田中 龍之介03

据え膳食わぬ武士はワルツを踊る


 機嫌がいいときは、鼻歌を歌いながらスキップで駆けていく。自分に染み付いた行動をこうも愚かだと嘆いた経験は初めてだった。
 曲がり角で食パン咥えた潔子さんとぶつかっちゃう、だなんて妄想をしたことはあった。
 だけど実際に、女子とぶつかってしまうだなんて誰が想像しただろうか。それも100パーセント俺の過失。前方不注意による事故。いや、それよりもっとタチが悪い。意識が現世になかったと言ってもいいレベルで夢現のようなふわふわとした気持ちで走ってしまった。例え、相手もまた俺と同様にふわふわとした意識で居たとしても、走っていた俺が全面的に悪いはずだ。
「本当に悪かった!!」
「……痛い」
 廊下に正座して、顔面の前に両手を合わせて謝り倒す。ポツリと零された抑揚のない言葉に肩を竦めた。
 憮然とした表情で廊下の脇に視線をやった彼女――は、痛いのだろう、目元に涙を浮かべ唇を尖らせる。普段のならば俺と接触しようものならその勢いのままにくっついてくるのに、今日はそれがなされない。それだけで、の状態が悪いのだと察しがつく。
 2.3分前の浮かれた自分を呪う。特別にイイことがあったわけじゃない。いや、朝練の帰り道に潔子さんを見かけたというのは俺にとっては極上の時間だと言っても過言ではない。
 だけど、浮かれて駆けた俺が一人ですっ転ぶのならともかく、何も悪いこともしていないを巻き込んでしまうくらいならば、潔子さんにガン無視されて興奮なんてしなければ良かった。申し訳なさで胸がいっぱいになる。前みたいにが落ちてきて避けようがなかった、なんてことはなく、俺の不注意によるものだということが一層、罪悪感を駆り立てた。
「痛いよな、ホントごめんな」
 黙りこくって後頭部を抑えるの頭を、正面から抱え込むように撫で付ける。小さい子供をあやすような仕草だったが、傷つけたのが自分だと思えば胸はいくらでも締め付けられるようだった。がぶつけたばかりの壁に目をやる。真っ白に塗りたくられてはいるが、それはクッション材など一切使われていないコンクリートそのもので、ぶつければ痛いか硬い以外の感想なんて出てこないはずだ。
 妙にアクロバティックな動きを交えて体制を整えようとしたは勢いのままに壁に頭をぶつけていた。あの勢いを思い返せば、血が出ていないことが奇跡かのようにさえ思える。頭をぶつけた時は血が出たほうがいいと言うが、それでも血なんて流されたら俺は腹を切って詫びることしかできなかったことだろう。
「ごめん。俺にできることなら何でもするから」
 昼休みにに弁当でもジュースでも買いに行くし、帰り道に歩けないようならおんぶで家まで送ってもいい。大地さんの許可を貰えれば朝練を途中で抜け出して明日の朝迎えに行ったっていい。俺が怪我をさせてしまったのだ。のために出来ることならば、なんでもしたい。心から出た言葉だった。
「……なんでもって言ったな」
 スンスンと鼻を啜っていたの声が耳に入る。その声に触発され。に視線を合わせると、ぎらりと光ったの瞳に一瞬で絡め取られてしまう。
「じゃあキスして」
 涙を浮かべたは、眉根を寄せて苦しそうにしているのに、妙にハッキリと言葉を放った。だが、予想してもいなかった行動を望まれたせいで理解が追いつかない。普段から唐突なの言葉選びに翻弄されるのはいつものこととは言え、何を言ったのか、本当にまったく理解ができなかった。
「は?」
「して」
「は、はぁ? だから、なんて?」
「だから、キスだってば」
 キースー、と、やけにハッキリとした唇の動きで見せつけたに、ようやく何を言われたのか理解した。キス、と言った。それはどういうことかと思い当たった途端、視線がの唇へと吸い寄せられる。薄い割にぷっくりとした唇はリップクリームを塗っているのかほんのりとピンク色に見えた。キスをする、といことはそこに俺のものを重ねるということ、なのか。
 ゴクリと生唾を飲み込む。それに促されるように、耳から首にかけて熱が走った。
「ばばば、ばかやろうっ!! そんなことできるわけないだろっ?!」
 妙に上擦った声で反論する。うるさかったのか、耳に響いたのか。は顔を顰めて俺を睨んだ。
「なによぅ、なんでもするって言ったのは田中でしょ?」
「それは言ったけど…限度ってもんがだな?! あるでしょうよ!!」
 身振り手振りで拒絶の意思を告げる。慌ただしく動く腕は、傍から見たらカラスか何かが羽ばたいているかのように見えたことだろう。迫る双眸を避けるためにの肩を押し返す。それがまずかったのか、がますます不快感を示すかのようにむくれた。
「嘘つきーっ! 縁下に言いつけてやるからっ!」
「やめろよ、まじで!」
 から縁下へ、だなんて最悪なルートだ。下手したらバレー部全体に行き渡ってしまう。と、いうかまず発信の言葉が怖い。言葉足らずで突拍子もないところのあるの言葉では、尾ひれ背びれどころじゃない。胸びれまでも付けて話されてしまいそうだ。
