煉獄04:夕凪

夕凪



 沈む夕陽を横目に眺め、海岸沿いを杏とふたりで歩く。幼いころに住んでいた村とはまったく違う景色のはずなのに、どこか懐かしさを覚えるのは鼻をかすめる磯の香りのせいだろうか。それとも規則正しく耳に響くこの波の音のせいだろうか。

「……海なんて久々に来たな」

 寄せては返す波を眺めていると、引き寄せられるように自然と足が止まる。そのままぽつりと言葉を零せば、少し先を歩いていた杏がこちらを振り返った。

「何か言ったか? 
「あぁ。海の任務は久しぶりだと思ってな」
「うむ! たしかに普段は山間の任務ばかりだな。海では身を隠すこともままならない場合が多い。鬼にとって利点がないのだろう」

 俺の弁に同意したとばかりに大きく頷いた杏は、己の意見をハッキリとした声で口にした。杏の言葉に触発され、ぐるりと周囲を見渡す。
 鬼の姿どころかひとっこひとり見えやしない砂浜。遠い水平線に今にも太陽を沈めようとする海原。ただそれだけの寂しい景色はやけにだだっ広い印象をこちらに与えた。
 海から吹く風は晩秋のもの寂しさを纏い容赦なく全身の熱を奪っていく。寒さひとつとっても家に籠もる理由になるというのに、周囲に異変が起きていると感じれば尚更このような時間に外に出たりはしないのだろう。
 この風景は鬼が潜むには拓けすぎている。なのに、人は襲われる。近隣の村に潜んでいるのか。それともこの海岸沿いにある洞穴を根城にしているのか。先遣隊の情報である程度絞られては来たがそれでも特定には至っていない。
 ――よもや海に潜んでいるとは⋯⋯言わねぇよなぁ?
 浮かび上がった疑念を訝しみながらも、確認もなしに捨ておくことも出来ず横目に確認する。
 強い西日は容赦なく地を照りつける。眩い陽光は地上のみならず海中にも届くはずだが、もしかしたら岩の裂け目や沈んだ小舟の影など陽の届かない場所に隠れているかもしれない。
 かつて自分が母親に抱きかかえられたまま海に沈められた時はどうだったか。記憶の底を探ってみたが、あの時は浮かび上がるのに精一杯で満足に周囲を見渡す暇などなかったと思い出すだけだった。そもそも事を起こされたのが夜半であったことを思えばなんの参考にもならないだろう。
 唇をすぼめて息を吐き出し、頭の中を鬼へと切り替える。海に纏わる血気術を繰り出す鬼にはまだ会ったことはないが、そのような鬼を倒す任務受けた場合、やはり人を襲うべく陸に上がったところを狙うしかないのだろうか。
 まだ見ぬ敵への対策に考えを巡らせていると、ふ、と口元を弛めた杏はまた前を向いて歩き始めた。
 その背を追うように俺も同じく足を踏み出す。砂を踏みしめる度に沈む足下の覚束なさに、物懐かしさを感じながらも再び視線を脇へ転じる。
 沈む太陽の光が波間に揺れる度、目に痛いほどの目映さが叩き込まれる。痛みに抗わずに目を細め、これから向かう任務内容を脳裏に浮かべた。
 鎹鴉曰く、その鬼は先程立ち寄った村をはじめ、この近辺にある漁村を転々と襲っているという話だ。先に向かった隊員からの支援要請が届く度に応援は出されていたようだが、一向に状況は改善されず、とうとう柱である杏とその次の柱候補と名高い俺にお鉢が回ってきた。
 ただそれだけで、嫌でも難敵だと認識させられる。もちろん端から油断するつもりは無いがより一層、気を引き締めねばならぬと唇を結んだ。
 きゅっと眉根を引き締めて前方を睨む。だがそんな俺の決意とは裏腹に、先を歩く杏の背が楽しげに揺れるのが目に入った。

「おい、なんだ杏。なに笑ってやがんだ」
「いや、とふたりで任務に赴くのも久し振りだと思うとな」
「あぁん?」

 それのどこが楽しいんだ。むしろ俺とお前が揃っちまうなんてよっぽどの強敵だろうよ。
 杏の意見を否定するつもりはないが、たった今、俺が懸念したばかりの印象とは真逆な言葉を吐かれると、どうしても納得がいかず首を捻ってしまう。

