谷地 仁花04:疼く

057.疼く


 昼休みに入り教室でお弁当を食べたあと、そのまま友人らと連れ立って図書室へと足を向ける。控えめな音と共に戸を滑らせれば、廊下に比べると少し埃っぽい空気が肌に触れた。
 むずむずと鼻を刺激するような不快感に思わず眉を顰めると、隣を歩いていた友人がこちらを振り返る。

「仁花、大丈夫?」
「うん。平気だけど、ちょっとくしゃみ出そうかな」
「わかるー。毎日掃除してるんだろうけどなんか埃っぽいんだよねぇ」

 そう答えた友人の奥でもうひとりの友人がくしゃみをした。私たちの分を代わりに出してくれたのかと思うくらい、立て続けにくしゃみを連発した彼女にふふ、と笑いながら図書室の奥へと足を踏み入れる。
 雨の日や試験前には盛況な様子を見せる場所も、特に差し迫った状況にない今は思ったよりも人が少ない。選り取りみどりの空席に、どの辺に座ろうかと視線をあちこちに向けていると、カウンターの中に友人のひとりが座っていることに気がついた。
 今日は図書委員の当番だからお昼を一緒に食べれない。そう嘆いていた彼女は、私たちの姿を見つけるとしょんぼりとした顔に微かな喜色を浮かべて手を振っていた。
 せっかくだから、とカウンターの近くに三人分の席を確保し、各々の本を探すべく本棚へと向かう。今日はなんだか古い小説が読みたい気分。そんな気持ちと共に奥へと足を進め、整然と並ぶ本の背表紙を眺めて物色する。芥川龍之介。井伏鱒二。なんとはなしにあ行から順番に眺めていると、ふと、近くに人の気配を感じた。

「ヨォ」
「ひゃぁっ!」

 近くに人がいるとわかりつつも、まさか自分に声がかかるとは思っていなかった。背後からの奇襲に思わず大きな声を出してしまう。
 飛び出た言葉を引っ込めることなんて出来ない。それでも体裁を取り繕わないわけにもいかず、慌てて口元を手のひらで覆った。だが、そこかしこから感じるチクチクとした視線は突き刺さり続けている。居た堪れない気持ちを抱えたまま萎縮していると、声を掛けてきた人物がそっと非難の視線を遮るように間に入ってくれた。
 口元を覆い隠したまま、相手が誰なのかと視線を泳がせる。随分と見上げなければ目が合わないことに気付くと同時に、早合点した心臓が走り出す。期待と疑念が混じり合う中、視線をさらにあげれば予想通りの顔が目に入った。

「……君!」

 囁くように。それでも動揺と歓待を含んで君の名前を呼べば、私を見下ろしていた君は軽く頭を揺らして応じた。
 相変わらずあまり感情の乗らない表情をじっと見つめる。それでもまっすぐに差し向けられる視線には鋭さよりもやわらかさの方が多く感じられた。

「よぉ。また本を探しに来たのか」
「う、うん。今日は友達が図書委員の当番だから、それで」
「あぁ、なるほど」

 声をひそめて紡がれる声にきゅっと唇を結ぶ。クラスの違う君とは毎日しゃべれるわけではない。だけど移動教室の廊下や登下校時の昇降口よりも、この図書室で顔を合わせることの方が多かった。
 ――だから、よく本を探しに来ちゃうんだけど。
 紛れもない真実の裏に隠されたもうひとつの真実を飲み込めばごきゅっと喉奥が音を出す。変な音が出てしまったことに恥じ入って顔を隠せば、掌越しに君がこちらを覗き込んでいるのを感じた。
 見ないで、という代わりに片方の手を差し出してひらひらと振ってみれば、間近に感じていた圧が引いていく。

