田中 龍之介 01

010.惚れる


「潔子さーん潔子さーん。ふーんふーん」
 潔子さんの美しさを称える歌を鼻歌で奏でながら、トイレで用を足す。
 部活に行けば潔子さんに会えるってなんて素敵なことなんだろう。放課後になると自然と浮足立ってしまうのもすべて潔子さんのせい。なんて罪作りな女性だ。
 手を洗いながらふと鏡を見ると、ニヤニヤと緩んだ自分の顔が写り込む。きゅっと口元を引き締めてみせたが、やはりすぐさま口元にカーブが描かれた。
 笑ってしまうのは致し方がないことだ。ならば、すぐさま潔子さんの元へ急ごう。
 うん、と一つ頷き、洗ったばかりの両手を軽く振りながらトイレから出る。
 まだ日の高い時間の陽光を受けながら廊下を駆け、すれ違った同じクラスのヤツらへ片手を上げてじゃあな、と言い合う。
 階段は一個飛ばしで降りてもいいかもしれない。そう思いながら階段に繋がる曲がり角へ差し掛かった瞬間だった。
 階上の上の窓から差す光が、瞬間的に陰る。
 なんだ、と左側に視線を向けると、女の子が走っていた。否、走ってない。飛んでる。
 何段目から飛んだのかは知らないが、勢い良くこちらへ向かってきていることを思えば結構上から飛んだんじゃないだろうか。
 避けなきゃと思うよりも先に、反射的に目を見開いてその少女が近づいてくるさまを見守ってしまう。
 ――水色の、縞々。
 見えたままのその情報を脳裏に焼き付けた瞬間、彼女の膝が鳩尾に入る。
「痛ってぇ!!」
 腹部に走る衝撃はそこで留まらず、バランスを崩して尻餅をついた上で、更に彼女がそのまま俺の腹の上に落ちてくる。
 きれいに決まったニードロップに、一瞬だが、呼吸が喉で詰まる。ヒュッと肺が鳴るような音と共に酸素を吸い込んだが、耐え切れず咳き込んでしまった。
 死ぬかと思った。冗談ではなく、マジで。背負ったリュックがなければ床で頭を打ち付けるか、最悪背中を痛めていたかもしれない。
 喉元に手を当て、空気が通ることに安堵すると共に撫で付け、肘を支えに上体を起こす。
「っつーか、なにやってんだ、お前」
 俺の腹の上に両膝を揃えて座ったまま、眉根を寄せて俺の顔を覗き込んでくる彼女に凄む。
 目を瞬かせたその女は、同じクラスのだった。
「……だいじょーぶ?」
 呑気に訪ねてきた彼女は、俺から降りる気配も見せずに首を傾げる。
「だいじょーぶ、だいじょばないの話じゃ無えよ」
「怪我してない?」
「してねぇけども」
 俺の話を聞こうともせず質問を投げかけてきたに無事を告げるとは満足そうに笑った。一応心配をしてくれているつもりなのだろうけれど、危害を加えた当人のくせして焦った素振りを見せないに豪胆な女だと呆れかえってしまう。
「で、お前いったい何やってんだよ」
 同じクラスなのだから帰りのホームルームが終わるタイミングは当然一緒だし、上の階へ駆け上がるならともかく、飛び降りてくる用事なんてないはずだ。
「ん、数学の課題出すの忘れてたから先生追っかけてた。その帰りに飛んだ。田中は出した?」
「……」
 出したとか出してないとか以前に、そんな課題が出ていることすら知らなかった。顔から表情がなくなっていく。支えにしていた肘を伸ばし、リュックサックに寄りかかると、胸の前で両手の平を合わせた。
「おぉ。菩薩」
 ポツリと呟いたは、俺の両肩に手を伸ばし「帰ってこーい」と揺さぶる。仰臥したまま揺さぶられると、肩以上に頭がガクガクと震え、乗り物酔いに似た感覚が頭を襲う。
「やめろっって」
 反射的に手を振りほどいて、の両肘を掴み、彼女の動きを抑えた。
 俺の表情が戻ったことを目の当たりにしたは、また口元にカーブが描き「おかえり」と宣う。
 の揺らがない余裕綽々な態度に、俺は思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「だいたい、何が飛んだ、だよ。つぅか何段飛んだんだよ」
「んっと……5か6?段目」
 自信無さそうに言葉を濁すはチラリと背後に視線をやって「やっぱ7かも」と繋げる。
 今一度上体を起こし、越しに階段を眺め、下から数えて7段目の高さに、目を丸くしてしまう。
 度胸試しで小学校の時にやった覚えがあるが、そんな高いところから飛んだだろうか。
 もしかしたらチャレンジしたかもしれないが、それはあくまで小学校の頃という前提のもので、なぜ高校に入ってまでそんなことをやらかしたのかこの娘は。
 ハァ、と一つ溜息を吐きこぼす。その呼気の通りの悪さに、改めてが俺の腹の上に乗ったままだったことを思い出す。
「なんでお前は俺の腹の上に座り込んだままなんだよ」
「……別に」
