澤村 大地09

大晦日


 今年も残すところわずか半日。大晦日と言っても、やるべきことは普段とさほど変わらない。大掃除は冬休みに入って手の空いた時にこまめにやっていたし、今年に限っては受験という大舞台が控えていることもあり母親の言いつけも随分減った。
 ――まぁ、俺にとってはその前の春高の方がこれ以上無いほど大事なんだけどな。
 窓や網戸を掃除したくらいで風邪を引くとは思えないが、せっかく大事にするよう気遣われているのだからその好意には甘えた方が良いだろう。

 * * * 

 一時間ほど、集中して問題集へと向かい合った頃合い。ひとつの難問を解き終えたことで、自然と詰めていた息を大きく吐き出した。
 首を左右に傾け凝りをほぐしながら、椅子の上で正座していた足を投げ出し背を反らす。体の調子を整えながら、机の隅に追いやっていた携帯電話を手に取った。
 受信メールを順番に読み、それぞれに返信をする。明日行く予定の初詣の待ち合わせ時間を詰める連絡はスガから何通か立て続けに入っているのを目にし、旭や清水にも密に連絡を取っているさまが窺い知れた。
 午前中の早い時間を指定したスガに、「了解」の返事を打ち込み、手を止める。右手でディスプレイを眺めながらノートを広げた机のうえに頬杖をつく。頭にあるのは、先程まで解いていた数式の答えなんかじゃない。
 バレー部の必勝祈願を兼ねた初詣だとは理解している。だけど、そこにさんを誘えないだろうか――。
 チラついた考えを、言葉にするかどうか逡巡する。何かと理由をつけて会いたいと想うのは、抑えようと思って抑えられるものではない。この2年で身に染みるほどに理解している葛藤を抱えたまま、スガへの返事を返せないでいた。
 ――今頃、きっと、さんも頑張っているんだろうな。
 三年になってすぐくらいからだろうか。さんは、放課後に加えて朝の5時には学校の図書室に着いて勉強するようになった。真面目なさんのことだ。場所を家に移しても、時間を違えても、習慣は今も続いていることだろう。
 緩やかな笑みを思いだし、胸の内を暖めたのもつかの間だった。どうしてそんな早くから? と問いかけた際に、スガに触発されたのだと笑ったさんを思い出して唇を結ぶ。
 当の本人であるスガからも「俺たちはただの幼馴染みだから気にせずアタックしろ」と背中を押されたところで逐一気にしては勝手に負けた気になる自分が女々しくて嫌になる。自信が無いと言うよりも、スガの隣で笑うさんが、あまりにも自然で、ほかの奴らが思うように「お似合いだ」と思ってしまうのだ。
 ――それでも、結構しゃべれるようになったんだよな。
 一年のころと比べれば、全然マシだ。スガの背中に隠れたさんと、今では向かい合ってしゃべれるようになった。積み重ねた接点を、またひとつ繋ぐために勇気を奮い立たせる。
 バレー部ではないにしろ、さんはそもそもスガの幼馴染みだし、清水も女の子ひとりより気楽になるはずだ。御為ごかしで下心を隠しながら、メールを送信した。
 あわよくば、を必要以上に孕んだものだとスガは気づいたことだろう。
 ひとつ、息を吐く。それと同時に、肩の力を抜くよりも早くメールの受信を告げる音が鳴り響いた。あまりの早さに心臓が飛び出すような心地に陥りながらも、すばやく携帯電話を操作する。抱いた期待が叶うのかどうか。試合前の高揚とはまた種類の違う鳴動を感じながらメールを開く。
 だが、スガから返ってきた返事はいつになく素っ気ないものだった。
「それは無理だわ」
 端的な文脈は、さんを誘ってはどうかという俺の問いかけに対する答えだ。どうして? と尋ねるより早く、答えを得ることになる。
、昨日から風邪引いてんだ」
 やけに軽い調子で応えたスガに、俺は誰にも届かないというのに「は?!」と、大声で叫んでしまった。
 反射的な声を抑えるべく口元を手で押さえつける。首を竦めながら背後を窺ったが、母親が様子を見に来ることはないようだと確信し、絞り出すように息を吐き出した。
 改めて携帯電話へと向き直ったが、スガからのメールの内容が変わるはずがない。さんが風邪を引いた。その事実を突きつけられると、一緒に初詣に行けないかなどと浮かれていた自分が途端に恥ずかしくなる。
 知りようがなかったとは言え、後悔が呻き声となって喉奥から這い出てくる。大仰な溜息と共に押し出したいたたまれなさを振り払い、背を起こす。
 ひとまず、さんに連絡を取りたい。衝動に駆られるままに携帯電話を操作し、新しくメールを開く。
「スガから聞いたんだけど、風邪ひいたんだって?」
 お見舞いに――そこまで打ち込んだ後、慌ててクリアボタンを5回押した。逸る気持ちはすぐにさんの元へと向かおうとする。だが、風邪を引いた彼女の元へと俺がいったところで、かえって気を遣わせてしまう予感しかない。
 こういうとき、俺がスガの立場だったなら簡単に会いに行けたのにな、とうらやましく思う。
 ゆっくり休んで、という毒にも薬にもならない言葉で締めくくり、送信ボタンを押す。ふと、時計に目をやれば思ったよりも長く休憩を取ってしまっていることに気がついた。さんへのもメールを整えるのは、数学の問題を解くよりも手強かったのだと思い返す。
 正解のないやりとりは、いつも踏み込みすぎてはしないかと不安になる。だけど、まったく興味が無いのだと思われるのもまた釈然としない。結果、普通のクラスメイトに接するよりも、幾分も踏み込んでしまう。
 熱のこもる頬を手のひらで叩き、緩んだ感情を引き締める。改めて勉強机に向かい、開きっぱなしだったノートにシャーペンを滑らせる。
 だが、送ったばかりのメールが気がかりで、休憩する前よりも全然集中出来てない自分に嫌でも気付かされる。
 後頭部に手のひらを押しつけ、頭をかき乱し、そのまま置いたばかりの携帯電話へと手を伸ばす。通常、勉強をするときには音を切っている設定をバイブモードへと切り替える。そうすれば、少なくとも音が鳴るまでは集中出来るはずだ。
「よし! 平常心っ」
 誰に伝えるでもなく、自分への戒めとして言葉を発した。