「そ、それで今日はどうしたの?」

 恥じらいによる熱の残る頬を片手で扇ぎながら君を見上げると、君はいつもと同じように「あぁ」と頭を揺らした。

「……古文の訳を写そうかと」

 言って、君はキョロキョロと周りを見渡した。古典文学の棚まで来たのはいいけれど、思うように本が見つからないと言った様子に小さく苦笑する。どうやら君は、授業の古典と小説のジャンルとしての古典文学の区別がついてないらしい。
 勤勉でないのは欠点と言えるかもしれないのに、その姿がどうしようもなくかわいく見えてしまう。無骨なスポーツマン然とした君を見つめたまま口元を緩めていると、目当ての本がないと察したらしい君の視線が戻ってくる。少し落ち着いた心境で迎え入れたそれに、今度は笑って返すことが出来た。

「そうなんだ。そっちのクラスは今どこやってるの?」

 クラスも違えば授業の進み具合も違うだろう。そう思い尋ねてみれば、軽く首を捻った君はまた本の背表紙の群れへと視線を向ける。

「どこだろうな」
「え?」
「最近、授業中起きてないから、知らね」

 しれっとした顔で続けた君の言葉に絶句する。だが、今から翻訳を写すということは、新しい作品に取り掛かるタイミングなんだろう。ならばうっかり作品名を忘れてしまってもおかしくはない。
 そんな想像と共に気持ちを立て直した私は、改めて君たちのクラスの授業内容を探り当てようと試みる。

「うちのクラス、最近、伊勢物語に入ったんだけど3組はどうかな?」
「いや、そんなかっこいい名前ではなかった気がする」

 顔を顰めた君は今、記憶を辿っている最中なのだろうか。眉根を寄せたまま強く目を瞑り、教科書に書いてあるタイトルをあれでもないこれでもないと口にする。

「あ、思い出した」
「ホント? なんだった?」

 程なくしてパッと目を開いた君に尋ねてみれば、自信たっぷりなのかやけにキリッとした顔つきが差し向けられる。

「かぐや姫」
「……竹取物語ね」
「違うのか?」
「モチーフ、かな」
「ふぅん」

 気のない返事っぽく聞こえる相槌を残した君は、いつものように二回頭を揺らす。彼が納得した時に見せる仕草に、ほんのりと口元は緩んだ。

「竹取物語の本ならこっちにあるから、行こう」

 言って、今いる一画から連れ出せば、君は大人しくついてくる。一見、厳つく見える風貌がまたどこかかわいく見えて、ますます表情は緩んでしまった。
 古文の翻訳に役立ちそうな本を数冊見繕い、中をめくる。その中でも翻訳と注釈がバランスよく書かれた一冊を「これがいいと思う」と差し出せば、君は「サンキュ」と受け取った。パラパラと中を検める君の視線が本へ落とされている間、そっと彼の表情を見つめる。
 涼し気な表情はとても授業に苦労しているようには見えない。それでも昼休みを割いてでも勉強に励むほどには焦りを感じているらしい。
 きちんと翻訳されたものを丸写しするのはあまり褒められた行為ではないだろう。けれど、授業に臨む上での予習として考えるのなら間違った知識を先に埋め込んでしまうより効率がいいのかもしれない。
 贔屓目にまみれた考えを思い浮かべていると、君が頭を揺らして本を閉じたのが目に入る。

「わかりやすそうだ。これにする。探してくれてサンキュな」
「うん! どういたしまして」

 ん、と頭を揺らす君に簡単に口元はほころんだ。
 ――少しでも役に立てたなら良かった。
 そんな気持ちと共に君を見上げる。言葉には出せなくとも何らかの感情が視線に乗ったらしい。「ん?」と軽く首を傾げた君は一度目線を斜め上に外し、再び目を合わせると微かに口元にカーブを描いた。真正面から受けた笑顔の破壊力に思わず視線を逸らしてしまう。

「そ、それじゃ、勉強の邪魔しちゃ悪いし私も読みたい本探してくるねっ」

 名残惜しさとともにバイバイと手を振り、踵を返してその場を離れようとした。だが、ベストの裾が何かに引っかかったような感覚が走ると簡単にその場に足は縫い止められる。
 軽く視線を落とせば、大きな手が私を引き止めているのだと気付く。それと同時に、その手が他ならぬ君のものでしかないことも――。

