澤村 大地07

夢では終われない未来を


 今日中にやるんだ、と目標としていた範囲の復習を終え、ひとつ息を吐いた。参考書やノートを広げた机に落としていた視線を上げれば、すでにだいぶ陽が傾いていることに気づく。
 下校時刻の迫る時間帯、図書室の中には、まばらにしか生徒の姿を見つけることはできなかった。放課後になりすぐにやってきた時は、溢れんばかりの盛況っぷりだったのに、今の閑散としたさまが嘘みたいだ。
 横目で窓の外を眺める。私にとって指定席ともなりつつある場所からは、第二体育館がよく見えた。さすがに体育館の中は覗けないけれど、音だけは間断なく聞こえてくる。いまだ鳴り止まないその音も、あと10分後の完全下校時刻になれば止むだろう。それまでに、降りてコウちゃんと合流しなければ。
 机の上の荷物をまとめ、極力音を出さないように気をつけながら席を立つ。廊下へと向かう途中で、いまだ勉強を続けるひとりとさりげなく交わった視線に会釈を返し、そっと図書室から退出した。
 誰もいない廊下を足早に立ち去り、靴を履き変えて体育館へと足を向ける。秋も深まってきた頃合い。夏と比べてだいぶ、暗くなるのが早くなった。虫の音の奥に聞こえていたバレー部の躍動する音が次第に薄れ、やがて聞こえなくなる。練習が終わったのだと知るにはそれで十分だった。
 体育館と教室棟をつなぐ渡り廊下にたどりついた私は、真ん中あたりにある腰の高さくらいまである壁に背中を預ける。夜の闇の中に、一箇所だけ煌々と光が差す。開け放たれた体育館のドアの奥に、掃除をする部員の姿がちらほらと目に入る。その中にはコウちゃんや旭くん、そして澤村くんの姿も時折目に飛び込んできた。
 小さく息を吐き、そういえば今日はまだお母さんに、帰宅報告をしていなかったと思い出す。カバンの中から携帯を取り出し、もうすぐ帰るよ、とメッセージを作成していると、不意に声をかけられた。
ちゃん?」
 短い呼びかけに顔を上げると、声の雰囲気から想定したとおりの人物の姿が目に入った。暗い中で黒のジャージを着てもなお、映える黒髪が、肩の上で綺麗に靡く。
「潔子ちゃん。おつかれさま」
 カバンに携帯をしまい込みながら、あずけていた背中を起こす。ドリンクケースのたくさん入ったかごを抱えた潔子ちゃんがこちらへと歩み寄ってくるのを見守った。
「まだ残ってたの? 勉強もほどほどにしないと帰りが遅くなったら心配されるわよ」
「大丈夫だよ。お母さんもコウちゃんと一緒に帰るって知ってるから」
「そう、ならいいんだけど。菅原ならまだ掃除してるから……もう少し時間がかかりそうだけど、平気?」
「うん、いつものことだから大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
「一応、菅原には伝えておくから」
「いいよー。コウちゃん待つの慣れっ子だから」
 ぶんぶんと頭を横に振ると、潔子ちゃんは、そう?と首を傾げた。これ以上引き止めるのも悪い気がして、うん、とひとつ強く頷いて返し、そのまま手を振って別れた。
 気を取り直して、お母さんとのメッセージのやり取りを続けていると、体育館の中からひときわ大きな声が聞こえてきた。その声に、視線を差し向ければ、ぞろぞろと体育館の中からバレー部員が列をなして出てくるのが見えた。どうやら先程の声は、部活終了の合図だったらしい。
 ひときわ元気の良さそうな様子で体育館から出てきた坊主頭のあの子は確か、田中くんだ。前にコウちゃんが彼の頭でラップの真似事をしている動画を旭くんから見せてもらったことがある。やりたい放題にやっていたコウちゃんは楽しそうだったけれど、彼は困惑しきりの表情だった。
 謝ったりした方がいいのかな。でも一応先輩って立場だし、話したこともないから逆に気を使わせちゃいそうだな。悶々とした気持ちのまま彼の様子を眺めていると、私の視線に気づいたらしい田中くんはこちらを振り返った。目が合ってなにも反応を返さないのも変だと思い、会釈をしてみせると彼は妙に甲高い叫びを残して部室棟へと立ち去っていってしまった。
「田中! 変な声を出すなっ!」
 唐突に体育館から怒鳴り声が響いた。部室棟までの空間を切り裂くような叫び声に、驚いて目を丸くして固まってしまう。ドアの縁を掴み、走り去った田中くんの背中をキツイ視線で睨んでいるのは、他でもない澤村くんだった。教室の中では割と穏やかな様子を見せる澤村くんの意外な一面を目の当たりにして、丸くなった目を更に丸めてしまう。
 手のかかる子が多い、と嘆いていたコウちゃんの言葉を思い返す。それは勝手に入部したばかりの1年生に限った事なのかと思っていたが、まさか2年生になる田中くんまでもその対象だったなんて。だが記憶を巡らせれば田中くん、そして西谷くんの名前は3年生になってからもよく耳にしていた。そのほとんどが溜息混じりのものだったことを思えば今の状況も致し方ないのだろう。大声を出して、嗜める。そのくらいのことをしないと引き締まるものも引き締められないのかもしれない。
 唸るように田中くんの背中を睨み据える澤村くんに、そっと近づく。躊躇いがちながらも、声をかけてみた。
