清水 潔子01:夏陰

夏陰


「清水さん?」

 体育館の脇にある給水器でドリンクの準備をしていると、不意に背後から声を掛けられる。容器の中に落としていた視線を後方へと転じれば、同じクラスの君が立っていた。

「あ、君」
「こんにちは、今日も暑いね」

 折り目正しい挨拶に、「そうだね」とひとつ頷いて返す。視線が合うとやわらかく口元を緩める君は、額から汗を流していてもなお爽やかな印象をこちらに与えた。
 私と同じく、君もまた部活中なのだろう。真っ白なユニフォームと長袖の黒いインナー。一目で彼が野球部だと判別がつく服装に身を包んだ君はインナーの襟元に指先を引っかけて空気を送り込みはじめた。
 言葉通りに随分と暑そうな様子を見せる君が、帽子を脱ぎがてら額に流れる汗を拭う。そんなに汗をかいてどうしたんだろう。気になって尋ねてみればランニングの途中なのだと君は言った。

「走ってばかりじゃバテちゃうから。ちょっとは涼まないとね」

 袖口では追いつかなくなったのだろう。首に掛けたタオルで汗を拭い始めた君は軽い足取りでこちらへと歩み寄ってくる。給水器の隣にある手洗い場の前に立った君は、こちらへとくるりと顔を向けると口の端を引っ張ったようにニッと笑った。

「こっち、使ってもいい?」
「どうぞ」
「うん、ありがとう」

 頭を揺らした君は水道の蛇口を捻り、手を水に浸すと手のひらで水を掬い始めた。十分な量の水を手にした君はそのまま丁寧に顔を洗う。同じ所作を二度、三度と繰り返す君を、ドリンク用の水の貯まり具合確認しながら横目で眺める。
 腰を曲げて顔を洗う君は東峰よりも背が高い。そんな君の頭が自分よりも下にあることが珍しいというのもある。だが、それ以上に見慣れた風景との違いが気になった。田中や日向たちが水道を前にした際、「暑っちぃ!」と叫びながら一思いに頭を突っ込む姿ばかりを見ていたせいだろうか。君の所作がなんだか物珍しくて思わず見守ってしまう。
 落ちてくる視線を感じ取ったのか、顔を洗う手を止めたが体勢は変えないままこちらを振り仰ぐ。

「なぁに? どうしたの」
「……いいの? こんなところで足を止めて」
「エースですので。その辺りの配分は任されているんだよ」

 ふふ、と誇らしげに笑った君は最後にもう一度、と顔を洗うと蛇口を捻って水を止めた。背筋をまっすぐに伸ばし、タオルで顔を拭い始めた君はやはり背が高い。軽く見上げたつもりだったのに、首の後ろが鈍く痛み始めたのがその証拠だった。

「あー。さっぱりした! 顔を洗うだけでも結構違うね」
「だね。さっきと顔つきが全然違う」
「生き返ったみたい?」
「……みたい」

 その返事は「さっきまで君は死んだ顔をしていた」と言っているようなものだ。そうと知りつつもいたずらめいた気持ちで同意してみせると、君は眉尻を下げて笑った。

「バレー部も暑そうだよね」
「そうね。体育館の中も、小窓しか開けられないから、日陰の恩恵はあまり無いかもしれない」
「はは。サウナっぽくなっちゃうのかな」

 君の言葉にこくりと頷く。
 ボールが飛んでいきそうな扉は閉めてしまうから空気の流れはお世辞にも良いとは言えない。夏場は君の言う通りサウナのようになってしまうし、冬場は気温こそ冷え込むが選手から発せられる熱に充てられることも多々あった。
 それでも体育館に籠る独特な熱気を決して嫌いになることはない。それだけは確かだった。

「あ、清水さん」
「うん?」
「汗、ついてる」

 不意にくんの指先がこちらに伸びる。そのまま拭われるのかと思い反射的に身体を硬くさせる。だが接触に身構えたものの、額を掠めた感触は思った以上にサラリとしたものだった。
 どうして、と目線を上げてみれば、君は首にかけていたタオルとは別のものを手にしていた。タオル地のハンカチはそのまま君のおしりのポケットへと納められる。
 一連の動きを目で追っていることに気づいたのだろう。君は私と視線を合わせると目を丸くして手のひらをおしりの上で跳ねさせた。

