優しい時間
図書室の非常階段。その一番近くにある席の窓からは、よく第二体育館が見えた。
その門扉は固く閉ざされているため、中の様子を見ることは出来なかったけれど、それでもそこから届く音で、中にいる彼らの動向が伺われた。
キュキュッと床を擦る甲高い音と、それ以上に響くボールを弾く音。
間断なく聞こえてくるそれらは、彼らが、コウちゃんが頑張っている証だった。
このところコウちゃんは朝の5時からバレーの朝練を始めている。
他の部員たちはいつもどおり7時からするというのを聞いて、何故と問うと、秘密の特訓だとコウちゃんは笑った。
そんなコウちゃんに触発されて、私も5時から勉強をすることを宣言したのだから、我ながら単純だと思う。
それでも、コウちゃんが頑張っているのだと思えば、私も何か頑張りたいと思うことは必然だった。
チラリと壁に添えつけられた時計を見上げる。朝の6時半を示していることを確認し、目線を正面に向ける。この早い時間帯では、図書室にはまだ誰もいない。独り占めの空間で、大きく一つ伸びをして、机の上に広げた数学の問題集に改めて取り掛かる。春休み中に解いたセンター試験の問題集の正解率は初めはそこそこといったところだったけれど、反復して解くことで苦手な部分を潰していくことが出来るはずだ。
夏が終わる頃には時間を掛けずに解くところまで行ければいいと思う。そう思いながらノートにシャーペンを走らせた。
* * *
「お、いるいる」
唐突に掛かった声に、ノートに落としていた視線をそちらへ向ける。
声を耳にした瞬間、引き締まっていた口元が自然と笑みの形に変化する。予想通り、黒いジャージに身を包んだコウちゃんがこちらへと手を掲げて立っていた。
「コウちゃん、お疲れ様」
「おう、もおつかれさん」
楽しそうに笑うコウちゃんは、肩にかけたタオルで首を伝う汗を吹きながら私の正面の椅子に腰掛ける。
コウちゃん越しに時計に目を伸ばすと、もうすぐ7時を示そうとしていることが見て取れた。
5時から行う秘密特訓は、特に澤村くんにだけは内緒らしい。
7時前になるとこうやって図書室にやってきて、汗が引くまで休憩する。澤村くんに訝しまれないためのアリバイ工作をしているのだとコウちゃんは言うけれど、恐らく私が根を詰めて勉強しないように心配してくれての行動でもあるのだと思う。
柔らかなコウちゃんの視線を受け、握っていたシャーペンを机に置くと、益々その目元が柔らかくなるのがその証拠だった。
「続いてるね、朝練」
「まぁなぁ、日向や影山も頑張ってるからなぁ」
机に頬杖をついて顎のあたりにタオルを押し付けたコウちゃんは目を細めて、ほんの少しだけ眉を下げた。
最近、コウちゃんはその2人の名前をよく出す。顔はまだ見たことがないけれど、たまに体育館とは別のところでバレーをしている2人組を見かけたことがあった。
オレンジ色の髪の毛の小さい子と、黒い髪のスラっとした子。そのどちらかが日向君でどちらかが影山君なのだろう。
「こそひとりで頑張ってるんだから偉いよ」
「コウちゃんが頑張ってるのが聞こえるからだよ」
「はは……そうかぁ」
力ない返答に肩が震えた。
コウちゃんのお陰で頑張れている。そういうニュアンスを込めて告げた言葉が、思わぬ動きで刺さったのを肌で感じる。
眉を下げて困惑を示したのに、曖昧にでも笑ってみせたコウちゃんに、こちらの胸も締め付けられるような心地になる。掛ける言葉を間違った。下唇に噛み付いて自らの発言を悔いた。
「俺は…そうだなぁ、頑張らないとなぁ」
「……そうなの?」
恐る恐る尋ねると、またコウちゃんは口元を緩める。だがそれを確認したのも束の間ですぐさまコウちゃんは顎に寄せていたタオルを引き上げて、口元だけでなくその表情すらも隠してしまう。
「……影山ってのがセッターなんだけど。まだ1年なのにこれがまた、すっげぇセッターなんだわ」
