澤村 大地08

スタートラインまでもう少し


 昼休み。部室棟の影に男女がふたり。緊張した面持ちで対面している。ただその姿を見ただけで、告白の場面だ、と気付くのにそう時間はかからなかった。
 確信したのは、声だった。聞き覚えのあるその男の声はよく通り、ハキハキとした喋り方は自分に自信のある証のようだった。
「前からかわいいなって思ってたんだ! だから、今度……えっと、俺と付き合って欲しい!」
 大声というわけではない。だが力の入った声だった。理由と結論。相手に向かってはっきりと想いを告げたこの声は、たしか隣のクラスのサッカー部のやつのものだ。同じクラスの女子が、かっこいいだとか試合に応援行きたいだとかで騒いでいたから、なんとなく覚えていた。
 もうすぐ入学して初めての夏休みがやってくる。それを目前に、彼女を作っておきたいという心境はわからなくもない。そういう類の話はよく耳にしていたし、同じ男子高校生として、彼女がいたら楽しいのかもしれない、だなんて憧れは胸にあった。
 だが、そんな場面に出くわしてもなお、その身の置き所に自分を当てはめることができない。こういうのって本当にあるんだな、だなんて遠い世界の話のように感じる。バレー馬鹿とまでは言わないが、今はまだ、そういうことを考える頭になっていなかった。
 ――さて、これからどうしようか。
 元々ここに来たのは、昨夜、部室に今日の午後から使う教科書をうっかり忘れてきてしまったからだった。別クラスの菅原たちと着替えながら授業の進み具合を確認した際に棚に置き去りにしてしまった記憶がある。だが、その部室棟に行くためには、ふたりが話している場所を通らなければならない。どうしたものかと逡巡したものの、解決策は見つからず、結果、盗み聞きのような状態で足を留めることしかできなかった。
 極力、耳に入れないように注意しよう。ほかの事でも考えていたら意識は外れるはずだ。バレーのことや、近くにある食堂のラーメンが美味しかったこととか思い出していればどうにかなる。
 目を閉じ、近くの水飲み場に寄りかかって雑念とも言える思考を頭に思い浮かべる。だが、意識から外そうとすればするほど、益々彼らの会話に意識が傾いてしまった。
「あの、」
 熱弁を振るう男の声に紛れて、控えめな声が耳に入る。その声に、反射的に意識のすべてがその声に縛られる。今のは、菅原の幼馴染の、さんの声だ。
 彼女と会話したことは数える程度しかない。だがその少ない交流の中でも彼女の声は耳に残っていた。相手がさんだと気付くと同時に妙な緊張感が身内に生まれる。ただ単に知っている相手だ、というのが理由なのかもしれない。だが、それを除いても、嫌な感覚が肺を圧迫するように感じた。
 ――もしかして、付きあってしまうんだろうか。
 そのことを考えた瞬間、指先が冷たくなった。緊張と焦燥。そのどちらともが、体中を駆け巡る。
「あ、ごめんな。一方的に……でも、こうでもしないとさんに関われないから」
 はっきりと〝さん〟と聞こえたことで、絶望に似た想いが胸の内に沸き起こる。疑念が消え去った今、彼らの会話を盗み聞きしないという選択肢がなくなった。息を殺して、次に彼女が紡ぐであろう言葉を待つ。
「あの、ね……えっと」
「……うん」
「…ごめん、なさい。知らない人についていかないって……コウちゃんと約束してるから……」
「あ……そ、そっか……。やっぱり、菅原か」
 言葉の意味を深く吟味するよりも早く、コウちゃんという名前に男は怯んだようだった。俺もまた、少なからずその名前に動揺してしまう。さんの言葉から、付き合う、という意味を誤解した節があるようだったが、気付いたところで彼がそれを追求することはないだろう。
 困ったときに、逃げ口に菅原の名前を使うさんにとって、菅原は唯一、心の底から頼れる男なんだろう。ほかの男では入れない絆がそこにある。まざまざと見せつけられた信頼は、どんな断り文句よりも鋭利だ。
 気まずい沈黙もそこそこに、ごめんな、と一言残して男は去っていった。自然と肩に入っていた力を抜き、噛み付いていた下唇を解放する。俺が告白してフラれたわけでもないのに、なんだかこっちまで気分が滅入るようだった。
 後頭部を手のひらで撫で付け、雑念を追い払う。胸に落ちた暗い影を溜息を吐くことで追い出した。気持ちを切り替えたことに、よし、と胸の内でひとつこぼし、身を潜めていた場所から飛び出した。
さん」
「……さ、澤村くん!」
 突然、顔を見せた俺に、さんは目を白黒させて戸惑う様子を見せる。
「あ、あの…もしかして、今」
「うん……ごめん、聞いてた」
「……そ、そっか」
「あ、でも安心して。話している内容はほとんど聞こえてなかったから」
