中に蘇ってくるのを感じ取った。
 チラリ、と俺を見上げた彼女は、緩く口元を持ち上げ、目を細めて笑った。
です」
 控えめな雰囲気の彼女らしい、小さな声だった。でもはっきりと聞き取れたのは、意識が彼女――さんに集中していたおかげだ。薄く唇を開き、浅い呼吸を繰り返す。つばをひとつ飲み込むことで、ようやく言葉を発する準備が整った。
「……、さん?」
「……はいっ」
 教師に問題を回答するよう当てられた生徒のように、元気よく応えたさんは、真っ直ぐに俺の瞳を見返した。居た堪れなさに拍車がかかる。緩みそうな口元を隠すため、握った拳の手の甲を当てた。一度視線を外し、喉元に違和感があったわけでもないのに咳払いをする。
「あ、俺、澤村大地、だから…」
 大地って呼んでもいいよ、だなんて軽口を叩けるような間柄ではない。そしてそういうことを言うような性格ではない。でも、呼んでくれたらきっと嬉しいんだろうな、だなんて身勝手にも思ってしまう。
 さんは俺を見上げ、持っていたカバンを胸元まで持ち上げて縋るように抱き寄せる。
「さ、澤村くん?」
「……はい、澤村です」
 ジャージの襟元がひどく暑い。空気を送り込んで涼んだ方がいいかもしれない。だけど部活の後だし、もしかしたら汗臭いかもしれないと思うとその行動を取ることは出来なかった。
 結果、生まれた熱をただただ、持て余すことになる。さんに向かい合っているだけで、その勢いは増すように感じていた。
「あ、じゃあ、俺、菅原呼んでくるから…待っててね」
「うん。ありがとう」
さん。それじゃ、またね」
「うん、また明日……澤村くん」
 さんの手のひらが小さく揺れた。それだけでまたしても言いようのない熱が身内にこもった。俺もまた彼女へと手を振って、体育館への道を辿る。
 その場を駆け足で去り、少しさんから離れたところで、ポツリと言葉をこぼした。
「――さすがに、ちゃん、はないだろ……」
 呟いた声は、誰にも聞こえてない。自分しか知らないからこそ、自分ひとりで処理しなければいけない。咳を払い、感情を削ぎ落としてなお、恥ずかしさだけが根強く残った。
 今になって考えてみれば、ねぇ、とか、おい、とか、曖昧に話しかけるという選択肢を取ればよかったのだろうと気付く。思いつかなかった理由は漠然と頭にある。
 菅原の「」と呼びかける声に嬉しそうに振り返る彼女を、いいな、と思った。だから、俺もそう呼んでみたくなったんだ。
 頬のむず痒さを感じながら立ち止まる。まだそんなに離れていないこの場所からなら、きっとまだ、間に合う。
 意を決して彼女を振り返る。視線が彼女を捉えると、ちょうどさんもまたこちらを振り返ったところだった。俺と目を合わせたさんは、戸惑いながらも、柔らかな笑みを浮かべた。
 その瞬間、風が荒れた。彼女の髪が靡くのを目にしていると今までに感じたことのない焦燥が身内を駆け巡る。逸る心臓は、何の合図なんだろうか。わからないままに、視線はただひたすらにさんに留まり続ける。
 春一番。強い風が俺の中へも吹き込んでくる。風に煽られ、胸の奥が燃えるように熱くなった。




error: Content is protected !!