「うっ、えっ?! ど、どうしたの?!」
「……もう少し、勉強を教えて欲しいんだけど」

 一瞬で恐慌に陥った私に更なる攻撃が叩き込まれる。勉強を教える、とは。あまりの衝撃にたったそれだけの言葉の意味がわからなくなる。だけど耳に飛び込んできた君の声がじわじわと頭の中を侵食するにつれ、たった今、紡がれた言葉の意味がようやく脳裏に浮かび上がる。
 ――勉強を教えるって、君と一緒に勉強するって意味だ!
 とてつもなく頭の悪い答えだったが、あながち的外れではない。きっと、3年かけても君とは同じクラスになれない。そんな君と、ふたりでひとつの本を覗き込むなんて夢にまで見たシチュエーションを与えられている。たとえそれがこの昼休み限定であったとしても、あまりにも魅力的すぎる誘いにごくりと喉を鳴らした。
 だがその誘いに手放しで飛びつけない理由が頭を掠めると、途端に眉根を寄せてしまう。今日は単独ではなく、友達と一緒に図書室に来ている。仲のいい友人らを差し置いて君を優先するのはもとより、ただひとり輪を抜けるのも忍びない。それでも突然差し出された僥倖を振り払うのがあまりにも惜しい。
 葛藤に頭の中が「どうしよう」で埋め尽くされていく。両手のひらをこめかみに当てたままウンウン唸っていると、クイッとまたベストを引かれた。

「ダメか?」

 顔を顰めた君のぶっきらぼうな申し出とは裏腹に、私を引き止めようとする拙い指先が決定打だった。
 ――この申し出を断れば一生引きずってしまう。
 突如として閃いた直感に、つい先程まであった迷いが嘘みたいに消えていく。

「――シャチッ!」
「シャチ?」
「じゃなくて、ハイッ! です!」

 気持ちが前のめり過ぎたせいで、「ハイ」と「承知しました」が入り交じったような返事をしてしまう。突然差し出された海の生き物の名前に、君は不思議そうに首を捻っている。
 穴があったら入りたい。でも今は穴を掘る時間はない。
 産まれたばかりの羞恥を開き直るような気持ちでかなぐり捨て、自らの言い間違いを訂正した私は、軽く見開いた目を瞬かせるくんを見上げる。キョトンとした顔つきが目に入るとやっぱり簡単に胸の奥を掴まれたような心地に陥った。

「と、とりあえず、その、すぐに戻ってくるから、その前に一緒に来た子たちに断ってきてもいいかな?」

 しどろもどろな調子で尋ねる私に、君は「ん」と頭を揺らす。そのままベストの裾をつまんでいた指先から力を抜いた君は、図書室の一角を指で示した。

「あっちに座ってるから、後で来て」
「う、うん! また後でっ」

 勢いよく頭を下げ、取っておいた席に座っている友人らの元へと足を向ける。
 ――こいつは大変なことになった!
 舞い込んできた幸運に思わず口元を引き締める。そうでもしないと簡単に頬が緩んでしまいそうだったからだ。だが、その程度では私の興奮は隠しきれない。
 胸の高鳴りを制御する術を持たない私は、火がついたように熱い頬や耳を隠しもしないままふたりの元へと駆け込んだ。