 俺の言葉に安堵したようにさんは息を吐いた。その表情の変化に、確信する。さんは先程の告白の意味をきちんと間違えずに受け止めているんだ。その上で、あえて菅原の名前を出してはぐらかしたらしい。
 そんなことをした理由はわからない。もしかしたら菅原からそう断るようにと教えられているのかもしれないし、言葉を濁すことで直接、彼を拒絶することを避けたのかもしれない。憶測でしか語ることのできない想像を、頭を横に振るうことで払い落とす。
 じっと俺を見上げるさんの瞳を見返す。照れたように染まる頬は、先程の空気の名残なんだろうか。そう考えた途端、胸の奥がチリっと痛む。先程、さんはほかの男からの交際の申込を跳ね除けた。そのことがどうしてか気になってしまう。
「ねぇ、さんはさ、彼氏とか……作る気、ないの?」
「え……?」
「あ、ごめん。急に……」
 気になるがままに、思わず直球を投げ込んでいた。クラスも違う、ただ数度話をしたことがあるだけの男にここまで踏み込んだ質問をされるとは考えてもいなかったのだろう。数度、目を瞬かせたさんは、それでも衝撃をやり過ごせないようで、口元をポカンと開けて俺を見上げていた。その視線を受け止めかねた俺は、手のひらを彼女に向けることで”待った”をかける。
「ホント、ごめん」
「ううん……私こそ、少しびっくりしちゃって……」
「……だよね。ただ、ちょっと……気になったんだ。さっきのやつがダメなのか、そもそもさんが付き合うつもりがないのか……ってね」
 さんから視線を外し、地面に視線を落としながら、投げかけた質問を取り下げる意思がないことを改めて伝えた。喉の奥に力をいれ、漏れ出そうな溜息を押し殺す。
 俺はまだ、色恋沙汰に興味がないはずだった。好きな女子もいないし、誰かと付き合うことなんて考えられない。だけど、さんが告白されている現場を目の当たりにして、指をくわえて見ていることができなかった。彼女の向かいに立つ男は、誰が相手でも――例え、菅原が相手でも――納得は出来そうもない。
 小さく、息を吐き出し、伏せていた視線をさんへ差し向ける。俺と視線を合わせたさんが、胸の前で組んだ指先に力を込めたのが視界の端に入った。
「……その、よくわからなくて。恋愛とか、まだ……そういうこと」
 躊躇いがちに言葉を紡いださんは俺から視線を外す。顔を赤くしたさんはこういう会話に慣れていないのか、顔の前で手のひらで仰いで熱を冷まそうとする。彼女の言葉が真実ならば、菅原のことを引き合いに出したのも、牽制のつもりなどなかったんだろう。
 ひとまず、興味がない、ということでいいんだろうか。結論が頭に浮かび上がると、先程まで胸の内にあった焦燥がほどけていく。
「そっか……じゃあ、俺と一緒だ」
「澤村くんも……そうなの?」
「ああ、一緒一緒。俺も全然わかんないんだ。そういうの」
 あっけらかんとした態度でそう告げると、さんは小さく笑った。その表情には同士が見つかって安心した、という気持ちがありありと書かれていた。
 ――やっぱり、かわいいな。
 初めて、さんを見かけたときの印象が不意に蘇ってくる。目元に走る熱に、思わず口元がほころんだ。
 恋愛は、よくわからない。やっぱり自分がしたいとも思わない。だけど、さんとは仲良くなりたいと感じている。今、わかることはそれだけだ。俺は、それだけでいい。
「たださ、俺も、さんのことあまり知らないから……もっと、知りたいって思うよ」
「そうなの?」
 きょとんとした顔で俺を見上げるさんに思わず苦笑してしまう。子供のような純粋な目で聞き返す彼女に、遠まわしな言い方は通用しなさそうだ。
「そうだよ。だから、これから少しずつ、見かけたときは話しかけてもいいかな」
「うん! 私も、澤村くんと、話……してみたい」
 思わぬ返しに、ぐっと喉の奥が詰まった。俺自身が、つい先程、さんに向けてストレートな言葉をぶつけたのに、まさか彼女の方から直球を投げ込んでくるとは考えてもいなかった。
 だけど、その言葉は俺にとってひどく勇気づけられるものだった。拒絶されなかったことが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。初めて会ったとき「また、喋るかもしれない」だなんて曖昧に紡いだ言葉が、今、約束に変わる。
「いつか、これ以上ないほどに仲良くなったらさ。その時は、選んでね」
 俺の言葉を受け止めかねたのか、不思議そうな表情を浮かべたさんだったけど、提案は悪くなかったらしい。うん、とひとつ頷いたさんに、俺もまた笑い返した。



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