谷地 仁花01

016.ときめく


 図書室の一番奥の本棚に足を伸ばす。あまり人の通らないそこは、埃っぽさを多分に含み、紙の独特な匂いを充満させていた。掃除の時間になれば、ちゃんと床は掃いているのだろうけれど、本と棚の間に溜まる埃までは落とされていない。窓から差す陽の光に、きらきらと白いものが交じって見えるのはその名残なのだろう。
 極力、大きな呼吸をしないように息を詰めながら、目当ての本を探そうと視線を巡らせる。教材として使える資料が並ぶ中、美術関連の本はとても少なく、本棚の上の方へ押しやられていた。
 バレー部のポスターを作ることを決め、家にある本以外にも何か参考になるものがあるかもしれないと探しに来たのだけど、これでは取るのに苦労しそうだ。
 周囲を見渡してみたけれど踏み台に使えそうな台座が見当たらない。司書の先生に言って借りた方がいいだろうか。
 小さく溜息を吐き、ものは試しに、と、そっと一番上の段にある本に手を伸ばす。
 背表紙が飛び出ているせいか指の先が底に微かに引っかかる。そのまま指を弾くようにするとほんの少しだけ引き出された。
 もしかしたらこれを続ければ取れるかもしれない。そう思い、今度は左手で本棚の縁を掴み、右手を伸ばす。背伸びをした爪先が震えながらも、また指先がそれにかかったのを感じ、指を動かした。
 同時に、脇腹にかけて鈍い痛みが走り、腕を下ろす。
 あまり普段ではしない動作をしたせいで腹筋が攣りかけたのだろうか。左手で擦りながら、お目当ての本を見上げる。
 一番最初に見た時よりも確実に飛び出してきてる。もう少し頑張れば取れそうだ。
「よっし、もう一度っ」
 声に出して気合を入れて、本棚を掴んだ。だが右手を伸ばすよりも先に、視界が暗くなる。
 え、と驚いて振り仰ぐと、白い襟元と伸びる首が視界に入った。長い腕が私の取りたかった本を難なく手にし、そのまま顔の横に降ろされる。
 本の動きを追った視線をもう一度上へ向けると、口元を引き締めた君が私を見下ろしていた。日に焼けた肌に、そのきらきらと光る双眸はやけに映えて見える。耳の奥に、キーンとした音が響いた。ゴクリとひとつ、ツバを飲み込むとその音が少しだけ収まった。
「え、うぉ」
「これか?」
 戸惑いに呻く私を余所に、君は掲げた本を揺らして指し示す。背中から覆い被さられるのではないかというほどの体躯に、ただひたすら緊張してしまう。
 驚いて一歩退くと、私が掴んだ本棚の縁の極めて近いところに添えられた手と、そこから伸びた腕にぶつかる。抱きしめられているわけでもないのに、その距離の近さに益々ぎょっとしてしまう。
「??!」
 声にならない声が喉の奥で弾けた。詰まった声に触発されて、手の平の下で咳き込む。心配そうに顔を顰めた君がこちらを覗きこんでくるものだから、その距離がまた縮まり、益々心臓が破裂するんじゃないかというほどに鳴動する。
「だ、う、ありがとう」
 詰まりながらもそう告げると、君は「ん」と頭を揺らして改めて私に本を差し出した。それへ手を伸ばし、受け取りかけたが、手に収まる寸前に君の手が翻る。
 意地悪をされたのかと驚いたが、彼の目がその本の表紙に落ちているのを目にし、単に本が何か気になっただけなのかと推察する。
「ポスターレイアウト…美術か?」
 言いながら、改めてこちらへと差し出してくれた本を、頭を揺らしながら受け取る。
「えっと、その、実はバレー部に近々入るかもしれなくて…それで部活で、その…使うポスターを考えようかと…」
「ふぅん」
 詳細を隠しながら訥々と理由を伝えたが、君はその途中で遮るように吐息混じりの言葉を零した。
 目線を高い方へと向け、首の裏に手をやって掻く仕草を取った彼に、退屈だと言われるよりも強くそうなのだと印象づけられる。勝手に自分語りを始めてしまった自分を恥じて、申し訳ないような気持ちでいっぱいになる。
 萎縮して頭を下げようと下を向いた瞬間、君の声が耳に飛び込んでくる。
「アンタ、そういうの得意なの?」