「あ、こっちは今日まだ使ってない方だから。汚くないからね」
「えぇ、そうなの……」

 弁明の言葉に今度はこちらが目を丸くする番だった。元々君は、他人に勝手に触れるようなひとではないと思っていたが、まさかそこまで気を回してくれるとは。常々思っていたけれど、やはり君は丁寧なところがあると感心してしまう。
 特に気にしてない旨を伝えるべく頭を横に振ってみせると、君は胸をなで下ろすようにホッと息を吐く。改めて背筋を伸ばした君は、私から視線を外すとそのまま空を仰いだ。

「それにしてももう夏だね……いいなぁ」
「夏が好きなの?」
「うん。それに野球部は夏が本番だからね」

 手の甲を目の上に押し付けたまま青空を眺める君の表情は明るい。待ち望んだ夏がもう目の前にあることに歓喜しているのだと横顔が雄弁に語っていた。

君は……甲子園、目指しているの?」
「うん」

 ふと、頭をよぎった質問は、深く考えるよりも先に唇が紡いでいた。唐突な私の問いかけに対し、必要以上に意気込むでもなく、畏れ多いと縮こまることなく。あまりにも呆気なく、君は頭を揺らした。自然体な姿に、彼が甲子園を目指すことが当たり前のものだと認識しているのだと強く印象に残る。

「そっか……」

 ポロリと口からこぼれた言葉をつなげられないまま君の横顔を見上げる。気負いのない様子に、なんと伝えていいか判断に迷ってしまう。目標を耳にしてもなお「頑張れ」と口にするのが憚られる。頑張っているひとに対して外野から差し出す相応しい言葉が思い浮かばず口ごもってしまった。
 言い淀む私を軽く振り返った君は、ゆるりと目元を和らげて口を開く。

「頑張るよ」
「え?」

 不意に紡がれた言葉に思わず目を丸くしてしまう。見上げた君はいつものように穏やかな笑みを携えて私を見下ろしていた。言葉にしていない気持ちが伝わることなんて、無いと思っていた。だけど今、君は私が口にできない想いを事も無げに拾い上げてみせた。
 驚いて見上げる私と視線を合わせた君は、やわらかな空気を一変させていたずらっ子のようにニッと歯を見せて笑う。 

「潔子を甲子園に連れてって、なんて言ってくれたらもっと頑張れるけれどね」
「言えない。君の目標はそんな冷やかしで臨んではいけないことでしょう?」

 茶化すような言い回しにきゅっと眉根を寄せて応じてしまう。かわいくない言い方になってしまったけれど、ほかでもない君が自分自身の目標をふざけた言葉にするのを良しとすることは出来なかった。

「……そうだね」

 真意が伝わったのだろう。怒るでもなく軽く顔を俯かせた君はふふっと笑うとこちらから視線を外した。先程と同じように空を仰いだ君は組んだ両手のひらを前に押し出したあと、ぐっと背筋を伸ばすように上へと持ち上げる。

「さーてと……清水さんに喝を入れてもらえたし俺もそろそろ戻ろうかな。怖ァい一年坊も待ってるだろうし」
「一年生?」
「そ。練習熱心なのはいいけどあそこまでいくともう妖怪だよ。妖怪球投げさせ」

 頭上に掲げた手のひらを離しながらゆっくりと腕を下ろした君はわざとらしく肩をすくめて後輩への文句を口にした。べっと舌を出しておどける君に思わずふふっと笑ってしまう。

「うちにも似たような子がいる」

 日向と影山を思い浮かべながら口にすれば、君は肩を揺らして笑った。

「はは。今年の一年は活きがいいのかな」
「かもしれないね」

 果たして活きがいいという言葉で済む問題なのか。妖怪とまでは言わないけれど正しく〝バレー馬鹿〟と呼ぶのに相応しいふたりの勢いは傍目から見ているだけでも圧されてしまう。だけどそんなふたりを筆頭に、今の烏野排球部は勢いよく突き進んでいる。それを見ているからこそ、君の後輩である〝妖怪玉投げさせ〟君も悪くない影響を与えているはずだと信じられた。

「おっと……また話し込んじゃうところだった。それ、体育館に持ってくの手伝った方がいい?」
「ううん。いつものことだから大丈夫」
「オッケー。俺もそっちの二年生たちに〝うちのマネージャーに手を出すな〟って凄まれるのもヤだしこのまま行くね」

 じゃあね、と手を振りながら、君はグラウンドに向かって走り出した。駆けていく背中は日の光の中にあってなお白く輝いている。練習着だからだろうか。背番号1のゼッケンはないけれど、君の背中は「エースだ」と口にしたとおりの自信と責任を背負っているためかまっすぐに伸びている。
 夢ではなく、目標に向かって走る背中に、届かない声だとはわかっていても小さな声で「頑張って」と紡いだ。






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