山口 忠03

少しだけ特別な朝


「忠、おはよう」
 学校へ続く道の途中。不意に背後から声をかけられた。耳に良く馴染む伸びのある声。女子の中で、俺の名前をそう呼ぶ相手は一人しかいない。
「おはよー、っち」
 確信めいた気持ちとともに、振り返りながら言葉を口にする。交差した視線が捉えたのは、やはり想像したとおりっちだった。っちは眠そうな目をますます細めながら俺に笑いかけてくる。
「珍しいね、ひとり?」
「うん、今日はまだツッキーと会えてないんだよね」
「寝坊してんのかな」
「さぁ……どうかな。でも風邪とか病気とかじゃないといいよね」
 歩きながらも自然と隣に並んだっちの歩調に合わせる。学校までの距離はもう半分も残っていないが、わざわざ別々に登校するという選択肢は俺らの間にはない。朝練がない日だとこうやってたまにっちと一緒になるが、どちらからとも無く声をかけて一緒に行くというのが習慣づいていた。
「風邪だったらお見舞いに行ってあげよっか」
「そうだね! でも喜ぶかなー。うるさいとか迷惑とか言われそう」
「まぁね。でも行かなきゃ行かないで拗ねそうだわ」
「たしかに!」
 ニシシっと笑うと、似たような笑顔をっちもまた浮かべていた。ちょっと意地の悪い笑いかただったけれど、そこに悪意は微塵も感じなかった。虫取りに成功した少年のようなイタズラめいた笑顔は、見ているこっちの気分まで心地よくさせる。
「……っと。危ないよ、忠」
 言葉とともに、っちの腕が俺に伸びる。ぐいっと強引に引かれたことに焦ったのも束の間で、俺のすぐ真横を結構なスピードを出した車が通り過ぎていった。おそらくぶつかることはないと踏んでのスピードだったんだろうが、話に夢中で後ろから来る車に気付けなかったことも相まって、にわかに肝を冷やす。
「あ、ありがと……」
「いや……平気?」
 胸の上を手のひらで抑え、心臓の速さを感知する。俺のたどたどしいお礼の言葉を耳にしながら、走り去る車に一瞥を向けたっちは、改めて俺に向きなおり心配するように眉根を寄せて首を傾げた。
「いやー……っちってたまにかっこいいよね。俺もちゃんとしなくちゃなー」
 正直な感想と、冗談めいた自虐を織り交ぜ、照れ隠しに後ろ頭を掻いてみせる。俺の発言を受けたっちは心底不思議そうな顔をして頭を更に傾けた。
「なんで? 忠は充分ちゃんとしてるよ」
 ハッキリと言葉にしたっちは、俺を見上げ、目元をほころばせて笑う。
「自信持て、忠」
 ニッと笑ったっちの言葉の強さに、なんだかますます萎縮してしまうような気持ちが生まれてくる。劣等感とはまた違う。複雑な心境が胸のうちを行き来する。
「そういうとこも負けてる気がする」
 苦笑いを浮かべ、正直に告げる。勝つとか負けるとかじゃないんだろうけれど、今、っちに感じたのは明確な敗北感だった。
「なんだなんだ。それじゃまるで私が男として忠に張り合ってるみたいじゃないか」
 そんなことはしないとばかりに呆れた顔をしたっちは腰に手を当てて胸を反らす。別に俺自身も普段から彼女に対して劣等感を抱いているわけではない。ただ、いつも堂々としているっちや、周りの視線には動じず自分の領分はきちんと守りきるツッキーがなんとなく羨ましくなったのだ。
 説明しづらい感情を口に出せず、曖昧な笑みを返してみせると、っちは片眉を上げて唇を尖らせた。
「じゃあ、こういう感じにすればいいの?」
 え、と思ったのも束の間で、するっとっちが俺の腕に自分の腕を絡めた。頭を傾けて俺の腕に甘えるような仕草で絡みついたっちは妙に甲高い声を上げる。
「忠くぅーん! カバン重いから持ってぇー!」
 恐らくそれがっちにとっての精一杯の女子っぽさだったんだろう。ギャグとして受け止めればいいのだと頭では分かっていたが、咄嗟にその判断が取れなかった。そのくらい、っちの行動は、普段の彼女をよく知る俺から言わせれば突拍子もないものだった。
