煉獄02

墜落の日



 悪い夢を、見た気がした。
 掛けていた布団を跳ね飛ばし身体を起こすと、体中に汗が滲んでいることに気付かされる。
 額から汗の粒が落ちた。布団に落ちたそれは、瞬きひとつ挟む間もなくじわりと染みを作る。ぽたり、ぽたり。落ちる度に増える染みは、重なって大きな図を描く。
 強ばる腕を上げ、手の甲で汗を拭う。着物の袖に汗を吸わせながら、ぎゅっと強く瞑目した。
 一度、二度と、深い呼吸を繰り返し、荒い息を整える。担当していた区域の鬼を討ち、久方ぶりに自宅で横になって眠ることが出来たというのに悪夢に魘されるなんて――。
 大きな体躯には不釣り合いなほど小刻みに震える肩を、反対の手で掴むことで押さえつけた。
 十二回。乱れた呼吸を戻すまでにかかった深呼吸を数え、最後に、と深く息を吐き出す。
 薄ら寒い背筋は、急に生まれた汗のせいだ。そう自らに言い聞かせ、のろりとした足取りで寝所を出、廊下の窓辺に立つ。手のひらを、そっと玻璃へと押しつける。ひんやりとした夜の名残を肌に馴染ませながら、じっと空を見つめた。
 夜のほとんどは、日の光に追いやられていた。ゆるゆると白んでゆく山間に昇る太陽を見つめていると、黎明の空にうっすらと、だが、強い光を放つ星がひとつ、落ちていった。
 星は、散り際にひときわ輝く。己が炎で身を焦がすがごとく、燃えて、散っていった星の軌道が目に焼き付いた。
 瞬間、〝悪い夢〟が身内に蘇る。起きてなお、身体を震わせるほどの悪夢。その内容は、微塵も思い出されない。だが、それが〝恐怖〟であることを、俺は知っていた。
 ――あの星は、誰のものだろうか。
 漠然とした予感があった。あれは凶事だ。災禍が起こる前の、予兆。例えば、草履の鼻緒が切れるとか。例えば、触っていない湯飲みに突然亀裂が入るとか。そういう類いのものだ。
 心臓が痛い。玻璃に当てていた手を引き、左胸に添える。胸中に忍び寄る黒い影を、押し潰すように自分の衣服に爪を立てた。痛みが走る。そのことに気取られた瞬間だけは、怯えが消えた。だが、それはほんの一瞬で、永く続くことはない。
 乱れ始めた呼吸を、意識して整える。昇る陽光を睨み据えていると、ひどい顔をした男の顔が玻璃に映り込んだ。普段、鏡で見るときよりも幾分も落ち窪んだ瞳がぎょろりと動く。生気が無い分、薄気味悪さを露呈するだけだった。
 ――どうした。そのような顔では幸せも裸足で逃げていくぞ!
 不意に、溌剌とした声が耳に蘇った。杏の声だ。
 そのように言われたのは、酒に悪酔いしたときだったか。それとも女にこっぴどく振られた時だったか。記憶は定かでは無いが、今と同じように胡乱な顔つきでしょげた俺の背を杏の手が力強く叩いたことだけははっきりと覚えている。
 あの時の痛みを思い起こそうと集中したが、汗に濡れた不快感に邪魔されて上手く思い出せない。
「……なぜ、今になってあんなことを思い出すんだ」
 自らに問いかけたが、明確な答えが出るはずもない。居心地の悪い感覚を抱え込んだまま、記憶にある友の声に耳を欹てる。
「――……クソが」
 身体をずらし、玻璃にこめかみを押しつけた。ざわめきはまだ消えない。沸き起こる不快感から目をそらしたまま、じっと東の空を眺め続けた。
 太陽が次第に昇っていく。朝が来ることは、鬼殺隊に属する俺にとって、命を得ることに近しい。またひとつ、夜を越えたのだという実感は、鬼の首を落とすことと同等の喜びを与えた。
 だが、今はどうだ。じわりと染み行く恐怖は、日が昇れば昇るほどに折り重なっていく。
 ――この朝が、怖い。
 理由のわからない違和感を。克服できない恐怖を。ぐっと飲み下せぬ代わりに、口内に溜まり混んだツバを飲み込んだ。



