田中 龍之介02

ワイルドピッチガール


「たーなかー!」
「おーー……ってアチっ!!」
 昼休みに入り、食堂からラーメン用のお湯を貰い教室へと戻る。その道中でに掴まった。
 背後からぐいっと左腕を組まれると、その手の中でお湯が小さく跳ねる。親指と人差し指の間にかかり反射的に悲鳴を上げた。
「へへー。ごめーん」
「本当に悪いって思ってんのかよ」
「思ってる思ってる」
 まるで反省していない様子のは、その手に小さい袋を持っている。どうやら売店で何やら買ったらしい。俺の腕から手を抜き、身体が離れたことに安心したのも束の間で、そのの手のひらは俺の学ランの脇腹辺りを泳ぎ、そのままある一箇所で止まる。皺が入らないようにと気遣っているのか、縫い目のところを人差し指と親指だけで挟み、満足気に俺を見上げた。得意げにも見えるその表情は、母親に褒めてとねだる子供のようだ。
 真っ直ぐ前を見ずに歩くの視線が顎のあたりから突き刺さっているのをひしひしと感じる。階段を昇る際も母鳥になつくひな鳥のように、はよちよちとついてきた。
 その手が離れたのは、教室のドアをくぐる瞬間で、それもドアのスペース的に横に並んだまま入れないから、という理由だった。
 俺の背中を追いかけたは、俺が自分の席に戻ると同時に、当然とばかりに俺の前の席を陣取って横向きに座る。
 食い終わったら一眠りでもしようかと思っていたのに、それも出来無さそうだ。
 諦めの境地を抱きながら机の上にカップラーメンの器を置き、その上におにぎりを乗せる。
 お湯を注いでまだ3分は経っていない。それまで母親が作った弁当に取り掛かるとするか。
「いーただーきまーす」
 正面から呑気な声が聞こえる。ちらりとそちらに目を向けると、がお行儀よく自らの手のひら同士を合わせてご飯開始の合図を口にしていた。横顔ながらも楽しそうに見えるその顔つきに、口元に笑みが浮かび上がる。やはり学生の本分は昼飯だよなと、実感する。
 気分よく白米を口の中にかっこみながら更に視線を伸ばし、彼女の膝の上に乗った昼飯の内容が目に入ると、高揚していた気持ちが急激に萎む。
 はいつぞやの言葉のようにおにぎりをおかずにパンを食べるらしい。昆布のおにぎり。それはまだいい。だがそのまるごとイチゴはなんなんだ。しょっぱいの食べたら甘いの食べたくなるのはわかるけれど、昼ご飯でそれはないだろう。確実に食い合せの悪いその組み合わせに、こちらの食欲がなくなってはいけないと視線を弁当箱の中に戻す。
 ガツガツと勢い良く食べ、ラーメンへと手を伸ばす。ふわりと鼻腔をくすぐるスープのにおいに胃袋が応えるかのように音を鳴らす。
「ねぇねぇ、田中君」
 おにぎりを食べ終えたが指先についた米粒に舌を這わせながら俺に呼びかける。
「なんだね、さん」
 俺もまた器の中に息を吹き込み、熱を逃しながらの声に応じた。麺を啜り、喉を鳴らして飲み込む。
 もまた次に取り掛かる。パンを袋から出してフィルムを剥がし、女子としては結構大きな一口でそれにかぶりつく。口の端についた生クリームを舌先で舐めとる。自体は色っぽさなんて皆無のクセに、妙にその仕草が艶かしく見えた。
 手の中のパンに注がれていた視線が、不意に持ち上がる。じっとを観察していた俺の視線は、当然、のそれによって絡め取られる。
 きらきらと、岩清水のきれいな水辺のように、透明に光るその双眸に見つめられると、腹よりも少し上の部分にぐっと力が入った。
「すき」
 その言葉をうまく飲み込むことは出来なかった。
 耳に入り込んだのはたった2文字。その聞き慣れない音の単語の前に、何かくっついただろうか。例えば今、が食べているまるごとイチゴのことを指しているのか。
 だがが最後に口にしたのは「田中君」という呼びかけだけで、それ以外の言葉は沿えられていない。
 軽口さえも叩かずに、一心不乱におにぎりを飲み下していた彼女の姿と、今、目の前で俺を見つめる彼女の丸っこい目は、確かに同じものなのに、どこかが一致しない。
 掴み損ねた気持ちと同様に、飲み干そうとしていたラーメンの汁が、だらしなく口の横から流れだす。
「うわ、ばっちい」
 顔を顰めて不平を口にしたの表情が解ける。それによって漸く身体が動きだした。器を退け左手の甲でぐいっと口元を拭う。に差し出されたティッシュで机の上を拭き、そのまま学ランに掛かった部分も乱雑に撫ぜた。スンとそこに鼻を近づけてみると、当然においが付着していて、家に帰って洗えばいいだろうかと思いを馳せる。
「あー……もう、クッソ」
「だいじょ……ばないねぇ」
 独特な言い回しで呆れたように笑う表情のは、普段通りの様子で、ほっと安堵に胸を撫で下ろした。
 吐き出した溜息に、胸が詰まっていたことを知る。否、によって膨れ上げられたと言った方が正しいかもしれない。
 一瞬だけど、が綺麗に見えた。
 潔子さんに及ぶとか及ばないとか。そう茶化すことも出来ないほどの、唯一の輝き。
 そして、そのから口にされた2文字の言葉。
 それは、まるで、まるで。
 脳裏を掠めた言葉を掻き消すために鼻の下を擦る。からティッシュをもう一枚もらい、口元に押し付けた。その下でぐっと歯を食い縛る。
 そうしてもなお、頭に浮かび上がるのは焦りと共にもたらされる予想と、微かな期待。

