いつ甘中学時代:02

星の数ほど、ありがとう


「月島。水無いんでしょ。これ、飲みなよ」
 体育祭の練習中に、飲み物を切らしたらしい月島に、買ったばかりのポカリを差し出すと、月島は私を睨みつけながら見下ろしてくる。
 機嫌の悪そうな表情を向けられても腹が立たないようになったのはいつからだったか。
 今更怖いということはないけれど、選択を誤ったのだろうかと一瞬怯んでしまう。もっとも、その選択というのは些末事で、ポカリよりアクエリの方が好きだっただろうか、というものだ。普段月島が飲んでいるエネルゲンは売り切れてたから、諦めてくれというほかない。
 月島は口元をへの字に曲げたまま、私の持つポカリに指先を掛け、一度小さく口を開いたけれどそのまま何も言わず黙って受け取る。
 最近、というか昨年頃から、月島がこうやって言葉を飲み込む仕草を見せることが増えたように思える。指摘してしまえば、からかいというには収まりがつかない、もっと陰険で厭味ったらしい言葉が矢継ぎ早に飛んでくることが解っているので突っ込まないけれど、それでも気になってしまう、
 月島のことをよく解っている忠が居れば、どういう感情が現れているのか解説してくれるのに、と少し残念に思う。
はちゃんと水分取ってんの?」
 首元にペットボトルを当てて涼を取りながら月島は言う。その目元が先程のように尖っていないのを目にし、小さく口元を持ち上げて頷くと、月島は目を細めた。
「そう……あんまり張り切って倒れても知らないからね」
 月島の手が翻り、ペットボトルの底で額を押し付けられる。ひんやりとしたその感触が心地よくて、なにをするんだ、なんて怒る気も失せてしまう。
「中学最後だからね。結構気合入ってる」
 拳を作り、肩の高さまで持ち上げて見せると、月島は小さく唇を尖らせた。何事にも冷めた態度を取る傾向の強い月島からすればこういうの暑苦しいのは嫌いなんだろう。
「……応援団なんか入っちゃって」
 顔を背け、益々苦々しく呟いた月島は、ペットボトルの底で私の頭を押しのけるように力を入れる。思ったよりも力強い不意の攻撃に弾かれ、たたらを踏んで後退すると倒れるのを警戒したのか、月島の手がこちらへと伸び、腕を取られる。反射的に「ありがとう」と告げると、月島はまた小さく口を開きながらもそのまま閉口した。
「チアだってば。本番はちゃんとかわいい格好するからね。見とけよー?」
「自分でハードル上げれるほど自信あるんだ」
 つい今しがた浮かべた表情を一蹴し、眉を八の字にした月島は、声に出して笑う。こういう嫌味を言う時ほど、月島がきらきらして見えるんだから、私も大概だなぁと内心複雑な感情が胸に宿る。
 笑い疲れたのか、小さい嘆息を吐き出し、私の手を放した月島は、そのままひらりと手を翳して水道の方へと歩いて行く。
 背が高い割に成長の追いついてない細い背中が倒れやしないかと不安に思いつつ、自分の後頭部に手をやる。思いの外、日光の熱を吸収しているようで、手のひらにその熱がすぐに移る。熱を逃がすために髪の毛を掴んで風を送るように梳いていると、月島と入れ替わるようにしてこちらへと忠が掛けてくる様子が見えた。
っちー!」
 大きく手を振った忠が、同じように大きな声で私に呼びかける。私もまた手を振り返すと、程なくして目の前に忠が辿り着く。月島と比べたら幾分か緩やかだけど、それでも忠も見上げないと目線がかち合わない。
 人好きのする笑みを浮かべた忠に見下ろされても嫌な感じがしないのは忠の人徳の成せるわざと言ったところか。
「チアの衣装合わせ、明日に延期になったんだってさ。隣のクラスの子が言いに来たよ」
「え、そうなの?」
「うん、なんかまだ縫えてないパーツが見つかったんだって」
「まじかー……。態々教えにきてくれてありがとうね」
 へらっと笑って答えると、忠は自分の後頭部に手をやって照れた素振りを見せる。素直なその仕草に、また別の笑みが浮かび上がる。
