谷地 仁花03

手袋


 日中でさえ上がりきらなかった気温が、夜になるとさらに冷え込んだ。部活を終え、熱気の篭もる体育館から出たばかりということもあり、帰り道の寒さは痛いほどに厳しい。
 溜息をひとつこぼす。吐く息の白さを前に簡単に戦意を喪失した私は、首を竦め、巻いたマフラーに口元を埋める。そんなことで和らぐような気温ではないが、気休めと知りながらも行動に移すほかなかった。
「はぁーっ! さっむいね、谷地さん!」
「日に日に寒くなっていくよね。まだ12月なのに」
 不意に、背後から声がかかる。軽く横目で視線を上げると、鼻の頭を真っ赤に染めた日向が私の隣に駆け込んだ。
 ほんの少しだけ驚いたけれど、こんな風に突然現れる日向にも、以前と比べたら慣れてきたように思う。部室から出たばかりらしい日向は、手のひらを手袋にねじ込みながら「さっみー!」と悲鳴のような声を上げた。
 ――そういえば、今朝はちゃんと私も手袋を持ってきたんだった。
 武器は装備しなくちゃ意味ないぜ、なんてRPGでのお決まりの言葉が脳裏をよぎる。私もまた、日向に倣って忘れていた大事なアイテムを身につけよう背負っていたリュックを前に流し、中身を探った。
 程なくして手に触れた手袋の形を指先で確かめる。今朝方つけていたものとは、若干肌触りが違うなと思いつつも、形からして手袋だと判断し、えいっと一気に引き抜いた。
 掴んでいたのは、白地のテカテカとした生地で作られた男物の手袋だった。
 目にした途端、ドキリと胸の奥が高鳴る。
 私が今朝つけてきた手袋は、赤い毛糸の手袋で、今手にしている物とは似ても似つかない。私の手に余るほどの大きさの手袋が、正確には、捕手用の守備手袋だという説明を受けた記憶はまだ新しい。
 新鮮な記憶は、強く私の胸を締め付ける。この手袋の持ち主は、もちろん私ではない。
 ――予備だから、返すのはいつでも良い。
 昨日の帰り道、手袋を忘れて寒がる私の手を取って、守備手袋をはめてくれた君の言葉が耳に蘇る。朴訥なところのある君は、一見、ぶっきらぼうのように見える。だが、飾り気のない言葉の裏に、優しさと温かさを持った人だと私は十分知っている。
 ――あぁ、今日は君と会えなかったんだ。
 いくらいつでもいいと言われても、ずっと借りっぱなしと言うのは申し訳が立たない。だが、すぐに返さなければという義務感の裏に、それ以上の下心が隠れていた。
 そんな邪な考えを、神様が咎めたのかもしれない。君のクラスに足を運んでも、食堂を覗き込んでみても、結局、丸一日鉢合わせることは叶わなかった。こういう時、同じクラスだったらよかったのにな、と思う。
「あれ? 谷地さん、その手袋なんだかかっこいいね?」
 日向の声に弾かれたように顔を上げる。どうやら手袋を見つめている間、随分と俯いてしまっていたらしい。
「や、これは、えっと……借り物、なんだけどね」
「それ、のじゃないっすか?」
 妙な気恥ずかしさに耐えられず、手袋を日向から隠そうリュックに戻そうとしたところに、またしても他の人の声がかかる。いつの間にか追いついていたらしい影山君を驚いたように見上げると、その視線を受けた影山君も若干驚いたように目を見開いた。
「今日、昼飯ン時に言ってたんで……谷地さんがそれ、返しに来るかもって」
「ヒィッ! なんてこった……私は、善意で貸してもらったものをすぐに返さずぬけぬけと……君を裏切ってしまった……」
 穴があったら入りたい。いや、それでは君の誠意に応えることは出来ない。明日、いや、今すぐにでも土下座して謝罪の意を示さなければ。
 ぐるぐると後悔と罪悪感が胸の内で綯い交ぜになるような心地を味わいながら頭を抱える。
 あいにくグラウンドは遠いため、ここから様子をうかがい知ることは出来ない。だが、学校全体の下校時間は定められているし、バレー部も野球部も時間いっぱいまで練習をこなすことが慣例になっていることを考えれば、もしかしたらまだ君も校内に残っているかもしれない。