 ――まるで、愛の告白のようだ、と。

 例え仮定であっても、その言葉の意味が自分の中に辿り着いた瞬間、首の裏に熱が走る。
「好き、って……」
 口にすると同時に、その熱は増幅される。手で触れなくても脈が測れるのではというほどに血流が活発になったように感じられた。
 体中に生まれた熱をかき集めても、それよりも増して燃える頬を目にしたはきょとんとした顔を変えない。
「告白だよ」
「こっ……」
 俺が漸くそうなのではないかと疑いながらも思い浮かべた言葉を、は平然と、事実のみを端的に告げる。が照れも恥じらいも見せないからこそ、益々俺だけが照れくささに襲われているさまが顕著になる。
「からかおうたってそうはいかねぇぞ」
「からかってないよ」
 が何を考えているのかちっともわからない。ポーカーフェイスと称すには程遠いくせに、突拍子もないことをいうのものだから、彼女の言葉を素直に受け止めることが出来なかった。
「つっても……そういうのってふつうもっと……こう、畏まって言うもんじゃねぇの?」
「田中って意外とロマンチストだよね」
 俺の言葉に、がむっとしたのも束の間で、目を瞬かせて感心したような声を上げる。確かに俺が思い描いていた「告白」というものは、例えば放課後二人きりの教室や校舎裏に呼び出されてだとか、時にはお祭りや打ち上げ花火の喧騒に紛れて告げられるような、そういう厳かなものだと思っていた。
「信じられねぇよ、そんな……簡単に言われたら」
「じゃあ、何回すきって言ったら信じてくれる?」
「何回って……」
「すき、田中がすき。だいすき。ちょーすき」
「だーっ!! わかった。からかってないのはわかった!!」
「そうなの?」
 繰り返される言葉を掻き消すことが出来ない代わりにの口元を手のひらで押さえつける。手のひらの下で紡がれるくぐもった声がこそばゆい。口を閉ざしたから、恐る恐る手を放し、そのまま自分の膝の上に手を置く。太ももを握りしめ、昂ぶりそうな感情を抑えつける。
「何回って、そんな繰り返されたら益々信じらんねぇんだろ」
「牽制だもん」
 キッパリとまた告げたは、会話に飽きてきたのか食べかけだったパンにかぶりつく。もしゃもしゃと頬いっぱいに詰め込んで食べるさまはさながらハムスターのようだった。
 その頬の大きさと、牽制という単語に、キャッチャーマスクを被った少年の姿が脳裏を過ぎる。
「牽制って……ピッチャーびびってるーへいへいへーいの?」
「うん、ランナー焦ってるーへいへいへーいの」
 少年野球のチームのやつらがよくやる野次を口にすると、もまたそれを知っていたのか同調して応える。そのまま鼻歌を交えながらパンに噛み付いたは、袋の中からグレープフルーツジュースを取り出してそれを飲み下す。しょっぱいもの甘いものときて、更にはすっぱいものを摂取するに、益々顔が顰められる。
「いいじゃん、もう。時間がもったいない」
「ハァ? 時間って?」
 杜撰にも思えるの言葉を問い質す。言葉の刺を感じとったのか、微かに目を細めたそののゆらめきに、ドキリ、と心の奥が響いた。
「田中が私のことをすきになってくれるまでの時間」
 俺が怪訝な顔をしているのを見上げたは、ストローから口を離し、上目遣いのまま俺の目を射抜く。その瞳がまたしても、きらきらと輝きだしたように見えて、目が離せなくなる。
「意識、してよ」
 言って、唇を尖らせたは、眉根を寄せて俺を見上げる。外でよく遊んでいる割には、生白いその頬に、紅の色が混じる。
 牽制だ。そう、は言った。ピッチャーがで、ランナーが俺。そこが一塁でも、二塁でも、逃げられないように、ボールを投げ込んで引きつける。その一進一退の攻防を、は恋だと称したのか。
 そこまで考えて、漸く、が真に俺を好きだと言ったということが身内に染みこんでくる。
 胸が破裂しそうなくらいに、呼吸が覚束なくなる。言葉を探すように唇を開閉したが、そこから言葉が生まれることはなかった。
 意識なんて、とっくにしてる。それを言えば、は笑う、きっと。
 簡単に想像がついた笑顔を、見たいのか、見たくないのか。考えれば考えるほどその答えに絡め取られそうになる。
 吐き出せない代わりに、とラーメンのカップに手を伸ばし、ゴクリと一息に飲み込んだ。 



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