「入隊した時分はよく一緒に組んでいたが、最近はめっきり減っただろう」

 杏の言う通り、同期入隊の俺たちは合同任務を与えられる機会が多かった。
 炎と波。受ける言葉の印象は真逆だが、剣技の腕が同格なら技を繰り出す頃合いもよく合った。怪我を負う頻度も重なれば同じ藤の家に厄介になり、回復する頃にはまた同じ任務を宛てがわれた。
 だがそれも本当に初期の頃の話で、階級が上がる毎にその頻度は減っていき、今では半年に一度、会うか会わないかになっている。

「そりゃ炎柱様とは気軽に組めないだろうよ」
「俺が柱になる前から減ってただろう?」
「それはお前が継子の甘露寺さんと組めるように御館様が配慮なさってんだろ」
「はは。たしかにと甘露寺を組ませるわけにはいかないからな」

 肩を揺らして笑う杏の言葉に、苦虫を噛み潰したような表情が浮かび上がる。それだけでは滲む羞恥に抗えた気がしなくて脇へ視線を逸らした。
 任務を振り分けるのは主に御館様の采配に依るところが大きい。甘露寺さんだけでなく女性隊士と組ませないのは女好きと悪評高い俺を退けるためなのか、それとも内実は真逆であることをご存知なのか。果たしてそのどちらの意図であったのかは知らないが、結果として俺にやってくる任務に女性隊士が含まれることはほぼないに等しいのが現状だった。
 それをわざとらしく嘆く俺を杏はからかっているのだろう。いまだ肩を揺らす杏の背に軽く拳を突き立てれば杏は謝罪の言葉を口にしたがそれでもなお軽い笑いを絶やすことは無かった。
 ――ホント、なんで今日に限ってこんなに笑ってんだ?
 普段から人当たりのいい杏が無闇に不機嫌さを振りまく性質ではないと重々承知している。だが、今は鬼の討伐に向かう直前。場にそぐわないほどの機嫌の良さを露わにされると無性に理由が気になってしまう。

「いやに楽しそうだな」
「そりゃ楽しいさ」
「だけど今は任務前だろう? さっきの村で何かいいことでもあったのかよ」
「うむ! 先程の村での食事はよかったな! 特にさつまいものてんぷらは絶品だった!」

 ぐっと拳を握った杏は先程食べたてんぷらの味を思い返しているのだろう。今にも「わっしょい!」と叫び出しそうなほど声を弾ませた。
 そういうことじゃないんだが。そう呆れてしまったが、あまりにも杏らしい答えに小さく苦笑する。唇から微かに漏れた笑い声を拾い上げたのか、らんらんと目を輝かせた杏は、ぐるりとこちらを振り返った。

「だが、食事だけじゃないぞ」
「ん?」
「先程も言ったが、今日は久し振りにとの合同任務なんだ。本来なら任務を楽しむなんてあってはならないが……その道中くらいなら少しは浮かれても構わないだろう」

 真面目に任務にあたるのは大前提。だがそれを踏まえても共に戦えることが嬉しいのだと口にする杏に思わず目を瞬かせた。
 杏の弁を一蹴するのは簡単だ。だが真正直な言葉を受け止めてしまえば「ガキみてぇな屁理屈だな」なんて憎まれ口を叩く気にもなれない。それに俺だって御館様から指令をいただいた際には少なからず胸を躍らせたものだ。
 命が掛かった場面を前に楽しみだと心が揺れ動くなど俺ひとりかと思っていたが、いやまさか杏までとは。もはや同期と呼ぶよりも同類と呼んだ方が正しいのかもしれない。そう思うとなんだかおかしくて喉奥でくつくつと笑ってしまう。

「なんだ。今度はが笑い出す番か?」
「あぁ、どうやらそうみてぇだ」

 いきなり笑い始めた俺を追求するでもからかうでもない杏はこちらの様子を窺わぬまま先を歩き続けた。ニヤニヤと笑う俺を意に介さない背中を見つめながら手の甲で頬をこすり表情を取り繕う。
 ――ここだけの話にしておかないと生真面目な悲鳴嶼さんの耳に入ったらまた泣かれちまうな。
 なんならその場に正座させられたうえで説教が始まっちまうかもしれない。危惧する未来が来る可能性に自然と眉尻が下がる。後で杏にも釘を刺しておかねぇとな。今の話が不謹慎か冗談で済むかの判断くらい言わなくとも承知しているだろうが、明け透けと言ってのける姿も簡単に想像できるからな。
 胸の前で腕を組み頭を揺らして誓いを胸に刻んでいると、前を歩く杏がこちらを振り返った。