 * * * 


 落ち着かない感覚を見ないふりをして、問題集へと向き直る。二問ほど、解いた頃合いだろうか。不意に、携帯電話が震えた。
 だが、メールであれば3度ほどで終える鳴動がひっきりなしに続く。首を伸ばし、ディスプレイを覗き込んでみれば、そこには「 」と表示されていた。
 慌てて携帯電話を手に取り、スライドさせる。耳に押し当てると程なくして落ち着いた声が聞こえてきた。
「……澤村くん?」
 教室で聞くよりも幾分か掠れた声は、スガの言うとおり、さんが本調子ではないと言うことを知らしめる。ぐっ、と喉の奥に詰まるような感情を飲み下し、緊張でかさついた唇を内側に挟み込むことで湿らせた。
「はい、澤村です」
「さっきはメールありがとう。ごめんね、いきなり電話しちゃって。今、話しても大丈夫かな?」
「あぁ。今、俺、部屋にひとりだし気にしなくてもいいよ」
 耳元に直接注ぎ込まれるさんの声に、にわかに緊張してしまう。携帯電話を握る手がじわりと汗ばんだ。体のうちから生まれる熱は、ヒーターから浴びせられる熱よりも、ずっと熱い。
「それより、さんの方こそ大丈夫? スガから風邪だって聞いたんだけど」
「うん、熱はもうほとんど下がったし、後はちょっと喉が痛いくらいだから平気だよ」
「そっか。明日、スガたちと初詣行くん予定だったからさ、さんもどうかなって思ってたんだけど、治りかけが一番肝心だから誘っちゃまずいよな」
「うん。コウちゃんにも誘われたんだけど、ごめんね、明日は行けないや」
 少しだけ声のトーンを落としたさんが、本当に残念がっているように思えてならない。迂闊に誘い言葉なんて差し出すべきじゃなかった。じくりと胸を痛める後悔をさんに見せてはいけない。表に出さないように押さえつけ、空元気を装う。
「あ、ごめんな。いきなり話を遮って。急に電話なんて、珍しいよな。どうかした?」
 火照る頬を冷えた手の甲を押しつけることで誤魔化しながら、さんの用件を促すと、さんはためらいがちに言葉を紡ぎ始めた。
「あの、ね。コウちゃんに聞いたんだ」
「うん」
「その、今日、澤村くんのお誕生日だって」
「――え?」
 情けない声が出た。さんの言葉を反芻するよりも早く、彼女の追撃が遅いかかる。
「お誕生日、おめでとう。澤村くん」
 さんの風邪が心配だ。その一心で、頭の中がいっぱいだったせいか、自分が今日、誕生日だと言うことがスコンと頭の中から抜け落ちていた。大晦日に誕生日だなんて、普段なら忘れもしないし、母親からもおざなりではあるがおめでとうの言葉はすでにもらっていた。
 だが、さんから不意に差し出された言葉に、にわかに反応が出来ない。
 ――格別だ。
 うれしい、という気持ちを受け入れるだけで手一杯になってしまう。
「あ、あぁ。うん――ありがとう……」
 あっけにとられたような声は、自然と噛みしめるよう声に移り変わる。先程までも十分感じていたはずの熱がさらに膨れ上がった。もう、手の甲なんかじゃ抑えることは出来ないだろう。
「年明けて、また学校で会った時にちゃんとお祝いさせてね」
「うん。……ありがとう」
 試合に勝ったとき、喜びは自然と体に表れる。それはガッツポーズを取ることだったり、叫んだり、飛び跳ねたりと多岐にわたった。
 でも、さんの言葉への反応は違った。思いがけない僥倖は、両の手のひらで掬っても足りない。衝動で発散するよりも、体中にじわりと広がる熱をただひたすらに覚えていたかった。
「あと、その前に春高も応援に行くから! 全部、見たいから絶対に風邪、治すね!」
「あぁ、俺も、さんに応援してもらえたら、絶対、最後まで頑張れるって確信してるよ」
「――頑張ってね、澤村くん」
 前に俺がさんに一度だけお願いしたことがある。「頑張れって言ってほしい」と。それを伝えて以来、さんは折に触れて俺へその言葉を差し出してくれた。
「ありがとう――気合い、入った」
 返す言葉もまた、いつものものだ。何回言われても、本当に気合いが入る。
 年が明けたら祝うとさんは言ってくれた。そして、それよりもまずは、春高だとも――。
 緩んでいたわけじゃない。だけどさんに背中を押されると気持ちが途端に引き締まる。
「頑張るよ。俺、最後の冬を一番長く戦うんだって決めてるから」
 スガや旭、清水とも、一緒にやれるのはこの大会が最後だ。胸の内にあった決心を口にすると、胸の奥にまた違った種類の熱が膨れ上がるのを感じた。




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