 の肩を抑えているため、今すぐに走ってどこかに行ってしまうようなことはないだろう。だが廊下でこんな風に顔を突き合わせている時点で、誰かに見られたら誤解されてしまう恐れがある。朝が早い時間帯だからまだ人気が少ないだけで、そうこうしているうちに朝練のない普通の生徒たちもここを通り始めるはずだ。
 もうこうなってしまったら腹を括るしかないのか。
 ぐっと喉の奥に力をいれ、毅然とした態度でを見つめた。
さんっ!!」
「なによっ!! 田中君!!」
「少しだけ、黙ってもらえはしないだろうかっ!!」
 肩を掴む手に力を入れ、少しだけ俺の方へと引き寄せる。華奢なの体は簡単に俺の動きに従った。
 吃驚したように開かれた瞳も、俺の意図を感じ取ったのか、期待に満ちた輝きを放ち、柔和に細められ、そして閉じられる。
 ――さらば俺のファーストキス。
 下唇に噛み付き、ひとつ、息を吐く。そのまま軽く頭を傾けての顔へと寄せた。
 近づけば近づくほど、心拍数が否応なしに上がっていく。大人しく待つは、多分、すごくかわいい。微かに口元に力が入っているところなんて、堪らなくいじらしいと感じる。こんな子にキスをしてくれだなんてねだられることなんてこれから先あるんだろうか。据え膳食わぬは男の恥だっていうし、そもそもが望んだことだし、このままキスしたって怒られるようなことはないんだよな。
でもまだ俺はと付き合ってるわけじゃないし、心に決めた女性だっている。不誠実な状態でファーストキスに別れを告げていいものだろうか。
 ただ俺自身、のことを可愛いと思っているのは変えられのない事実で、キスなんかした日には呆気なくのことを好きになる自信がある。というかぶっちゃけ、今めっちゃのことしか考えらんねぇし、それよりも前にがぶつかって来た時から、いつだってのことばかりが頭チラついているし。コイツと付き合ったらスッゲェ楽しいんだろうな、なんて妄想を繰り広げたことだってあるよ。
 でも、とキスをするのならこんな風に成り行き任せで重ねるのではなく、お互いの気持ちがきちんと重なったタイミングで――。
「……ねぇ、まだ?」
「う、」
 俺の葛藤を待てなかったらしいが微かに口を開いた。今やろうとしてたんだよ、だなんて母親に言い訳をする子供のようなことを口走りそうになったが、緊張のためか喉がひりついて言葉にはならなかった。
 固まって動くことができない俺の表情を盗み見ようとしたのか、薄く片目を開いたと視線がかち合う。
 胸の奥で、鈍い衝撃が走った。血流がよくなったのか、耳の中で血が巡っているかのような錯覚に陥る。
 ――ええい、行ったれ。
 首を伸ばし、チュッと音を立てて即座に離れる。固く目を瞑ったまま顔を逸らした。自分の照れくささを誤魔化すのにいっぱいいっぱいで、の反応なんて見れるはずがない。
「……ほっぺた?」
「ソッス」
 不服そうなの問いかけにぎこちなく答える。それで勘弁していただけませんでしょうか。の肩を掴んだまま、力なく項垂れる。重い溜息を吐き捨て目元に入れていた力を抜くと、のなまっ白い膝が目に入り、益々居た堪れないような心境に陥った。
 慌てて顔を上げ、掴んだままだったから手を離し、降伏だという意味を込めて手のひらを翳す。小さく息を吐いたは、触れたばかりの頬を撫でる。さらりとした指先が、妙に綺麗に見えた。
「まぁいいや。許したげる」
 表情を解いたは、いつものように子供っぽい笑みを浮かべて俺に笑いかけてきた。
─── ったく、どこから目線だよ。
 先程の緊張感が消え失せた空気に安心しきってしまい肩に入っていた力を抜く。
「そうだっ」
 俺の手が離れた途端、立ち上がったはダッと教室に向かって駆け出していく。さっきまで頭が痛いと唸っていたくせに、そんなに急に動いて大丈夫なんだろうか。心配になって俺もまたの背中を追う。
「おい、っ! どこ行くんだよ」
「ちょっと縁下に進展の報告をしにっ!!」
「本当にやめてくださいっ!!」
 の言葉に駆ける足を速めた。キャッキャとはしゃぎながら走るに難なく追いつく。手を掴んで引き寄せ、細っこい体を抱きとめる。反転して俺の胸に飛び込んできたは、俺を見上げてにんまりと笑った。その笑みに、またしても俺は操られたのだと知るには十分だった。
「ねぇ、田中」
「なんだよ」
「私のこと好きになった?」
「うるさい、なりません」
「ちぇー」
 ぐりぐりと額を俺の腹に擦りつけてくるの肩を押し返し、それでもなおすがりつこうとする手のひらを握りしめることで動きを遮る。腕を押したり引いたりと、試行錯誤することで俺に近付こうとしているようだが、これ以上の接近を許すことは出来なかった。
 例え頬であったとしてもキスをしたのだという事実が照れくさくてたまらない。そんな状態で抱きしめられたら心臓がもたない。こんなにもドキドキさせられていることの何もかもがの策略だったのだとしたら本当に末恐ろしい。
 ハァ、と大きく息を吐き出し、改めての顔を見つめる。きらきらと笑うはやっぱりめちゃめちゃ可愛く見えて、俺ってほんとチョロ甘だ、と嘆くには十分だった。




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