「そう言えばは以前、海の近くに住んでいたんだったな」
「ん? あぁ、そうだな」

 鬼殺隊を志す前はたしかに漁村に住んでいた。その話は何度か杏にも伝えていたが、いきなりそれがどうしたと言うのだろうか。道案内は鎹鴉に任せているし、この辺りの地理は故郷では無いので詳しくは無いのだが。軽く首を捻りながら「それがどうしたよ」と促せば、杏はぐるりとこちらを振り返る。

「いや、はどんなこどもだったんだろうなと、ふと気になってな」

 何を突然言い出すのかと思えば。唐突に俺の出自に話が及んだことに思わず顔を顰めてしまう。眉尻を下げて困惑を露わにする杏を見るとなおさらだった。

「今、そんな話をしてる場合か?」
「あぁ。それもそうなんだが⋯⋯なぜだかわからないが、今、聞いておかねばと思ってな」

 頭の後ろを掻きながら自分でも理由はわからないと正直に口にした杏は俺以上に戸惑っているようだった。海を前にして故郷を懐かしむ俺の気持ちが杏にも伝わったのだろうか。それとも――。
 もう一案が頭に浮かび上がると同時に警戒心が沸き起こる。眉根を寄せ、じっと杏の顔を見つめたが、杏はただ困ったように首を傾げるだけだった。その表情を見つめ続けたところで答えは得られない。そう気づくと同時にそっと息を吐き出した。
 鬼殺隊に入隊して以来、以前にも増して虫の知らせのようなものを感じることが多くなった。それは俺だけでなく恐らくどの隊士も経験しているはずだ。
 たった今、困惑と共に俺に質問を投げかけてきた杏もまた、一抹の不安を覚えたのではと疑ってしまう。例えば〝この後、俺が死ぬかもしれないから今のうちに聞いておこう〟だとか。
 そこまで考えたうえで改めて杏の表情をうかがった。だが、やはり杏自身も測りかねているものを俺にわかるはずもなく、いつになく困ったような顔をする杏の顔を目に焼き付けるだけだった。
 ――そんな顔をしてると千寿郎くんそっくりだな。
 何度か顔を合わせたことのある杏の弟、千寿郎くんの姿を脳裏に浮かべる。兄弟どころかその父も含め、煉獄家の面々はよく似た顔立ちをしていた。それでも彼らから受ける印象が違うのは、相手の為人や背負う覚悟の差があっての事だ。
 だが、いつもは自信に満ちた表情で生きる杏が眉尻ひとつ下げるだけでこんなにも千寿郎くんに似るとは知らなかった。五年後の千寿郎くんと言われても信じてしまいそうだ。煉獄家の血の濃さを目の当たりにすると、思わず苦笑していた。

「⋯⋯まぁ、いいか」
「ん?」
「まだ日が沈みきるまで時間はあるしな。それに移動中くらいは浮かれてもいいんだろ?」

 これ以上、不安を探したところでなんの意味もない。未来に不安があるのなら、任務時に気を払えばいいだけの話だ。
 そもそも道中くらい楽しんでもいいと言い出したのは杏の方だ。今はその言葉の尻馬に乗っかるが吉ってやつだろう。

「どんなこどもだったか、か⋯⋯そうだな。今より物怖じはしなかったな」

 絶壁の上から度胸試しに海に飛び込んだり、魚や貝を捕ろうと潜っては呼吸の限界まで海底を漁ったりもした。捕れた食材に応じてその日の夕食が豪華になるんだ。父や母に「危険だから止めておけ」と言われてはいたが、当時の俺に潜らない手はなかった。
 何をするにおいても、躊躇などしなかった。それは決して命を軽んじていたわけではなく、自分の可能性を信じて疑っていなかったからだ。平たく言えば〝こんなことで死ぬはずがない〟と高を括っていた。
 その考えは、父親が鬼となり母親に心中を迫られるまで続いていた。ただひとり生還してもなお染み付いた夜の海の恐ろしさを知って以来、何をするにしても慎重になった感は否めない。
 だが大胆さを失ってはいろいろと損をしてしまう。怯えを飲み込む術を覚えてからは、命を守りつつもいつでもその命を擲つ覚悟で前線に立っている。そういう意味では今もなお物怖じしない性格だと言えるかもしれないが、昔とは覚悟の在り方が違うので一緒にはできない。
 そのような感覚の差を軽い言葉で杏に説明すれば、杏も身に覚えがあるのだろう。「わかるよ」とひとつ頷いた。