 一日が始まる。その直前の予感は、悪い意味で当たることになった。



「どうした、鴉よ」
 身に覚えのない恐怖について考えるよりも、身体を動かした方がいい。その一心で、朝餉も取らず道場で木刀を振るっていた俺に鎹鴉が舞い込んだ。首に掛けた手ぬぐいで汗を拭き、鎹烏の報せに耳を傾ける。
 なにか、新しい指令だろうか。お館様より下される命は、いつもどこかの不幸を報せる。与えられた使命を、元凶である鬼を倒し、救ってきた。鬼殺隊として、その柱として生きてきたのだという自負が、あった。
 だからこの時、発せられる鎹烏の報せに、警戒などしていなかった。

「煉獄杏寿郎、討死。相手は上弦の参」
 
 鎹烏の告げる凶報を、にわかに受け止めることが出来なかった。緩んだ手のひらから木刀が滑り落ちる。
 高い音が響く。だが、跳ね返りを数度繰り返せば、その音は次第に小さくなり、やがて消え去った。
 広い道場の中、鎹烏の旋回の音だけが場に残る。俺の頭上を回る鎹烏の羽音が、どこか遠い空のもののように感じられる。双眸を見開き、落とした視線が道場の板張りを捉えた。
 杏が、死んだ――? 
 鬼殺隊に在籍している以上、明日をも知れぬ身だと重々理解している。だが、あまりにも突然過ぎではないか。
 身体の真横で拳を握る。突然の凶報に、打ちひしがれる。
 俯いたことで滑らかになったせいだろう。額から流れた汗が、板張りへと落ちる。今朝方、布団の上で見たものと然程変わらない状況に歯を食いしばる。
 もっと「どうして」と、狼狽えるかと思っていた俺が、意外にも落ち着いていることに気がついてしまう。
 ――これ、だったのか。
 今朝方、黎明の空を落ちる流星を見た。その前には悪夢に叩き起こされた。
 今、振り返ってみれば、それらすべてが杏に襲いかかった不幸に即しているのではないかとさえ思える。
 嫌な予感が十分にあったのだ。だからこそ、その恐怖を忘れようと稽古に打ち込んだ。木刀を振るう中で、ただ、来る恐怖に対する心構えを、蓄えていた。
「そうか、杏が――」
 それ以上の言葉が出なかった。俯かせていた顔を上げ、空を舞う鎹烏に手を伸ばす。掲げた前腕に止まる鎹烏が、俺に寄り添うように静かに額を寄せた。
 数日前、〝無限列車に巣くう鬼を滅殺するように〟というお館様の指令を受けたのだと杏は言っていた。
 それが終わったら、また、少しの暇が出来る。「また定食屋にさつまいもの味噌汁でも食いに行こう」という杏の誘いに「そこはサンマの定食だろうよ」と返した。取るに足らない会話だ。だが、それが今になって、ひどく惜しい。
 思えば、杏とはよく一緒に戦った。
 同期として鬼殺隊に入った頃から今まで、実力の拮抗する俺たちをお館様はよく組ませた。そこには成長速度の似通った俺たちが、互いが互いの刺激になるように、というお館様の思惑もあったんだろう。使う技が対照的で、弱点を補い合える戦い易さもあった。息が合っていたと感じていたのは、決して俺だけではないはずだ。
 力強い輝きと共に差し向けられた双眸に、少なくない信頼があった。
 同じ鬼殺隊として。同期として。柱として――男として。こいつにだけは負けられないという意地と、共に戦うことに対する安息があった。
 無条件に背を預けられる男は、そうはいない。きっと、これからも出会うことはないだろう。
 ぽたり、と水の玉が板張りに落ちた。歯を食いしばり、競り上がる感情を堪えたが、双眸から流れ落ちるものを堰き止めることは出来そうもなかった。

 叶わなかった約束を、俺は誰と果たせば良いのだ。

 友の死に対する慟哭を、鎹烏だけが見守っていた。頭の奥がくらりと痛む。いつのまにか床についていた膝を立て、その場に立ち上がる。まだ、震えが残る背に力を入れた。いつか、友に叩かれた背だ。曲げたままでいるわけにはいかない。
「――覚えておくぞ。上弦の参」
 溢れ出そうになる慟哭を飲み込み、腹の底から、声を絞り出す。炎がひとつ、瞳の内で燃えた。


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