月島 蛍08

061.照れる


 秋にほど近い夕焼けが、夜の色に飲み込まれそうなころ。およそ1ヶ月ぶりに帰ってきた実家の門扉をくぐると、見慣れない少女と玄関先で鉢合わせた。
 俺の顔を見るなり、その少女は驚いたように目を見開く。だが、即座に気持ちを立てなおすと、人好きのする笑顔を浮かべて俺に視線を合わせた。
「こんばんはっ!」
「こんばんは!」
 ハキハキとした声と軽い会釈に釣られ、俺もまた必要以上におおきな声で返してしまう。
「あ、明光くんだっ! 久しぶり!」
 少女の背後から出てきた顔には見覚えがあった。弟である蛍の、一番の友人。山口忠。見知った顔に、言い知れぬ安堵を感じ取ると、自然と顔は綻んだ。
「おー、忠か。元気そうだなー」
「明光くんも! 今、帰ってきたの?」
「おう、ちょっと週末こっちで用事があるからさ」
 同窓会というほどではないが、高校の頃の部活のメンバーと久しぶりに会う約束がなされたのは、ひとえにバレー部の躍進がきっかけだった。
 ――今年の烏野は一味違うぞ。
 そんな話が俺の代まで伝わってくるほど、期待値は高い。
「そっかー。大人は大変だなー」
「はは、忠もいずれはそうなるぞー」
 うえ、と顔に出して呻いてみせた忠の頭をわしゃわしゃと撫でつける。硬質な髪を掻き乱すと、途端にあらぬ方向へとっ散らかった。
「あの!」
 短い呼びかけに、忠の頭の上にやった手を止める。声をかけてきたのは、先程の少女だ。忠の登場に安堵するままに、彼女の存在を無視するような格好になってしまっていた。
 無視しちゃったみたいでごめんね、と一言、謝ろうと口を開きかけた。だが、それよりも先に、彼女が一歩こちらへと歩み寄ったことで思わず口をつぐんでしまう。
「月島のお兄さんですよね? 初めまして!」
 戸惑いは一瞬だった。次に襲いかかってきたのは、違和感だ。お兄さん、だなんて近しい呼び方に、とてつもないむず痒さを覚えたのだ。
「えっと――」
 狼狽したままではまともな言葉を選べない。だが、今の落ち着かない心境のままでは気持ちの立てなおしが困難だった。彼女と目を合わせた途端、思わず言葉を飲み込んでしまうのだ。実直な眼差しが俺へと向けられていることに、どうしても戸惑いを覚えてしまう。
 ――着ている制服が、俺らの代の女子が着ていたものと同じせいだろうか。
 戸惑いの正体を暴くために、彼女の姿を見つめる。数年前の記憶に触れると同時に、自分の感性が当時のものへと一瞬で遡ってしまったとしたのなら、この戸惑いも仕方の無いものなのかもしれない。女子高生のひたむきさが懐かしい。かつて、手にした青春のかけらが胸を去来するのも、歳をとったということなんだろうか。
 仮定を頭に浮かべながらも、あまりしっくりこないな、と感じていた。ならば、なぜ、と再度頭を捻る。一連の流れを思い返してみても、やはり、彼女の口にした『お兄さん』という言葉が引き金だったように思えた。
 だが、たしかに俺は蛍の兄であり、忠の知り合いで初めて出会う子ならばそのような言葉が相応しいものだと理解出来る。
 努めて冷静に、自らに言い聞かせる。コホン、とひとつ咳を払い、先程の戸惑いを打ち払った。改めて彼女と向き直ったことで、次第に頭の中が晴れていく。今、俺が立つ場所は実家の玄関先で、彼女がその場所から出てきたということは――。
「んー? ねぇ、ちょっと待ってこのシチュエーションで行くと、君、もしかして――」
「ちょっと。なにごちゃついてるの」
 頭の中に浮かんだ仮定を口にしようとした。だが、言い切る前に邪魔が入る。そっと視線を流せば、引き戸に手をかけた蛍の姿が目に入った。
 バレーの夏合宿を終え、今まで以上に落ち着きを見せ始めた蛍が、少なくない動揺の色を浮かべている。
 憮然とした表情で俺と、少女とを見比べた蛍は、重い溜息を吐きこぼす。ひと目で状況を察知したらしい蛍は、玄関前に立つ少女の二の腕を取り、ぐいと自らの方へと引き寄せた。
「ねぇ。君、さっき、お腹が空いたから帰るって言ってなかった?」
「だって月島のお兄さんと会うの初めてだからさ。ちゃんと挨拶しなきゃって」
 少女の言葉に、蛍はげんなりとした様子で肩を落とす。諦念をありありと顔中に浮かべた蛍は手を翻し、そっと彼女の背を押した。
「挨拶とかいいから。暗くなる前に帰って。ほら、山口も」
「わかったよー。お邪魔しましたー」
 こちらへと礼儀正しく頭を下げた少女と、「またねー」とおおきく叫ぶ忠に、小さく手を振って返す。ふたりの背中を眺めていた蛍は、ほんの少しだけ、名残惜しそうに振り返りながらではあるが、そっと家の中へと戻っていった。
「なあ、さっきの子、蛍の彼女?」
「え?」
 玄関先に腰掛け、靴を脱ぎながら蛍に爆弾にも等しい質問を投げかける。案の定、突然の言葉に狼狽したらしい蛍は、俺を見下ろし、数度まばたきを繰り返した。だが、その口元は何も語らないとばかりに結ばれたままだ。
