谷地 仁花02

誓い


 移動教室や登下校の途中で、広い背中を見つけると自然と〝挨拶をしなければいけないのでは〟と身構えてしまうのはバレー部に入ってから身についた習性だった。
 今もそうだ。学年問わずに集まる図書室で、チラリと見かけたあの後ろ姿には見覚えがあるような気がする。もしもバレー部の先輩ならば見かけた瞬間に挨拶に行かなければ、後々の人生に支障が出る未来しか見えない。
 じりじりと距離を測りながら、男の人の背中を睨み、不意に見えた見慣れない横顔に「違った」と胸をなで下ろす。まだ慣れていないから緊張はするものの、粗相があってはならないのだから油断は禁物だ。
 周囲を見回しながら、見知った顔がないか探す。特に上級生と思しき相手が見当たらないことを確認し、それからどこか空いた席がないかを改めて探した。
 奥の方の、窓際の席ならば誰かに迷惑をかける可能性が少ないのではないだろうか。頭の中でシミュレートをしていると、ある一人の男子の姿が目に留まった。
 その途端、先輩に向けるものとはまた違った意味の緊張が体を駆け抜ける。ひとつ、ごくりと喉を鳴らし、彼の座る場所へと向かった。
 足音を潜め、背中側から回り込めば、彼が集中して本を読んでいる姿が目に入る。もしかしたら話しかけない方が彼のためなのかもしれない。チラついた考えに一瞬怯んでしまったが、堪えるようにぎゅっと胸の前で拳を握り込める。
 だけど、それでも、と頭の中で声を掛けるだけの理由を探したが、シンプルな私の強欲さが私を突き動かした。
君?」
 恐る恐る声を掛けてみると、首だけを捻って君が私を見上げた。本に落としていた視線が、私に向けられると同時に和らぐ。
 それだけで話しかけて良かったのだと、ほのかに胸の奥に温かなものが流れ込んでくるようだった。
「ヨォ」
 机の上に背表紙を押し付けるようにして広げたままにしている為、君が今しがたまで読んでいた本が漫画であることを知る。大きく長い指の隙間から覗く絵は、昔、アニメにもなったことがある往年の野球漫画のものだった。
「漫画読んでるの?」
「あぁ」
 頭を揺らしながら応えた君の、本を抑えていた方とは反対の手が翻り、彼の横にあった椅子が引かれる。座れ、ということなのだろうか。チラリと君の表情を盗み見れば、またもや彼は頭を揺らすだけであった。おずおずと進められるがままに席に着き、改めて君を見上げると、真摯な彼の視線が真っ直ぐに落ちてくる。受け止めきれなくて息を詰めたが、君は特に気にせず淡々と会話を続けた。
「いまうちのクラスで流行ってんだよ」
「そ、そうなんだ」
――女子が続き貸してくんなくて。気になって部活の先輩から借りた」
 溜息混じりに言った君は本を拾い上げ、右手の親指の力を抜いてパラパラと本を捲ってみせる。本の動作で作られた風で前髪が揺れる。くすぐったさを誤魔化すように額に指を這わせ小さく肩を竦めた。
 甲子園を目指す野球漫画を眺める君の様子に、胸の奥が熱くなるようだった。確かに野球漫画だが、その主軸は恋愛に重きを置いたものだ。いつも淡白そうに見える君が恋愛ごとに対して、気になる、というだけでなんだか戸惑いを覚えてしまう。例えそれが漫画であっても、だ。
 ほんの少し逡巡し、会話の糸口を探す。タイトルや大まかなストーリーは知っているが、如何せん情報がおぼろげで、掘り下げて話が出来そうになかったからだ。鈍い頭の奥の記憶を辿り、いつかバラエティ番組で見た懐かしのアニメ特集のワンシーンを思い出す。
「私もきちんと読んだことはないけど、ラストだけは知ってるよ! えっと」
「あぁ。オレも知ってる」
 私の言葉を遮った君は、持っていた本を机に置き、膝ごと私に向き直る。いつも変わらないまっすぐな君の視線を受けると、また一つ、胸の奥がじりっと痛んだ。
「谷地仁花を愛しています。世界中の、誰よりも」
 凛とした声に、元より静まり返っていた図書室内がより一層の静けさを深める。塵ほどのザワつきさえ感じられないほどの沈黙の中、近くの席に座った人たちの視線が君や私に浴びせられる。
「……だっけ?」
 軽く首を傾け、言葉を繋げた君は、周囲の動向を見守るような視線には気付いていないようだ。否、もしかして気付いていながらもあえて触れるべきものではないと捨て置いているのかもしれない。
 涼しげな目元を見れば、今の状況、そして紡がれた言葉さえもなんとも思っていないだろうことが伺われる。君は何の感慨もなく、しれっとした態度で、いつもどおり淡々と思い浮かんだ名台詞をなぞっただけなのだ。
 だが、当の台詞を受け止めた私はそんな平静を保った状態でいれるはずがない。
 言葉が出ない。ぽかんと開いた口で空気を取り込むことがうまくできなくて、口の中が一瞬にして乾ききってしまう。
 喉に張り付いた声が飛び出す気配すらないまま、君の目を見つめてしまう。
「間違えたか?」
 呆然とした私の様子を取り違えたらしい君は最終巻でもないのに、ヒントはないかと伏せたばかりの漫画の最後の方を捲って確認し始める。間違ったのは台詞ではなく、その行動だと誰か彼に教えてくれないだろうか。他力本願なことを考えたが、周囲には私のクラスメイトや彼の友達らしき人の姿もなく、それが叶う見込は全く感じられなかった。
 フルフルと顔を横に振るうことで示したが、未だに声が喉から突いて出てくる気配がない。喉元に手を当てて咳をしてみたが、それでもダメなものはダメだった。赤く染まりそうな頬を下を向くことで誤魔化す。君の空気に釣られたのか、いつのまにか自分の膝が彼のものと向き合ってたことに気付いた。
 自分の名前にアレンジされたことで、先程の言葉が、君のオリジナルの言葉なのだと錯覚してしまいそうだ。彼の紡いだ仁花という声を思い起こすと、頬に火を付けられたかのような熱が瞬間的に生まれた。愛しています、だなんて面と向かって初めて言われたから、免疫がないから致し方ないのです。
 誰に向けられるわけでもない言い訳を頭の中に思い描き、もうひとつだけ咳をした。
 揃えた膝をすがるように掴み、再度、君へと視線を戻す。まだ熱の残る頬は、もう隠しようがなかった。
「まだそこまでちゃんと読んでねーんだ。……今度ちゃんと正解読んどく」
 かち合ったばかりの視線が外される。まるで不注意で茶碗を割ったことを言い訳をする子供のように、バツの悪そうな顔をした君の耳がほんの少しだけ赤く染まっていることに気付いた。赤みがかった茶色い髪に紛れてはいるが、見間違えたということはないだろう。
 恥じ入った様子の君の戸惑いが、私への愛情を示す言葉が起因だとは思えない。それでも、いつもよりも豊かになった表情に、頬だけでなく、胸の奥にも熱が生まれてくるようだった。
 ――世界中の誰よりも、か。
 君の横顔を見つめながら、小さく深呼吸を繰り返す。少し落ち着きを取り戻したかと思えた心音も、彼の視線が私へと戻れば、また簡単に踊りだした。
 一瞥だけで翻弄されている今の状態では、彼の誓いが欲しいだなんて、交通事故でトラックとぶつかった今際の際でさえも言える気がしない。
 物騒なことを考えて気を引き締めていると、君の口元が軽く緩んだのが目に入った。
 



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