「おつかれさま、澤村君」
「あぁ……さんか」
 差し向けられた鋭い視線に思わず怯んでしまう。田中くんを睨んでいた名残とは言え、その迫力は思わず背を震わせてしまうほどだった。
 だが、その表情は私と視線があったところで緩まない。澤村くんの顔つきの奥底にある闘志に気付けば、自然と手のひらを握りこぶしに変えていた。田中くんに対する怒りとも、部活に疲れている顔とはまた違う。精悍な顔つきは、バレーに真摯に向かっていたからこそ生まれる表情だった。
 そのことに気付くと同時に、また心の底に怯えが生まれる。思えば私は、今まで優しいクラスメイトの澤村くんしか知らなかったのだ。コウちゃんを盾にして、守られた場所から、戦う澤村くんを見つめ続けた。部活を終えたばかりというのも理由に含まれているのだろう。怖いほどに真剣な顔をした澤村君に、言葉が出なくなる。
 声をかけられなくて、まごついていると、不思議そうに澤村くんは首を傾げた。
「どうしたの? 心配事?」
 ほんの少しだけ、表情を緩めようとしたのだろう。澤村くんの表情がぎこちなく歪む。その顔はやはり教室で見るものとは種類が違っていた。ううん、と首を横に振って、曖昧に返事を返すことで精一杯だった。
「ちょっとだけ、考えたの」
「……ん?」
「鬼気迫る、ってこういうことなのかなって」
 辞書を引き、知識として知っている言葉だ。だがいくら知っている言葉とは言え、目の当たりにした時に動じずにいられるわけではないらしい。私の言葉に、自分の顔に手のひらを当てた澤村くんは自虐的な笑みを浮かべた。
「ごめん、怖い顔してたよな」
「ううん、仕方ないよ。……県予選、もうすぐだもんね」
「あぁ……」
「練習も…力、入っちゃうよね」
「うん。……今までにないくらい本気だよ」
 静かに私の言葉に応える澤村くんに、私も曖昧な笑みしか返すことができなかった。真剣に向き合っている人に、かけられる言葉は少ない。頑張って、という言葉は、頑張っているのが目に見えてわかる人には不要だ。絶対勝てるよ、だなんて無責任なことも言えなければ、無理をしないで、だなんて水を差すような言葉はもっと言えない。
 私では澤村くんの力になれそうにない。歯痒くてつい、カバンを持つ手に力が入る。目線を合わせていられなくて、視線を落としてしまう。唇を引き締めて、なにかかけられる言葉はないかと逡巡していると、不意に空気を吐き出す音が耳に飛び込んできた。
「ね、さん」
 短い呼びかけに面をあげると、眉根を寄せ、困ったような顔をした澤村くんの表情が目に入る。憂いのある表情は見慣れていなくて、胸の奥が掴まれたような感覚が走る。
「ひとつ、お願いがあるんだけどさ……頑張れ、って言ってくれないかな」
「え、でも……澤村くんは充分、頑張ってるじゃない」
「そうなんだけど……俺、さんに言ってもらえたらどこまでも頑張れる気がするんだ。――ほかの、誰に言われるよりも」
 言葉と同様に真っ直ぐな視線が降り注ぐ。先程のトゲのある強さではないものの、双眸から伝わる真剣さに息を呑んだ。夜のせいか、その瞳がやたらと綺麗に光っていた。
「頑張って……澤村くん」
「……うん」
 小さく頷いた澤村くんは黙って目を伏せる。澤村くんの迫力に負けて、まるでうわ言のような声しか出なかった。一言では伝えきれなかった言葉が、澤村くんに届いた気がしない。やり直したい。思った途端、言葉が飛び出していた。
「本当に、頑張って……言葉でしか伝えられないのが歯がゆいけれど……心から、応援してるよ」
 心なしか声が震えた気がした。真剣さに挑むには同じ強さを持たなければいけない。私にはその強さを出す根拠も自信もない。ただひとつ、澤村くんのことを応援する気持ち。それだけで立ち向かうにはひどく勇気が必要だった。だけど、勇気を奮うことはいやじゃなかった。澤村くんに頼まれたから言っただけと誤解されるくらいなら、いくらでもそんなもの差し出せた。
 伏せていた顔を上げた澤村くんは私に面食らったような視線を投げかけ、そして微かに目元を和らげた。
「……ありがとう」
 言って、澤村くんは両手のひらで自分の頬を挟み、そのままパシっと大きく叩いた。突然の行動に目を丸くしてしまう。
「――よし、気合入った」
 先程、ほんの少しだけ緩んだ目元を引き締めた澤村くんはぽつりと言葉をこぼす。だけどその真剣さも、今では怖いと感じなかった。痛みにより赤くなった頬を目に焼き付ける。これはきっと、これから澤村くんが試合に挑むことへの誓いなんだろう。
「ありがとう、さん。俺、絶対に負けないから」
「うんっ!」
 力強い言葉に触発され、私の声もまた自然と大きくなった。今度は澤村くんはちゃんと笑ってくれた。
 ――負けないで。
 心の中でひとつ、呟いた。その声は届かない。ただ、口元を緩めて笑いかけることで私の気持ちを伝える。私に目線を合わせた澤村くんの手のひらがこちらに伸びる。左頬にかすかに触れた手のひらを落ち着いた気持ちで受け入れた。




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