 ほとんど確信はしているのだけど、その唇を割ってみたいというイタズラ心が沸き起こる。
「じゃあ、忠の――」
「僕の、だけど」
 苦虫を噛み潰したような表情で呻いた蛍は、舌でも打ち鳴らしそうなほど不機嫌だ。あんまりな反応に、怯えや怒りを感じるよりも先に、微笑ましさを感じてしまう。兄とは、そういうものだ。
 ふ、と口元を緩めて笑いながら、腰を上げ、蛍の正面に立つ。胸の前で腕を組みながら頷いてみせると、蛍は怪訝そうにこちらを見つめた。
「はー。とうとう蛍もそういうお年頃になってしまったのか」
「そういう邪推止めてほしいんだけど」
 眉を下げ、心底嫌そうに吐き捨てた蛍の鼻先に人差し指を突きつける。
「健全な男子高校生が彼女を自宅に招き入れるような由々しき事態を見過ごすわけにはいかないだろ」
「健全だから山口も一緒に呼んでるんでしょ」
「あぁ、なるほどね……」
 蛍の手が俺の人差し指を掴み、やんわりと退けられる。淡々とした主張は、蛍の本心なんだろう。
 逆に言えば、忠がいないと手を出しかねないと言っているようなものだが、そこまで指摘すると蛍がまた俺と口をきいてくれなくなりそうだし、今回はここで引いておいてやるか。
 聞きたいことならば山積みなんだがな、という諦めの付かない感情と折り合いをつけるべきだろう。
 ――いつから付き合っているのか。どちらから告白したのか。どういうところが好きなのか。
 蛍とはそうい色恋の話をした覚えがない。兄として、導いてやらねばならぬ部分も大いにあるはずだ。だが、直接聞いたとして素直に答えてくれるとは思えない。おそらく「今」じゃないのだろう。
 蛍の気が変わったり、何か問題に直面したときに、『聞かれたら答える』くらいの気持ちで待ってやるか。俺から目をそらしてしまった弟を見上げ、心の中にひとつ、誓いを立てる。
「でもかわいかったなー。さっきの子」
「――え?」
「さっきさ、玄関で鉢合わせた時に『月島のお兄さん』って言われたんだけど不覚にもドキっとしちゃった」
 『お兄さん』と呼ばれたときのこそばゆさを、どう言い表したらいいかわからない。八百屋に買い物に行ったときに使われる「にいちゃん」とも、道行くおばあちゃんに道を聞かれた際の「おにいさん」ともどこか違う。
 明確に、年の下の女の子。それも蛍の彼女という立場にいる子に呼ばれたことが、胸の奥をくすぐった。
 弟がいる者ならではの感覚だと思う。小さい頃に、ちょっぴり憧れた夢。
 ――もし、俺に妹がいたのなら。
 忘れていた感覚が、今、不意に蘇ってきたのだ。
 だが、そんな甘酸っぱい感覚を、蛍と共有できるはずがない。否、もしかしたら蛍は蛍で『もし僕に姉がいたのなら』という妄想を抱いていたかもしれないが。今、口にするのは賢明ではないだろう。
「……人の彼女相手になに言ってんの?」
 ひとりで悦に入る俺を、蛍がまたしてもげんなりとした表情で見つめる。ぶっちゃけすぎた照れくささに、頬を指先で引っ掻きながら、蛍から視線を外す。
「いやいや。別に付き合いたいとかそういうのじゃなくてさ。ガキの頃、俺、妹欲しかったんだよなーって思い出しちゃっただけで――」
「ホンットに止めて!」
 力強い拒絶に思わず目を丸くする。上げていた腕をおろし、改めて蛍を見上げれば、その顔色がかつて目にしたことがないほどに紅潮していることに気付かされる。
 急にどうした? 目を瞬かせて蛍を見上げるが、またしても口を閉ざしてしまった蛍が何かを語る様子は見られない。いや、それどころか、歯を食いしばっている今の方が、先程以上に難攻不落のように思えた。
 怒りに震える蛍の表情は硬い。これは俺が何かまずいことを言ってしまったに違いない。反省するには問題点を見つけなければいけない、と先程の主張を頭の中で思い返してみれば、ひとつの考えが頭を過った。
 先程の少女が、俺の妹――義妹になるということは、蛍と結婚するということだ。
 頭の回転の速い蛍は、俺が思い描いた妄想を手に入らないわけではない未来だと、瞬時に思い至ってしまったのだろう。
 その考えに辿り着くと同時に、怒りにしか見えなかった蛍の表情がまったく別のかたちを成す。
 怒り8割、羞恥2割――否、逆だな。
 肌が白いせいもあり、赤くなるとすぐわかる。だが、基本的に蛍はいつも冷静だから、その表情を崩すことはほとんどないし、ましてや顔を赤くすることなんて片手の指で足りるか足りないかの数しか思い浮かばない。
 だけどバレー以外にも、蛍がこんな風にムキになれる存在が、あったんだ。
 兄としては複雑な心境かもしれない。だけど、兄として応援しないわけにもいかない。
「わかった、わかった。ごめんな、蛍」
「そのニヤついた顔も引っ込めてよ、今すぐ」
 いつになく厳しい言葉を投げかけてきた蛍だが、ちっとも怖さが感じられない。こいつも青春してんだな、と考えれば心沸き立つ思いがした。





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