 俺の問いかけに、初めてが歯切れの悪い言葉を返す。唇を尖らせて視線を逸らしているのは、俺の質問に答えないという意思表示のように見えた。
「……こういう体勢だと俺がしんどいんですけど」
 腹筋がつりそうなんですけど、そういうことも考慮していただけませんかね。
 そんな気持ちを込めたのに、何を勘違いしたのか、は耳までを赤く染め上げ、俺に噛み付く勢いでこちらへと顔を向ける。
「セクハラ!」
「なぜ!?」
 どう考えても俺が被害を被っている状況なのに、なぜそんな罵声を浴びせることが出来るのか。
 横暴な女だ。関わらない方がいい。もうとっとと部活に行こう。
 顔を真赤にして歯を食いしばったを押しのけ、立ち上がる。背中に付いているだろうホコリを乱雑にはたき落としたが、一向に立ち上がらないに視線を向ける。
 さっきまでと同じく唇を尖らせて俯いたはペタンと崩した正座のまま、その手のひらを自らの足首に這わせる。
 微かにそこが赤らんでいるのはぶつけたのか、それとも捻ったせいなのか。どちらにせよそれを指摘したところで、このお嬢さんはさっきと同じように「別に」と答えてくれるのだろう。
「しゃーねぇなぁ、もう」
 後頭部を手で撫で付け、リュックを背中から下ろし前にからう。そのままに背を向け、ヤンキー座りのように腰を落とす。
「オラ」
 肩越しにに視線を向けると、は目を丸くしてオレを見返した。
「保健室連れてってやっから負ぶされ」
「なんで」
 案の定、素直に従わず眉根を寄せたは、警戒するように座ったまま俺から後ずさる。
 小さく溜息を吐き、腰の下に両手を持って行き、ひらひらとそれを翳す。
「いいから、お前足痛ぇんだろ。ぶつかってきたのはお前だけどな」
 カラカラと笑って茶化してやる。はまた怒ったように顔を歪めるのかと思ったが、意外にも目を子供のように輝かせた。
「やったあ、おんぶなんて小学生の頃以来だ!」
「そうかよ」
 軽く首に回された手がしっかり引っかかったことを確認し、そのままの膝の裏を抱えて立ち上がる。
「軽っ。つーか細っ」
 同じくらいの体格のノヤっさんよりも幾分か軽く感じるの体重に、思わず吃驚して叫んでしまう。
「お前ちゃんと食ってんの」
「今日はおにぎりとパンを食べたよ」
「炭水化物だけかよ!」
 俺の魂からのツッコミに、はアハハと呑気に笑うだけだった。小さく溜息を吐き、階段を一段ずつゆっくりと降りる。
「ねぇ、このまま飛んでよ」
「ふざけんじゃないよ、この子は」
 提案とも注文とも取れるの発言を一刀両断すると、は「田中ケチ!」と不平を漏らす。
 コイツ、俺をなんかのアトラクションだとでも思ってやがるんだろうか。
 ノリノリで負ぶさってるに、なんという災難を背負い込んでしまったのかと後悔する。怪我してる女を放っておけるほどゲスではないけれど、つい乱暴なことを考えてしまう。
「ねぇ、田中」
「んだよ」
 不機嫌さを隠さずに応えると、ふわりと後頭部にやわらかなものが触れるのを感じた。
「……背中、大きいね」
 さっきまで無邪気に振舞っていたが不意に呟いた言葉に、不覚にもドキッとしてしまう。
 え、なに。今、こいつどういう体勢取ってるの。頭のふわふわしたのって髪の毛か。だとしたらどんだけくっついてんの。
 踊り場の正面にある窓ガラスに目を凝らしてみたものの、うまくの姿を見ることは出来なかった。
 それでも自分の呆けたような間抜け面と、それに寄り添ったのまるっこい頭だけは目に入る。
 安心しきった子供のように、俺にしがみつくこの腕が触れた身体が熱くなる。

 ――え、もしかして、ってかわいいんじゃね。

 ふと身内を過ぎった感情を、頭を振って否定する。
 こういう類の女に、心を惑わされるようなことがあってはいけない。厄介なタイプだというのも理由だけど、それ以上に、俺には潔子さんという心に決めた女性がいるというのに、こんな浮ついた感情なんて抱くなんて、そんな――。
 こんな風に思ってしまうのは背中にある暖かさのせいだと思う。あとちょっと背中に触れるものが柔らかいのもいけない。
 思春期真っ只中の俺の煩悩に触れるには、刺激が強すぎる。
「と、時にさん」
「なんだね、田中君」
 落ち着かない俺とは反対に、ノリの良い受け答えをするに、脳裏を何度も掠める感情を誤魔化すように、敢えて今の感情にはそぐわない言葉を選ぶ。
「今度飛ぶ時は、ちゃんと短パン履いてから飛びたまえよ」
 俺の言葉を受けとめたは、俺の後頭部を両手で突っぱね、また「田中セクハラ!」と叫んだ。   



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