 部室棟にいけば、会えるだろうか。チラリと頭をよぎった考えに促され、踵を上げる。そんなことをしたって君の姿が見えるはずもないのに、逸る心が体に動きを促した。
 グラウンドへと今すぐ行くべきか。判断を迷っていると、日向が声を張り上げた。
「影山! お前、同じクラスなんだろ? 明日、その君ってのに返してやれよ」
「はぁ? なんで」
「谷地さんが困ってんじゃん!」
 日向の人差し指がこちらを示す。その動きにつられてか、影山君の視線もまた私へと差し向けられた。ふたり分の意識が傾いたことで、動き出しそうになった足をぐっとその場に縫いとどめる。
「……返した方がいいっすか?」
 溜息交じりのせいか、影山君の吐く息の白さがいやに目立った。顔をしかめているのはただ単に面倒くさいのか、それとも頼まれごとが嫌なのか。判別はつかない。
「え、いや……それは、その」
 俯きついでにきゅっと下唇を噛む。怯んでいるのは影山君の迫力が原因では無いことはとうにわかっていた。
 君のことを考えた時、嬉しいと思う反面、少なくない緊張感を覚えることが多かった。背伸びしたいような心地は、ひとえに彼に「悪く思われたくない」という思いが強く働くせいだ。
 もちろん借りた物は返さなければ、と思う。だけどその原動力が、果たして君を前にした時に、使命感だけではないと言い切れるのか。
 スムーズなのは影山君から返してもらうことだ。そう理解してもなお、私が、君に会いたいがために、申し出を断ることは正しいことなのか。
 正しさと我欲の間で揺れる。
 ――君はどう思うんだろう。
 そっと目をつぶり考える。声をかけた時、目の前に立った時、くんはどうだったっけ。
 表情はほとんどと言っていいほど動かない。目や口元が綻ぶのだって稀だ。だけど、その体だけは、いつだって、正面から私を迎え入れてくれる。何より君が、私が手袋を返しに来ることを想定しているなら、今度こそ、その気持ちに応えたい。
「自分で、返しに行きたいので……っ!」
 意を決して、影山君に答えた。思ったよりも大きな声が出たことに、日向や影山君だけでなく、私もまた驚いてしまった。
 数度、パチパチと目を瞬かせた影山君は、私に向けていた視線を日向へと流した。
「ほら見ろ」
 勝ち誇ったように口元を曲げた影山君は「何をー!?」と叫ぶ日向を軽くあしらい、ぐるりとこちらに顔を向ける。
。谷地さんに会うの楽しみにしてたから、自分で行ってやったほうがいいっすよ」
 飾り気のない影山君の言葉に、心臓が高鳴った。私に対し、影山君が甘言を弄するメリットはない。むしろ、試合中の「ナイス」だって上手く言えないような人だ。きっと、今の言葉も嘘偽りのない真実なのだろう。
「お前、いつからそういうの気にするようになったの?」
「っるせぇんだよ。ボケ」
 日向の軽口に対し、不機嫌さを露わにした影山君はぷいっとそっぽを向いた。ほんの少しだけ照れくさそうに唇を尖らせる様子に、影山君にもまた「気にする事情」が出来たんだろうと察してしまう。
 同志なのかもしれない。そう思うと、ほんの少しだけ口元が綻んだ。
「ありがとうっ! ちょっと、私、行ってきます!!」
「ああ! じゃあね! 谷地さん! また明日!」
「うんっ! また明日っ!」
 ふたりに手を振り、身体を反転させるままに駆け出した。
 外気に触れる頬がいやに痛い。生まれたばかりの熱が急速に冷やされていく感覚は、走る速度に比例して強くなっていく。
 それでも体の芯から生まれる熱は衰えない。会いに行かなくちゃ。ただひとつ、そう思うだけで、寒さが吹き飛ぶくらいの強い熱を感じた。



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