「ど、どーした? 仁花」
「めっちゃ焦ってるじゃん」
「えっと、実は、その……」

 大した距離を走った訳でもないのに息は上がりきっていた。胸元を手のひらで抑えたところで呼吸も心音も整いそうもない。落ち着く気配すらないのなら、このまま説明するしか道はないだろう。浅い呼吸を繰り返しながら算段をつけた私は、意を決して喉を鳴らした。
 たった今、3組の君に会ったこと。そして今から君に勉強を教えること。だから申し訳ないが今日だけはあっちに行かせて欲しい。拙い言葉でもってその旨をふたりに説明する。
 全面に押し出された申し訳なさと、まだほんの少し隠しておきたい恋心。その両方を孕んだ説明は、正確に伝えられたかどうか。
 若干、危うい弁明になってしまったが、そこは常日頃から仲良く過ごす級友かつ花も恥じらう乙女同士。いち早く言葉の裏を察知した友人ふたりは、君の姿をちらりと確認した途端、顔色を変え「こっちはいいから!」と背中を押し出してくれた。
 激励にも似た後押しを背にすると恥ずかしいやらありがたいやら。
 ――きっと今度、根掘り葉掘り聞かれるんだろうな。
 頭に浮かんだ一抹の不安に思わず身震いしてしまう。一方的な片想いという立場上、どうしても申し訳なさが先に立つ。たとえ信頼してる友だちが相手であっても、君の話題なんて出せるはずもなかった。
 だけど、ここまで曝け出してしまったからには、もう隠し立てなんて出来ないはずだ。同じ話をするにしても、出来ることなら君に迷惑のかからない範囲で出来たら、と思う。
 あの子たちなら下手な噂で流したりしない。仲間内で盛り上がるだけに留めてくれるはずだ。そんな信頼だってある。だが、いくら友の有様を信じたとしても、照れくささが無くなる訳では無い。いずれ起こりうる尋問を想像しては喉奥で唸り声を上げてしまう。
 通り過ぎざまにそんな声を聞かせてしまったのだろう。近くに座っていた男子が目を丸くしてこちらを振り返る。咳払いをひとつ挟むことで喉の調子が悪いのだと装えば、不審者を見るような視線は離れていった。
 そのまま小走りで先程指定された席へと向かえば、頬杖をついて机の上に置いた本を捲る君の姿が目に入る。足音が耳に入ったのだろう。私が声をかけるよりも先に君はこちらを振り仰いだ。

「お、お待たせいたしやしたッ」
「あぁ。こっち座って」

 声を落として話しかければ、ひとつ頭を揺らした君は左手で空席の椅子を引く。ここね、と言うようにぽんぽんと座席を叩いた君に促されるまま隣の席に座ると、君が椅子を引きこちらに詰め寄ってくる。
 一冊の本をふたりで読むためとは言え、授業中の隣の席なんか目じゃないくらいの距離にまたしてもごきゅっと喉奥が鳴った。密かに熱を持つ頬を持て余したまま、本を覗き込む。
 ちゃんと竹取物語のページが開かれているのを確認し、君を振り返れば誇らしげな表情が目に入った。おもわず「ふふ」と笑った私の手元に君の手が伸びる。

「確認するから、貸して」
「あ、うん」

 本の表面を左手のひらで抑えた君は、反対の手でノートを縦に開く。教科書の拡大コピーを貼ったノートには、走り書きではあるものの既に君なりの翻訳が書かれているようだった。
 どうやら予習した内容が合ってるかどうかの確認のために図書室に訪れたらしい。誤解してしまった自分の落ち度に気付くと同時にヒュッと息を呑む。
 ――なんてこった! 丸写しするなんて誤解も甚だしい!
 本当なら今すぐにでもこの場に土下座して謝罪の意を示すべきだ。だがここはあいにく図書室で、騒ぎを起こそうものなら真っ先に当番であるクラスメイトに摘まみ出されることだろう。
 君に向かって両手のひらを合わせて心の中で「見くびってしまってごめんなさい」と唱える。突然拝み出した私に驚いたのか、キュッと目をつぶったまぶた越しに君が身動ぎするのを感じた。
 だが思わぬ勤勉さに驚いてばかりではいられない。勉強を教えて欲しいと言った君の期待に応えるためにも、ここはしっかり役に立たないと。
 眼前で合わせていた手のひらを拳に変え、机の上に下ろすと同時に君へ膝を向ける。いつの間にか自分の勉強に戻っていた君はノートと本を見比べては書き直したり注釈をつけたりしているようだった。 
 初めは大人しく見守った。だがせっかくノートに書き記した訳を消す動作が異様に多い。というか、ほぼすべて消しているのに気付くと途端にソワソワしてしまう。
 丸写しとほぼ変わらない量を書き連ねる君に違和感を覚えながらも、時折投げかけられる質問に答えるうちに意識は逸れた。単語の意味や、その行に纏わる簡単な解説を伝えれば、君は「ふぅん」と応える。
 ――やっぱり勉強に対する姿勢はちゃんとしてるんだよなぁ。
 この場で見た限り不真面目さなんてちっとも感じられない君の様子に、ほんの少し唇を尖らせる。「影山とは補講仲間だ」と豪語したのは他ならぬ君だ。まるで危機感のない顔つきに「大丈夫かな」と訝しんだ記憶もまた蘇ってくる。
 あの時は言葉の通りに受け止めたが、もしかして過剰すぎる謙遜だったのだろうか。そんな不安がもたげるほど勤勉さを感じる君の態度に、彼の弁とのギャップに悩んでしまう。
 だが、一度浮かび上がった君優等生説も、予習箇所のすべてを消しゴムで消す姿を目にしたことでパッと消え失せた。

