月島 蛍05

023.弄ぶ


「忠ぃー。辞書忘れたー! 貸してくれー」
 某国民的アニメの主人公の片棒を担ぐダメな少年のように情けない声で、貸してもらうことが当然だと言わんばかりのガキ大将のような言葉がクラスの中に飛び込んでくる。
 入学して間もないということもあり、他のクラスの人間がこの教室へ足を踏み込ませることが少ないせいか、教室内にいた生徒たちの視線が一様に彼女へと注がれる。
 僕もまた、彼らや呼びかけられた当人である山口に倣い、チラリと廊下側の出入口付近へと視線を動かせば、想像通り、の姿が目に入る。ちっとも悪びれてない表情には、ほんの少しだけ困惑の色が混じっているのは、視線の数に圧倒されたからだろうか。
「いいよ! 英語と古典どっち?」
「漢文!」
 山口の声に安堵したように笑ったは、僕たちの方へと歩み寄ってくる。同時に山口は僕の前の席を陣取っていた腰を上げ、の元へと足を踏み出した。
「ロッカー入ってると思うから、ちょっと待ってて」
「ごめんなー」
 山口が立ち去ると同時に、周囲から取り囲むように視線が集まるのを感じ取る。
 じわりと、背を這うような嫌な気持ちを飲み込めなくて、自然と口元が引き締まる。僕の表情を覗き込むようにが背を曲げたことで、彼女たちの視線が遮断されたように感じ、小さく安堵の息を吐いた。
「……月島。どうした?」
「別に何でもないから」
 イラついた態度を隠しもせずに告げると、は呆れたように溜息を吐いた。口を噤んでしまったが何を考えているのかなんて知らない。ただ僕の言葉を待つかのように見つめてくる視線に耐えられなくて、顔ごとから視線を逸らす。
っちー。あったよー」
「サンキュー、忠」
 ロッカーから戻ってきた山口の声に安堵して、小さく息を吐いた。受け取った辞書を立てて僕の机の上に置いたは、手を翻して僕の方を指差すのが視界の片隅に入った。
「……なしたの?」
 チラリと横目で盗み見ると山口へと視線を転じたと、困ったように眉を下げた山口の姿が目に入る。助けを請うように僕へと視線を流した山口も、に視線を戻せば溜息混じりに口を開くだけだった。山口はに対して甘い。質問されて答えないっていう選択肢を取れるはずがないんだ。
「ツッキーさ、下の名前読みにくいから……」
「蛍って?」
「そう。俺もそうだけどツッキーも名前なんて読むのって聞かれ回ってるみたいで疲れてるっぽいんだ」
 確証がないせいか予測の範疇を超えていない言葉で塗り固めて山口はに告げる。長年の付き合いのせいか、僕の心情を正確に読み取った山口が恨めしくて仕方ない。
「うるさい山口」
「ごめん、ツッキー」
 否定をしなかったことで山口の弁が肯定されたことを感じたのか、がポツリと「お気の毒に」と呟いた。
「ホントだ、みんな月島のこと見てるんだ。すごい人気だなー」
 出入り口付近に固まった集団へと一瞥を送ったはひらりと手のひらを翳した。うちのクラスには僕たちと同じ中学出身の女子やと同じ部活に入ったと思しく女子はいない。
 と、すれば、あのあたりにいる女子たちは、僕の情報をに対して聞きに行ったという集団なのだろう。自分で何とかすると言ったが彼女たちに対してどういう打開策を取ったのか知りようがないが、今この会話に乗り込んでこない以上、解決したのだろうことが伺われる。
 呆れたように溜息を吐いたはまじまじと僕の表情を見つめ、小さく笑った。
「つきしまけい、ってひらがなで名札でも貼ってたら?」
ってほんとに頭悪いよね」
「ひどいやつだな」
 発案を一秒と持たずに却下されたことが気に入らなかったのか、は目を細めて僕を睨みつける。その視線を同じ視線でもって返すと、は興醒めしたかのように鼻を鳴らした。
「まぁいいや。忠、辞書サンキュね。終わったら速攻返しに来る」
「今日は漢文ないから気にしなくていいよっ! でもいつでも遊びに来てね」
 にこやかに笑う山口に釣られたのか、もまた和やかに笑って手を翳した。踵を返し、教壇の方へと足を向け、そのまま出入り口へと進むの背中を眺める。
 教室のドアの縁に、辞書を重ねたの足が不意に止まる。反対の手で首の裏を掻き、微かに唇を尖らせ首を僕らの方へと捻った。