 視線を私の目元に向けた忠は、その丸い目を更に丸くさせ、小首を傾げた。
っち元気なくない?平気?」
「いや、元気よー。やる気に満ち溢れてるよー」
 茶化すような言葉を選び、忠に告げる。眉を下げた忠は少しだけ前傾して私の顔を覗き込む。
っち、汗、垂れてる」
 言って、忠は右手をこちらへと伸ばし、私の首にかけたタオルを掬い、そのまま額に押し付ける。ついさっき月島につけられたペットボトルの水滴が付着していたのだろう。
 お風呂あがりの子供が母親にそうされるように、目に入らないようにと片目を瞑って、忠の為すがままにされる。肩に少しだけ力が入った感は否めない。
 忠が時折見せる、こういう頓着無い優しさに、たまにドキッとしてしまう。
 月島がこんな風に優しくしてきたら、多分ドキッとする以上に気でも触れたのかと心配になってしまいそうだけど、と頭の片隅で思った。
「うん、ありがとう……って、忠の方こそ、結構汗びちゃじゃん」
 言って、自分が拭われたばかりのタオルを引っ張って、使ってない側の面を忠の頬に押し当てる。指で掻かないように慎重に撫ぜると、忠がきゅっと目を瞑って耐えているさまが目に入った。
「うぅ…ありがとう」
 タオルの隙間から忠の声が漏れる。喉に張り付いた声を絞り出したような呻きに、痛かったのだろうか、と手を放す。恐る恐る目を開いた忠は、私に一度視線を向け、そのまま、まばたきをして横に流した。
「これ、結構照れるね」
「言っておくけど、忠が先に仕掛けたんだぞ」
 赤くなった頬は、私が力強く擦ったせいではないことは明白だった。私がさっき感じた類の照れくささををそのまま忠も味わったのだろう。
 わざとらしく男っぽい口調で告げると、忠は首の裏に手をやって笑った。
 小さく息を吐いた忠は、その細くした眼差しを普段のものにすると、こちらへまた視線を投げかけてくる。
「ねぇ、っち。もしかしてさっきツッキーと話した?」
「あぁ、月島が水切らしたみたいだったから買ってたポカリ渡したんだ」
 ドリンクボトルを口元で傾け、顔を顰めた月島のことを忠も見ていたらしい。飲みかけのドリンクをそのまま渡そうとしたら断られたことを告げられる。回し飲みなんてしなさそうだもんな、と妙に納得した。
「だからかぁ」
「なんで? 何か言われた?」
「さっきっちのとこに来る前にツッキーとすれ違ったんだけど、ちょっと嬉しそうに見えたから」
 解りにくいけど、と付け足した忠に、つい先程月島と交わした会話を思い返す。
「それ多分、私のことバカにしてるだけだよ」
 チアの衣装の話をした時の月島の反応を伝えたが、忠は首を傾げ、さらに口元を曲げる。納得していないような、困ったような、そんな表情だ。
「そういう類じゃなかったけどなぁ」
「……忠は凄いな」
 感嘆の声を漏らすと忠は目を丸くする。中学入って2年半ほど経って、月島の微妙な表情を目の当たりにしてある程度どういう感情なのかは解るようになったが、それがどういう種類のものなのかはまだ察することが出来ない。小学校の頃からの繋がりは伊達じゃないということなのだろう。
 月島マイスター。略して月島イスター、なんつって。月島の前で言ったら確実に罵詈雑言が飛んでくるだろうことを思い浮かべると同時にクスリと笑ってしまう。その笑みを見た忠に思いついたばかりの単語を伝えると「マエストロの方がかっこいいんじゃないかな」と乗ってくれた。
「でもさ、っちもちゃんと解ってるでしょ」
「いやぁ、さすがに喜んでるかまでは確信持てないよ」
 嫌われてないという自信があるからこそ、拒絶されていないくらいはわかるけれど、どのレベルで受け入れられているかはさすがに判別つかなかった。さっき忠にやったように、自分のタオルで月島の汗を拭うような真似は、絶対にできない。そうすれば簡単に月島は私をシャットアウトすると思う。その程度のことが理解できるレベルでしかない。