「オレ、前から疑問に思ってたんだけど」

 眉尻を下げて動向を見守っていると、半分ほど修正を終えた君が不意に口を開いた。先程までは「ここってどういう意味?」と質問されていたこともあり、特に困ることなく解説を続けることができた。
 だがここに来て君発信の疑問を投げかけられるとなれば話は変わってくる。君の意図を汲んで、質問にあった解答を差し出さなければならない。緊張と責任感が降りかかると、伸ばしていた背筋がさらに伸びるような心地に陥った。
 
「うん、どうしたの?」
「古文に出てくる奴らはどうしてやたらと人を蹴るんだ? しかも内緒にしてんのか訳に出てこねぇし」

 ムッと顔を顰めた君の発言に思わず首を捻る。蹴鞠をする描写はともかく、人を蹴るだなんて場面はなかったはずだ。
 だが教科書の内容すべてを覚えているわけではないし、古文には本筋の訳とは別に違った視点での意味を織り交ぜていることも少なくない。もしかしたら君もその辺りに気付いているのかもしれない。
 新たな知見を探るように手近にある本を覗き込んだ。だが、君が言うようなバイオレンスなシーンは見つからない。首を捻って隣を微かに見上げると、君はとある文末をシャーペンで突いた。その示した先に書いてあった二文字に思わず喉を鳴らす。

君……もしかして、その……けりってどう訳してる?」
「どうってケリは……足技?」

 少しだけ言葉を探した君の的はずれな解答に椅子からずり落ちそうになった。

「けりは足技じゃないよ」
「じゃあキック?」
「oh……」

 突然の英訳に思わず欧米的な反応を返してしまう。芳しくない反応に合点がいかなかったのだろう。君はうっすらと眉根を寄せて首を捻った。あいにくここには古文用の辞書はない。訂正するにしてもどう話したものかと頭を悩ませながら、そっと君のノートに視線を向ける。
 自力で訳した形跡が残る走り書きに目を滑らせていると〝えいでおはしますまじ〟の横には〝もうすぐいらっしゃいますマジです〟と書かれていた。正反対の翻訳に頭の奥が痛くなる。

「けりはキックじゃなくて〝~したんだって〟って他の人から聞いた話をしてる時に使われる単語だよ」
「あぁ、だからここの会話文の訳ってそうなるんだ」

 軽く解説してみれば、君はすんなり理解してくれた。色よい反応に軽く身を乗り出して先程見つけた誤答を指し示す。

「あとここの〝まじ〟は打消推量って言って、~しないだろうって意味ね」
「なるほど。覚えた」
「ホント?」
「まじは今と違って否定っぽいやつ」

 君なりの解釈を交えて差し出された解答に、音を出さない拍手で応える。誇らしげな顔つきに自然と口元がほころんだ。

君、ちゃんと勉強したら成績良くなりそうだよね」
「あぁ、それはよく言われる。やればできる子ってやつだろ」
「そこまで酷い意味ではないよ?!」
「いや、まぁやってねぇのは事実だし」

 別に悪いように聞こえたわけじゃない。そう続けた君のさっぱりとした表情に軽く目を瞠る。「やってない」という申告に「やればいいのでは?」と返すのは容易い。だけどバレー部に入ってわかったが、部活に入っていると思ったより勉強の時間が取れない。
 マネージャー業の私ですらそう思うんだ。選手として野球部に所属している君には、時間のなさに加えて深い疲労も重なる。少ない時間をやりくりする中で勉強する時間を削ってしまうのは致し方ないことのように思えた。