 その声に顔を上げ、君を振り仰ぐと、私が取った本とはまた別だが同系統の本を手にしてそれをパラパラと捲っていた。顔が顰められているのは、その本の内容のせいなのだろうか、と小首を傾げる。
「と、得意というか、お母さんがデザインの会社やってて…叩きこまれたというかなんというか」
「ふぅん」
 また何気ないような声で続けられたけれど、君はうんうん、と頭を揺らしながら相槌を打っていることに気付く。
 気に入らないとかそういうわけではなかったようで、そっと胸を撫で下ろす。
 私の視線に気付いたのか、本から視線をこちらへ戻した君は、パタンと本を閉じる。そこに付着していた埃が飛ぶのが目に入り、思わず目を細めた。
「いいな、それ。出来たら見して」
 本棚に仕舞いながら続けられた君の言葉に目を見張る。
「見て…くれるの?」
 恐る恐る投げかけた私の質問に、君は頭を揺らして応えてくれた。
 例え社交辞令なのだとしても、少しでも楽しみにしてくれているのかもしれない、と期待が胸に満ちる。
「それじゃ、出来たらすぐに教えるよっ!」
 自然と声が弾んだ。だが、それを受けた君は、眉根を寄せ、シッと口元に人差し指を立てる。反射的に口元を手のひらで覆った。君の視線が横に向けられたのにならい、目を滑らせると、席に着いて勉強なり読書なりに勤しんでいる人たちの視線がこちらへと向かっていることに気付く。
 彼らの眉根が、それぞれ同様に顰められていることが見て取れ、萎縮して身体を縮こませた。
 小さくなってしまった私の肩を、慰めるかのように君がポンポンと二回叩く。その手の柔らかさに、微かに胸がドキリと鳴った。
「それじゃ、おやすみ」
 あふ、と欠伸混じりでそう告げた君は首の裏に手をやって傾けながら私に背を向けて歩き始める。
「あ、君は何か本を探しにきたんじゃ…?」
「え、なんで?」
 手で首を抑えたままこちらを振り返った君の手には、何の本も収まっていない。もしもお目当ての本を探して見つからなかったというのなら、本を取ってもらった御礼に全力で捜査に挑む心づもりでいた。
「だって…こっちって授業用の本しか置いてないし…用がなかったら来なくない?」
「あぁ」
 私の言葉に、また君は頭を揺らす。話を聞いているというアピールのように見えるそれは、君のクセなのかもしれない。
「用なら終わった」
「へ?」
「…アンタが荒波に揉まれてんのが見えたから」
 微かに眉根を寄せた君は、そのしなやかな指先をこちらに向ける。距離は離れていたけれど、背の高さに比例して長い腕を持つ彼にその距離は関係なかった。
 人差し指が眼前に迫った。それを知覚し、反射的に目を細める。君の指先が眉間に触れた途端、圧力が加えられ、簡単に顎が持ち上がった。
 デコピンよりは痛くはないけれど、不意の攻撃に驚いて手のひらで額を覆う。
 驚いている私が面白かったのか、君は目元を和らげ、歯を見せて口元を持ち上げた。
「次から、取る時はオレ呼んで」
 寝てても起きる、そう続けた君は早々にその笑みを引っ込めて図書室の机の方へと顔を向けると、スタスタと長い足を活かし、足早にその場を立ち去ってしまう。
 ぽつんと取り残された私は、手を額から降ろし彼の背中を見送った。
「はわー…」
 口から感嘆の声が漏れる。ポカンと口を開いている顔は、さぞかし間抜けに見えることだろう。
 君がなんてこともない風を装って告げた言葉に、少女漫画を読んだ時と似たようなときめきが胸に生まれる。
 助けに来たのだと、暗に言われた。
 そして”次から”ということは、同じ目にあっていたらまた助けてくれるつもりなんだろう。何度でも。寝てても、いつでも。
 なんなんだろう、あの人は。
 これが世に言うイケメン力というものなんだろうか。
 淡い空気に当てられ、身内から熱が生まれてくる。陽の光に照らされた時とは違う、自発的な熱を不思議に思う。体温とも違うこの熱はどこから生まれてきたのか、と。
 受け止めきれない気持ちの代わりに、と、取ってもらった本を胸に掻き抱くと、埃っぽい匂いが鼻につき、思わずくしゃみをしてしまった。  



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