 ふぅ、と大きく肩で息を吐きだすと、思ったよりも重い空気が口から飛び出した。それと同時に眼の奥がチカチカと光る。
「ねぇ、っち。ホント大丈夫?」
「ん?」
 心配そうな忠の声に反射的に振り仰ぐと、光ったと思った視界が暗くなる。それは忠の顔が近付いたせいではないことは薄々気付いていた。
「顔色悪く見えるよ?」
「いや、そういう意識はないけど…」
 その言葉が口から出任せであることは明白だった。忠の顔が歪む。身体が傾ぐよりも先に、忠の腕が私の体を支える。ありがとう、というより先に、足から力が抜けた。

* * *

 まだ眼の奥がチカチカと痛む。それでも薄く目を開くと、見慣れない天井が目に入る。
 どこだ、と思うよりも先に、忠の顔が割り込んできた。泣きそうなほどに八の字になった眉根に、ぼんやりとした記憶が蘇り、心配をかけてしまったことを知る。
っち、大丈夫?!」
「あぁ、うん。多分、忠が心配してるよりずっと元気だと思う」
 倒れる直前と同じように顔を歪めた忠に、そう告げると微かにその眉根が緩む。軽く視線を左右に振ると、あまり見かけたことのない部屋にいることが解る。
 肘を曲げ、それを支えに上体を起こして見渡せば、薬剤のような瓶が並ぶ棚が目に入る。薄汚れた白いカーテンの向こうに見える景色や、背もたれのない丸椅子が乱雑に置かれている様子からして、恐らく保健室なのだろうと推察する。
「保険医がね、他に体調悪い人がいないか見に行ってるんだ」
 私が視線を巡らせてることを目にし、現状を告げた忠に「そうなんだ」と気のない返事をする。まだ少しだけ頭の奥がぼうっとしている。首の裏に敷かれていた氷枕を持ち上げ、頬に当てると、ゴムと金属の織り交ざったにおいが鼻についた。
「ゴメンね。元気とか言いながらすっごい迷惑かけちゃった」
「や、全然、いいよ! それよりっちが具合悪くするくらい頑張ってるの知ってたのに、俺の方こそ気付けなくってごめん!」
 頭を下げると忠の手がそれを押し留めるように触れる。同時にカラカラと扉を引く音が耳に入り、そちらに視線を向けると、月島が入ってくるのが目に入る。怪我でもしたのだろうか。心配になって忠の肩に手を伸ばし、そのまま腹筋の要領で起き上がると、その動きを目に入れた月島の端正な顔が歪んだ。
「ツッキー!おかえり!」
「……、起きたの?」
 短い問いかけに、うん、と頷いて返すと月島が荒い足音を立てながらこちらへと近寄ってくる。忠が座った椅子よりも、頭側の方の椅子に腰掛けた月島は憮然とした表情で私を睨めつける。心配してくれたんだろうか。でも怒っているようにも見える。あぁ、でも倒れたことを怒っているというのなら、心配かけんじゃないといった感情が合致するのかもしれない。
 月島の考えが読みにくいのは今に始まったことじゃない。殊更、自分に向けられるものに関してはそれが顕著になる。
「目眩は?」
「あぁ、それはもう無いよ」
「そう……」
 興味なさげに相槌を打った月島の手が伸び、掻き抱いたままだった氷枕を取り上げられる。何故、とそれを視線で追えば先程置かれていた場所に戻されたのが目に入った。
 翻った手の平が、そのまま私の額に触れたかと思うと同時に、存外強い力がそこに掛けられる。力なく仰臥させられた私の後頭部に、水枕が触れ、ちゃぷんとその音が伝わる。チラリと月島に視線を向けたが、月島はこちらを向いておらず、それでもその手の平は労るように私の額の上で跳ねた。
 寝ておけ、ということなのだろう。解りにくいけれど確かにそこに少なくない情愛があることを感じて、頬に熱が集まりそうだった。口元を手の甲で隠し、視線を逸らしたままの月島を見つめる。私の視線に気付いたのか、こちらを振り返った月島はまた口元を尖らせて、何かを私の額に乗せた。冷っこい感触に反射的に小さな悲鳴を上げると、満足そうに月島は笑う。