「特に古文は授業中寝てしまう」
「……それはダメだね」

 予習復習の時間を削るならともかく、授業中の居眠りはいただけない。つい先程まで抱いていたかばい立てするような気持ちをかなぐり捨てれば、君は眉根を顰めてこちらを見つめた。

「だって古文の教師じーさんなんだもん。ああいう声、眠くなる」
「そっか。たしか3組はおじいちゃん先生だもんね。〝睡魔の魔術師だ〟って噂でも聞いてるよ」

 柔らかい物腰と丁寧な言葉遣い。おじいちゃん先生なんてあだ名がつくくらい親しまれている教師ではあるが、言葉巧みに生徒を眠らせる魔法の使い手だとかなんとか。たしか君と同じクラスの影山君も「古典は起きてられない」なんて嘆いていたっけ。
 5組の担当は別の先生だから授業を受けたことはないけれど、廊下で見かける佇まいに「この人が例の魔術師……」と息を呑んだ経験は片手の数ほどあった。
 
「あとで寝てた分を取り戻そうにも教科書の下に書いてある単語だけはやっていけないし、正直困っている」

 開いたノートの上にシャーペンを転がした君はぽつりと不満を零すと薄い唇を尖らせた。自分に非があると知りつつも相手も悪いと言いたげな口調に軽く眉尻を下げる。
 ――案外、こどもっぽい主張も口にするんだな。
 君の新たな一面につい口元を緩めそうになる。不満だけ言うのならちっともかっこよくないけれど、間違いだらけであっても勉強しようと足掻く姿はこちらに好印象を与えた。

「あ、そうだ」
「ん?」
「アンタが解説してよ。そしたら覚える」
「えっ! わ、私が?!」

 君に対する想いを確信していると、不意に予想外なところから切り込まれた。
 覚えると断言した君の心意気には素直に感心する。だけどあいにく私は魔法使いではなくただの一般人だ。相手を眠らせるのはもとより、口にした言葉を相手の記憶に残すなんて技は習得していない。

「私なんかじゃ無理だよ」
「いや、アンタの言葉なら耳に残すし、記憶力はまぁ、自信あるから」

 残るではなく、残す。意志を持った宣言に思わず目を見開いた。さっきから、なんだか心臓のあたりがゾワゾワする。好意的な言葉を差し出されているみたいだと早合点してしまうとなおさらだった。
 君が私を口説き落とそうとしているのはあくまで自分の勉強のためだ。そう予防線を張ってもなお、君に頼られているのだと誤解しそうになる。

「そ、そうなの?」
「あぁ。キャッチャーだからな。試合展開を丸覚えするのに慣れてるのもあるけど……アンタが教師なら授業内容全部覚えるよ」

 軽い相槌を挟めばそれ以上の言葉が返ってくる。淡々と紡いだ君は何の気なしにその言葉を吐いただけかもしれない。 それでも〝私が教師なら〟なんて前提をつけられると〝私の言葉だから覚えるのだ〟なんて自分に都合のいいように捉えてしまいそうになる。
 そんなおこがましい考えを頭に浮かべるなんて、恥知らずにも程がある。今すぐにでもこの身内を燃やすほどの熱をどうにかしなければ。そう考えたところでこの場に扇風機はもとよりアイスやうちわがあるわけではない以上、自力で発散するほかない。
 せめて呼吸だけでも、と口をすぼめて「ふぅん?」と口にしながら息を吐き出した。だが、何も気にしてないと装ったところで、君には通用しなかったようだ。ついさっきまで無表情にほど近い顔つきだった君が誇らしげに笑う。いたずらめいた表情は「押せば落ちる」と確信しているようだった。
 もちろんその落ちる先は「勉強を教えてもらえそうだ」という確信であって、恋を孕んだものではない。他意はないと知りつつも翻弄されてしまうのは惚れた方が負けという通説通りのものなのか。
 冷静な考えを頭に並び立てることで、またしても増幅されそうな熱を追いやろうとした。だがそんな微かな抵抗なんて、通用するはずもなくこちらをじっと見つめる君と目を合わせてしまえばまたひとつ胸の奥に炎が燃えた。




error: Content is protected !!