煉獄03

神は告げる


!」
 背後からかかった声に、思わず足を止める。首だけで声のした方を振り返れば、駅構内に溢れんばかりの人の中に、ひときわ目立つ髪色の男が立っていた。
「おお、杏か」
 こちらに向かって片手を上げた杏は、大股でこちらへと歩み寄ってくる。俺もまた、歩む足を止め、杏がたどり着くのを待った。
 明け方近くまで行われた柱合会議の後、お館様の屋敷で飯を食って以来の再会だ。懐かしむ要素もなければ積もる話もない。だが、鉢合わせてそのまま「じゃあな」というのも味気ない。仲間というのは、そんなもんだ。
 俺の正面で足を止めた杏は、いつもの笑顔とともに、横に首を倒した。そこにどういう意味が含まれているのかはわからん。釣られるようにして同じ方向へと頭を傾けると、そのまま杏は言葉を紡いだ。
「お前、ゆうべの話では朝一の列車に乗るんではなかったか?」
 担当地区へ戻るためには、夜中から歩いて行くよりも、朝一で列車に乗った方が早いという判断のもと、ゆうべはお館様の屋敷に泊まらせてもらっていた。予定では日の昇りきる前に屋敷を出るつもりだったんだが、今ではもう、朝一と呼ぶには図々しいほどの時間帯になってしまっている。
 傾けていた頭を起こしながら、朝起きた事件の数々を頭に思い浮かべる。遅くなったのは決して俺のせいではないという主張が、突き出た唇に現れたことだろう。
「そのつもりだったんだけどよ」
「なんだ、また寝坊か?」
「いやいや、出かけに何度も足止め食らったんだよ!」
 そんなに寝れるもんか! と主張すれば、杏は快活に笑う。邪気のない笑顔だ。毒気が抜かれていくのを感じながらも、杏から「ならば、何があったんだ?」と、問われれば、答えないわけにはいかない。
「これは愚痴でしかないんだが」
 そう前置いて、杏に朝一から今にかけて起こった身の上話を並べ立てる。
 鎹烏の糞が羽織に落ちた、とか、履いた草履の鼻緒が切れた、だとか。道を歩いていたら、玄関先に水を撒いていた婆さんに引っ掛けられた、というのもあったか。
 ひとつひとつは取るに足りないことであっても、積み重なれば道行く足は重くなり、引き留められれば応じるほかない。
 事実を並べ立てると言っても、どうしても愚痴混じりになってしまう。
 俺が吐き出した怨嗟を、杏はふんふんとうなずきながら受け止めた。
「昨日の朝も、飯食ってたら急に湯呑にひびが入ったんだよな」
「前に浅草で買ったやつか?」
「そうそう、割と気に入ってたんだがな」
 羽織と同じく、菱青海波模様の湯呑は、入隊した頃に杏と一緒に立ち寄った店で買ったものだった。
 色合いもそうだが、手に持った時の馴染みの良さが気に入っていた。だが、縦に入った亀裂はちょっとやそっとの修繕では足らんだろうと泣く泣く諦めたのはまだ昨日の話だ。
 昨日、今日にかけて、とにかく運が悪い。そう嘆いたところで改善するようなものでは無いとはわかっている。だが、嘆く気持ちは簡単には収まらない。
「また買いに行けばいいじゃないか」
「まぁ、そうなんだが……墨の色味も筆のかすり具合もあるからな」
はこだわりが強いからな」
 肩を揺らして笑う杏に、唇を尖らせる。いくつもの愚痴を投げつけても、事もなげに杏は笑う。たとえこの先、俺の身に一大事が降りかかったとしても、この男にかかれば些末ごとのように扱われることだろう。
 あっさりとした杏の態度に、うじうじしている自分が馬鹿らしくなってきた。はぁ、とひとつ溜息を吐き出し、手のひらを額に押し当てる。
「やめだやめだァ! 辛気くせぇのは性に合わん!」
「うむ! それでこそだ!」
 頭を振って叫んでみせると杏は実に楽しそうに笑った。でかい笑い声に負けじと、力強い手のひらが肩に二度落ちてくる。景気づけのつもりなのだろうが、不意の攻撃に思わず噎せてしまう。沈んだ体を起こしながら杏を見上げると、杏は目を細めて応じた。
「今度、暇があるときに一緒に見に行くか」
 胸の前で両腕を組んだ杏は、会心の案だと言わんばかりに笑顔を振りまいた。
「お前、そんなこと言ってるけど目当てはあの定食屋だろうが」
 まだ入隊したての頃、担当地区に割り振られたのが浅草近辺だった。
 比較的都会ということもあり、飯を食う場所には困らない。むしろ妙な飯を出そうものなら即座に廃れる環境と言っても過言ではない。
 数ある店の中でも、杏が特に気に入っている店がある。出されたさつまいもご飯に対し、絶品だ! 文句なしに美味い! と杏が声高に叫んだのはもう4、5年くらい前の話だろうか。懐かしさを胸に抱え、口元をかすかに緩めた。
「はは。悪い話じゃないだろう」
「まぁな。旅は道連れ世はなんとかってな」
「情け、だな」
 うんうん、と頭を縦に揺らす杏はずいぶんと楽しそうだ。こいつ、俺が茶碗を割って嘆いたっての忘れてんじゃねぇだろうな。
 つい今し方の話題に対し、無頓着とも言える反応をとる杏を、じろじろと見つめてみたが、態度が改まることはない。きっと頭の中にはいずれ食うことになる飯のことでいっぱいなんだろう。杏らしいと言えば杏らしい。
「また定食屋にさつまいもの味噌汁でも食いに行こう」
「そこは秋刀魚の定食だろうよ」
 数ある絶品の焼物を差し置いて、汁椀を楽しみにするのなんてきっと杏くらいだ。口の端を上げて笑っていると、杏は不思議そうに首を傾げた。
「いやいや、お前の芋好きには頭が下がると思ってな」
「そうか! 俺はお前の秋刀魚好きには結構呆れているぞ」
 眉を下げ、心底呆れたという表情を浮かべる杏は、俺を簡単に否定する。
「なんでだよ!」
「よもや朝から3尾も食うとは思わんだろう」
 呆れ顔をますます色濃くさせる杏は、3尾目を注文した俺を尻目に、「会議に遅刻してはいけない」と言ってさっさと先に行ってしまった。思い出すと同時に反射的に口元を曲げる。
「食おうと思えばもっと食えるわ! だがあの日は柱合会議の時刻が――」
 声を荒げた俺の声に被さるように汽笛が鳴り響く。反射的に言葉が途切れ、周囲を伺えばどうやら杏が乗り込む予定の『無限列車』の出発時刻となったようだった。
「おっと、そろそろ定刻のようだな」
 組んでいた腕をほどき、前にかぶさっていた羽織を払う杏の体越しに、ちらりと日輪刀の鞘が見えた。非日常――否、俺たちの日常へ戻る合図は、それだけで十分だった。
「じゃあな。
「おう」
 片手を掲げ、列車へと向かおうとする杏の背中を見送り、俺もまた、踵を返そうとする。だが、自らの肩越しに見えた杏の背中の輪郭が、一瞬、ぼやけた。
 目にした途端、胸の内に波紋が広がる。ぞくりと粟立った肌の不快感に、顔を歪めた。