 月島が手を離すと、それが鼻先を掠めて顔の横に転がり込んでくる。顔だけをそちらへ傾けるとOS-1というロゴが書かれたペットボトルが目に入った。学校の自販機や売店では買えないそれを月島がどこで入手したのか考えると、簡単に胸を締め付けるような感触が走った。
「……わざわざ買って来てくれたんだ」
「ありがとう!ツッキー」
「なんでお前が御礼言うの、山口」
「ゴメン! ツッキー!」
 よく見かける二人の会話に、クスっと笑ってしまうと、月島の苛立ちが瞬時にこちらへ向かう。
も何笑ってんの」
「ゴメン、ツッキー」
 ワザと忠の真似をして言うと、益々月島は眉根を寄せる。その奥で忠が「それ俺の真似ぇ!」と悲痛な顔をして呻いた。その2人の表情にやはりまた笑ってしまう。
「ホント、忠は素直でかわいいなぁ」
「なにそれ僕が嫌なやつだって言いたいわけ?」
 敢えて触れなかった部分に、月島は噛み付いてくる。こういうムキになった月島が珍しくて忠へと伸ばしていた視線を月島に戻す。怒っているせいか軽く前傾した月島に顔を覗き込まれる。寝ている状態でそうされると変に意識してしまいそうになる。普段は私のそういう変化に聡い月島も、怒ったら目に入らなくなることもあるのだろうか。手の甲で鼻の下を擦りながら、月島の言葉を待つ。
「だいたい、人に気を使って自分が倒れるなんてバカ過ぎるにも程があるんじゃないの。 結局、僕や山口に迷惑かけてさ。ホント、本末転倒っていうか。僕にお節介焼く暇があるなら自分のことをまずちゃんとしなよ。バカって呼ぼうか、今度から」
 饒舌に文句を捲し立てた月島はまたその鼻先を私から背ける。バカだなんてストレートな物言いを付け足した月島に思わず目を瞬かせてしまう。言葉だけを拾えば罵倒にしか聞こえない。声だって怒気にまみれていた。だけど、月島の全身から噴き出すような心根が伝わってくる。
 答え合わせのように忠へと視線を伸ばす。月島越しに見えた忠は、月島を見て微笑んでいる。きっと、私が出した答えと同じものを月島から感じ取ったのだろう。
「ありがとう、月島」
 月島に視線を戻し、そう告げると、顔を歪めた月島が私を振り返る。
「ハァ? 僕、君に文句言ってるだけなんだけど。それで御礼言うなんてマゾなの? ってそういう性癖の人なわけ? 気持ち悪い」
 心底嫌そうに吐き捨てられた言葉に苦笑する。月島の奥で忠が肩を竦めたのが目に入り、私もそれに口の動きだけで「ね」と返した。
 ベッドの縁に投げ出されたままだった月島の手に、私の手を伸ばす。振り払われるのかと思ったそれは瞬時に硬直したものの、簡単に包み込むことが出来た。
「でも、心配してくれてるように聞こえたから」
「心配って……」
「うん。だから、ありがとう、月島」
 今一度、ストレートにそう告げると、握られたままになっていた月島の手に力が入る。握り返されたというよりも縋りつくといった方が適切なそれは、月島の葛藤の表れのように思えた。
 仰臥したまま少し頭を移動させ、月島の顔を覗きこんでみる。悔しそうに奥歯を噛み締めつつもその唇の先が少しだけ震えている。あぁ、これが忠の言うところの「喜んでる顔」なのか。
 思い返せば、結構こういう表情を見せていた気がする。さっき私が月島にペットボトルを渡した時も、同じ顔をしていた。
 もう少し見たいな、と更に頭を動かすと、月島の膝頭にこめかみが当たる。それで漸く私が近付いたことに気付いたのか、月島はすぐさまその表情を引っ込め、驚愕に目を丸める。
「何やってんの、っ」
「いや、月島の顔が見たいと思って」
「見世物じゃないし。そもそも近すぎるんだけどっ」
「あはは、ゴメンね」
「ツッキー、照れてる?」
「うるさい、山口」
「ゴメン、ツッキー!!」
 保健室の中に私と忠の明るい笑い声が響く。月島だけは溜まったものじゃないと顔を歪めていたけれど、私の手を握ったその手が離されることはなかった。  



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