「ちょ……っち?!」
「あははっ。冗談だよー」
 カラっとした態度で笑うっちは、俺のよく知る彼女の姿だった。一瞬詰めた息を、安堵と共に吐きこぼす。
 腕を絡め取られたのはほんの一瞬で、すぐさま解放された。そしてっちの言うとおり冗談だ、というのは真実だ。ただ、かよわい女子を演じたっちのデータは偏っていると声を大にして言いたい。っちがよく読む少女漫画のヒロインはそんなことをしないはずだ。
 なにより、こんな往来で簡単に男にくっついたりしたらダメだ。俺は大丈夫だとしても、あらぬ波乱を生みかねない。
「ダメだよ、そういうことやっちゃ!」
「え、なんで?」
 急に俺が大きな声を出したことに驚いたのかっちは目を丸くして俺を見上げた。俺の怒りのポイントが微塵も理解出来てない様子を見せるっちに、どこから説明したらいいのか考える。だが、少なからず突然のことに動揺してしまっていた俺は、考えがまとまらないままに言葉を発していた。
「だ、だって他のやつらから、その、付き合ってるって誤解されないかなって」
「あぁ……そういう誤解なら私は慣れてるけど……まぁ、忠まで巻き込んだらダメだよね」
 恐らくツッキーと付き合っているんだと誤解され続けた中学時代のことを言っているのだろう。目を細めつつ顔を顰めたっちの表情は、中学の時に、散々クラスメイトからツッキーと付き合っているのかと詰め寄られた時に見かけたものだった。
 その渋い表情は久々に見たな、と思い返す。クラスが違うから頻度が少ないというのもあるが、やはり高校生になって、周りも含め大人になった、ということなのかもしれない。
 珍しさと懐かしさが胸に沸き起こり、笑みをこぼす。だが、まだっちを注意すべき点は、残されている。ほかのやつらに誤解されることなんて、それに比べたらかわいいものだ。
「迷惑じゃないよっ!」
 最大の問題点は、そこじゃない。切実に訴えなければ、俺の立場が危うくなる。保身に塗れた考えだけど、そこはちゃんと伝えておかなければ、次、っちが同じように振舞った時に、無事で済まされるとは限らない。
「……ただ」
「ねぇ、なにやってんの」
 ただ、ツッキーは怖いかな、だなんて続けようとした言葉は飲み込まれてしまった。俺は特別耳がいいと言う訳ではない。だが、長年の友達の声を聞き間違えるほど愚鈍ではなかった。今だけは違えばよかったのに。そう願いたくなるほど、彼にだけは、見られたくなかった。
「やあ、おはよう。ツッキー」
 振り返り、声をかける。慣れた挨拶の言葉だったが、いつもツッキーに向けるものよりも、若干堅苦しいものになってしまった感は否めない。だが、俺の堅さなんてかわいいもんだ。顔を歪めて俺を睨み下ろすツッキーは、俺の表情よりも頑なな心境を表していた。
「ねぇ、なんでお前たちが朝からイチャついてんの」
 暗い感情を隠しもしないツッキーは、俺とっちを見比べて深い溜息を吐きこぼす。目の前に分厚い壁が出来たような心境に、先程、車が背後を通ったとき以上の焦りを感じる。
 弁解をしなければ。でもどこから?考えれば考えるほど、思考が空転する。曖昧に笑いかけてみたものの、うまく笑えた気がしない。
「月島、おはよー」
 重苦しい空気が読めないのか、あえて読まないのか、そもそも読む気がないのか。っちがあっけらかんとした態度でツッキーに歩み寄る。そんなっちの態度を見て、とうとうツッキーは大きく舌を打ち鳴らした。ツッキーの態度の悪さを感じ取ったっちは、低血圧?みたいな顔をして俺へと視線を向けてくるものだから、俺は思わず頭を抱えてしまう。
 飄々としているっちはもっとツッキーから好かれていることを自覚した方がいい。




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