「そういう杏はどうだったんだよ。ガキのころはどこで遊んでたんだ?」
「うむ。俺はどちらかと言うと遊ぶよりも父に稽古をつけてもらうことが好きだったからな⋯⋯」

 海を泳ぐより竹林に入り山を駆ける方が多かったと語る杏の話に耳を傾けながら歩みを進める。山になる果実や木の実の美味さを語り始めた杏に対抗すべく旬の魚の美味さを説けば、また腹が減ってきたなとふたりで笑った。
 今の時期では海に入ることは出来ない。だが、また来年、初夏を迎えるころにでも杏と共に海に出る任務があれば貝のひとつでも捕りに潜ってやってもいい。わざわざ俺が潜らなくともおおきな漁村にいけば売ってありそうではあるが、そういう遊びみたいなものを久しぶりにやってみたくなった。

「杏」
「ん?」
「任務が終わったらここを発つ前にまたさっきの定食屋に行こうぜ。朝なら捕れたての魚にありつけそうだ」

 今はまだ海を潜れない。ならば、と手近な約束を取り付けるべく提案すれば、杏は「うむ! そうしよう!」と大きく頷いた。心地いい返事に口元を弛めながら頷いて返す。
 頭を揺らしたせいか、ふと横目に眩しい光が差した。視線を転じれば、先程よりも一段と夕日が沈んだ景色が目に入る。
 あぁ、もうすぐ――。

「――もうすぐ、日が暮れる頃だな」

 俺が頭に思い描いたばかりの言葉を杏が紡いだ。またひとつ、それに頷いて返しながら楽しい気持ちへと傾いた心を立て直す。きゅっと唇を結び、行く道を真っ直ぐに見つめた。
 夕暮れはいずれ夜へと姿を変える。そうなればそこはもう鬼の棲む世界だ。

「なぁ、そろそろ着くのか?」
「あと半刻ほどの距離と言ったところだな」
「ハァ?! ……そんなに遠いのかよ」

 だったらわざわざ砂浜を歩かなくとも、もっと歩きやすい道もあっただろうにと溜息を吐きこぼす。だが「夕焼けが綺麗だ!」などと叫んで砂浜へと降りていったのは俺が先だったか杏が先だったか。その記憶はもうとうに吹き飛んでいってしまっている。
「日が落ちるのもまだまだ先だろうよ」と説得めいた言葉を口にした俺が先に駆け出したような気もしたが、都合の悪い記憶は放り投げるに限る。

?」
「あぁ、悪い。――日が暮れる前に現場を検める必要もある。そろそろ走るか?」
「そうだな。鬼も俺たちを待っていることだしな」

 俺の言葉に頷いた杏はぐるりと周囲を見渡し、誰の姿も無いことを確認しているようだった。俺もまた視線を走らせた後、杏を見上げる。軽く頷きあった俺たちは、ぐっと膝裏に力を込め、呼吸を整えると一息に駆け出した。半刻と言ったが、この速さなら数分のうちには着くだろう。
 日のあるうちに潜伏する鬼を発見し、仕留めることが出来ればそれほど楽な話はない。だが、現実はそう上手くは行かない。ならばせめて現場を検め、不利になる状況がないか下調べをするべきだろう。昨日までの戦況は隠の人たちに聞いてはいたが、現場を見るのに勝るすべはないのだから。
 ――鬼が待ってる、か。
 駆けながらちらりと杏へ視線を流した。真っ直ぐ前を見据えたまま駆ける杏の横顔を眺めたまま、先程の言葉を頭の中で反芻する。待ち人などやさしい間柄ではないのは百も承知だ。俺たちは互いの命を賭け、戦い合うしか道はない。
 ――賭けになんてしない。勝つのは俺たちだ。
 これまでの被害を考慮すれば楽観すべきではないと戒められそうではあるが、俺と杏まで引っ張り出したんだ。当然、負けるはずがないだろう。
 きゅっと口元を引きしめ誓いを新たにすると、足裏により力を込めた。明日の朝日を待つために、今日も俺たちは夜を行く。


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