 僕を真っ直ぐに見つめてきたに、背筋が自然と伸びる。
「なあ、蛍っ!」
 の溌剌とした声が教室内に響く。甲高く張った声は、廊下にもおそらく漏れていることだろう。5組側のドアに立っている女子や、開け放たれた窓の向こうの廊下に立つ男子たちが一同にへ視線を伸ばしているのがその証拠だ。
 から、というよりも近年、家族以外の人間に「蛍」と呼ばれたことがなく、うまく反応が出来なかった。もしの視線が僕に向けられていなければ、下手したら聞き逃していた可能性さえもある。
 知覚すると同時に胸の奥に焦げ付くような熱を感じる。だが、それも束の間のことで、僕以上に衝撃で大きく口を開いた山口を視線の片隅に捉え、ほんの少しだけ心が落ち着いた。
 ここで僕が反応しなかったらどうなるんだろうか。いたずらな考えが沸き起こったが、それよりも先に唇が動いていた。
「……なに?」
 普段よりも大きな声でもって追求の言葉をへ投げかける。ぐっと何かを堪えるように口元を引き締めたは、唇を数度開閉し、言葉を捜すような仕草を取った。
「……次の次の時間、英語当たるから教えてよ」
 今言うようなこと?と怪訝に思う。先程の彼女の言葉を思い返せば、次の授業が終われば山口に辞書を返しに来る予定になっている。ならばその時にでもついでに頼んでくればいいのに。
 僕の言葉を待っているらしいは、普段よりも幾分か頬を赤らめて僕を見つめる。気まずさを押し出した表情に、彼女の意図が見えた。口元を持ち上げて笑いかけると、はかすかに唇を尖らせる。
「別にいいけど」
 おそらく、彼女の様子から見て、山口との会話内容を打開しようとしたのだろう。画策した結果、僕の名前が「ケイ」と読むことを知らしめるために名前を呼んだのだ。
 普段は月島としか呼んでくれないくせに。そう思うと僕だけがドキッとさせられたことが歯痒くて堪らなくなる。
「ねぇ、
「うっ」
 自分から攻め込んでくるくせに、不意打ちに弱いところがあるは瞬時に熟れたトマトのように顔を赤らめた。悪くない。そう思うと嫌味ったらしい笑みが浮かぶようだった。
「いくら親しいからって他の人の前で蛍って呼ぶのやめてくれる?」
 注目が集まってる中で、ワザと特別な仲であるかのような言葉を選んだ。僕の言葉にクラス内がざわつく。一番顕著な反応を見せたのは、そばで聞いていた山口だった。器用にも髪の毛を、猫のしっぽのようにピンと立たせた山口を睨んで牽制する。コクコクと慌ただしく頷いた山口が僕の真意を感じ取ったかどうかはわからない。ただ黙ってこの状況を流して欲しかった。
「うっ……うるせーバカっ」
 顔を真っ赤にして反論したは、それ以上の言葉を見つけることが出来なかったのか、頬から熱が引かない内に、廊下に上靴の底を叩きつけるかのようにして3組へと戻っていく。
「ああああの、ツッキーもしかして」
「うるさい山口」
「うぅ、ツッキィー……」
 何事かを聞きたそうな山口を適当にあしらい、自席に戻るように促す。黙って従った山口のしょんぼりとした背中を横目で見送る。別にとの仲は今までと何一つ変わってない、とその場で告げても良かったのだろうけれど、クラスの連中に真実を聞かれることが癪だった。
 誤解されて妙な噂が流れたところで、そんなもの中学の頃と何一つ変わらない。慣れたことだ。今回はの行動がきっかけで、より一層の真実味を帯びて噂が流れることだろうという程度の感想しか浮かばない。僕の名前がケイと読むことよりも速く、伝聞されるのだろう。
 つい数日前には近付かないでと言いに来たくせに、僕を助けるつもりなのかは知らないけれど自分から飛び込んでくるのだから、タチが悪い。
 ――本当に、頭が悪いんだから。
 んんっ、とひとつ喉の奥に詰まったような感覚を払うかのように咳をした。手のひらをいっぱいに開き、鼻先から顎にかけて覆う。机の上に肘を置き、窓の外へ視線を向ければ誰からもその表情を覗かれる心配はない。
 名前を呼ばれたことで飛び跳ねる気持ちのチョロさを感じながら、指先に伝わる熱をただ持て余すことしか出来ないでいた。



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