声はまだ震えていない。だけどいつもよりも元気のないその声に、泣くのだろうかと訝しむ。
コウちゃんは男の子だから涙を流すことは少ないけれど、それでもその声音にコウちゃんの悲しみが滲んでいた。
「優秀な後輩ができて嬉しいやら触発されるやら」
ハハっと軽く笑ったコウちゃんの声がひどく儚げに聞こえる
今、コウちゃんから出てきた言葉はどれもポジティブな意味のものだったが、焦っているというのが本音なんじゃないだろうか。
タオルの隙間から微かに覗く眉間の皺にその疑念が確信に変わる。
机の上に置いていた右手を俯いたままのコウちゃんの頭へと伸ばす。いつも自分がそうされるように柔らかな前髪を横に梳き、そのまま額に触れた。親指の腹でこめかみの辺りを支えに、残りの指で額を撫でる。
「……どうした?いきなり」
タオルで顔を伏せたまま、コウちゃんが問う。刺が含まれているわけではない。だけど普段よりも強張っているように聞こえた。
頭を撫でられるがままのコウちゃんに掛ける言葉が見つけられない。
手で触れることで心の中の蟠りを揉みほぐせればいいのだけど、と思いながら指先を揺らめかす。
「コウちゃんの真似」
苦し紛れにそんな風に返すと、コウちゃんは声を上げて笑った。その弾む声音に、安堵に胸を撫で下ろす。
タオルから顔を上げたコウちゃんの手の平が、コウちゃんの頭を撫でていた私の手を握る。開いたままの教科書の上に降ろされた手をお互いに握る形に変える。冷たい指先が触れた。だけどその手もにわかに暖かくなっていく。
手元に落としていた視線をコウちゃんの顔に持ち上げる。和らいだ空気に触れる。そこにはいつものコウちゃんの優しい顔が戻って来ていた。
「よしっ。元気出た」
「元気なかったの?」
「あったけど、もっと出た」
「なぁに、それ」
左手で口元を隠して笑うと、私の手を放したコウちゃんの手が翻る。いつものように、先程私が触れたように、コウちゃんの手の平が額の上で踊る。
ただ、普段よりも乱雑なその撫で方は、先程私がすっとぼけて返したことのお返しのように感じた。
頑張らないといけない。そう紡がれていたコウちゃんの言葉を嫉妬だとか愚痴だとかそんなネガティブなものとして受け止めたくはない。それらの言葉は、コウちゃんが頑張るための言葉だ。
直接聞かされた私がそうだと言えば、きっとコウちゃんの中にも向上心の言葉として残るはずだ。そう、信じてる。
「さてと、そろそろ大地も来るだろうし降りて練習戻るわ」
「うん。いってらっしゃい」
「おう、またあとでな」
去り際に、ポンとひとつ、柔らかな手つきで頭を叩かれる。
それに手を振って応え、図書室の扉へと進むコウちゃんの背中を見送った。コウちゃんの手が、そのドアに触れたのが目に入る。
「ねぇ、コウちゃん」
呼び止めるつもりはなかったのに、不意に言葉がついて出た。私の呼びかけに、当然、コウちゃんは振り返る。
「ん、どうした? 」
「あ、えっと……」
コウちゃんに対して、言葉が濁ることは珍しい。普段との差異をを肌で感じとったのか、遠目ながらもコウちゃんが小首を傾げたのが目に入る。何かに縋りたい心境に触発され、机の上に放り出したままのシャーペンを反射的に掴んだ。
「また……私のとこに来てね」
困ったとき、しんどいとき、心が押しつぶされそうなとき、私を選んで来て欲しい。
いつもコウちゃんが私にそうしてくれるように、全部受け止めたい。
そんな風には告げれないけれど、言葉が届いた確信があった。図書室の扉の奥から差す逆光の中でも映える。コウちゃんの歯を見せて笑った顔がその証明だった。
私もまた笑んで、もう一度コウちゃんに手のひらを翳して、今度こそその背中を見送った。静かな図書室内の空気が戻って来たことに、小さく息を吐く。
「よし、頑張るぞ」
口の中で転がした言葉は誰にも届かないけれど、自らの気持ちを鼓舞するにはそれで充分だった。