 ――行かせてはならない。

 離れてはならないと、直感が働いた。一瞬で肝が冷えた感覚を振り払うようにバッと身を翻し、手を伸ばす。
「――杏ッ!」
 駅構内で叫んだ俺を周りの人が不思議そうに振り返る。名を呼ばれた杏も例外ではない。丸い目を更に丸くさせ俺を振り返る。自身の腕を掴んだ俺を不思議そうに見やる杏が、目を数度瞬かせた。
 思考が空転し、うまく言葉が出てこない。一度背中に張り付いた汗だけが、まだ問題の渦中にあるのだと主張した。
 薄気味悪い感覚は、母親に抱きかかえられたまま、海に沈められたときのものとよく似ている。この不快さを、どう杏に伝えるべきなのか。ただ、漠然と感じた直感を、言ってどうする。いたずらに不安にさせるだけなのではないか。
「どうした? 。変な顔をしているぞ」
 耳の奥で響いていた潮騒が、杏の声により掻き消された。詰めていた呼吸を、吐き出した。喉の通りがよくなると、湧き上がったばかりの不快感が引いていく。
 傾いだ感情を立て直し、表情を取り繕うように口の端を持ち上げた。
「いや……気ぃつけろよ」
 突如として浮かぶ上がったざわめきを押し殺し、障りにならないような言葉を差し出した。それでも残る虫の知らせが、杏の身を案じるような言葉を紡がせる。
「ああ! も、もう乗り過ごすんじゃないぞ!」
「おぉ、そうだな……」
 振り切ったはずの胸騒ぎが、まだ確かに胸の内にある。なんだ、と自分の胸元に視線を落としたが、その正体が見えるはずがない。
 煮えきれない態度を見せる俺に、杏は息を吐き出した。同時に、トン、と額に力がかかる。目線を上げれば杏の指先が、俺の額を突いていた。
「顔を上げろ、波柱」
 は、と息を呑んだ。普段、友として過ごす顔ではなく、炎柱としての杏の顔がそこにあった。
「らしくない。出陣前にそんな浮かない顔をするな。俺たちは柱だ。人々を助けるために、常に前を向けと言ったのはお前だろう」
「俺が言ったのは、鬼を倒すのに臆したら死ぬぜってことだ」
「似たようなもんだろう」
「根本が違うわ」
 手を払い、杏の指先を撥ねのける。杏への反発心が生まれると同時に、どうしようもない怯えが立ち消え、今度こそ、見送るための覚悟が出来た。
 横目に周囲の様子を伺えば、次第に列車へと乗り込む人数が減ってきていることに気づく。このまま引き留めると目の前の列車を逃しかねない。
「じゃあな、杏。飯のこと忘れんなよ」
「あぁ、忘れないさ――湯呑はいいのか?」
「お前の場合は飯の方が忘れんだろう」
 はは、と笑い、深く一度頷いた杏は、俺に目線を合わせ、それから列車へと足を向けた。無限列車に乗り込んだ杏がこちらを振り返る。鉢合わせたときと同じように手を掲げた杏に、俺もまた手を振って応じた。
「本当に、気ぃつけろよ。杏」
 ぽつりと言葉をこぼす。その場を立ち去ろうと踵を返せば、朝方、履き替えたばかりの下駄の鼻緒が、ぶちりと千切れた。


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